3. 黒坂良一
<通常であれば感染力が高くないユーフォリック症(俗称”幸福症候群”)を人為的に、かつ症状を著しく促進させる形で拡散することは日本国に対する明確なテロ行為であり、その実行者の特定および捕縛を命ずる>
これが黒坂に与えられた命令の概要であり、建前だった。
黒坂が属する警視庁公安部特別機動調査室、通称“公安特機”は、国家体制を脅かす事案のうち短期的スパンで発生したものについて機動的に対応するために新設された組織であり、目下のところユーフォリック症の人為的拡散がその主な捜査対象となっている。ユーフォリック症に対する肯定的な発言を行う人物の監視なども主業務のひとつだ。
「発症する人間と自殺する人間は、統計的によく似てるらしいっすね。死にたいやつが幸せに死ねるなら、死なせてやりゃいいと思うんですけどねえ」
運転席の後輩、明石は軽薄な口調を隠すことなくそう嘯いた。
目的地は、捜査対象が居住している集落だ。現地の協力員や潜入捜査官の情報をもとに、背景などは一通り洗い終えた。到着次第、実行者の捕縛に踏み切る手筈となっている。
「まぁ労働力が減ると困るってのはわかるんですけど」
「お前は感染しても発症しないだろうな」
「え、なんかそれひどいなぁ。バカみたいじゃないっすか」
死にたいほど辛い目に遭っている人間が、せめてもの幸せの中で死ぬ。
それが救いなのであれば何よりだと、黒坂は思う。
捜査対象の住居付近に出られる裏道を走る。相当な悪路だが、集落の正面から乗り込むわけにもいかない。
いくらもしないうちに木々が途切れ、集落の辺縁までたどり着いた。
「さて、行きましょうか。……しっかし、本当に僕ら二人だけでいいんですか?」
「ああ。武装の情報は入っていないし、大人数で行っても目立つだけだ」
「……そっすか」
道に迷った登山客に見えるよう山歩き用の服装に着替え、拳銃をホルスターに潜ませる。
明石がさりげなくスマートフォンでどこかに連絡しているようだったが、黒坂は気にも留めなかった。
念のため家屋や木々に身を潜めながら目的地の住居に近づいていくものの、これまで黒坂が相手にしてきたテロ組織や宗教組織と異なり、警備らしい警備は一人も存在しないようだった。既に日も落ちており、潜入するのは容易そうだ。
「……無防備っすね」
「潜入させた人間によれば、実行者——少女だそうだが——は大事にされてはいるものの崇拝されているわけではないそうだ。集落にいるのは幸福に死ぬために集まった人間達だからな……その目的を捨ててまで彼女を守ったりはしないということなんだろう」
「なんつーか、自分勝手なんですねぇ」
「……」
黒坂は答えず、実行者の住居の勝手口にたどり着く。明石に目配せをしたのち、音を立てないようにドアを開ける。部屋の奥から話し声が聞こえた。
「……仕方ない。制圧するぞ。音は立てるな」
「了解」
小さく、短いやりとりののちにホルスターから銃を抜き、土足のままで侵入する。勝手口から続く廊下の左右にはいくつか部屋があるが、そのいずれも電気が消えており人の気配はない。突き当たりの部屋は少しだけ扉が空いており、光が漏れ出していた。目線だけで明石に意図を伝え、扉付近まで進んでいく。
話し声は、若い女性二人のようだった。
扉が近くにつれ、内容が聞き取れるようになってくる。
「あなたは——生きるのと、幸せになるの、どちらがいい?」
「それは——」
それは。
黒坂にとっては理不尽なまでに不意を衝く問い。内心に広がるわずかだが確かな動揺は、果たして明石に気取られたのかどうか。迷いをかき消すように進む速度を上げ、扉を一気に開いて黒坂は室内に踏み込んだ。
「動くな」
銃を向けながら短く告げる。
簡素な和室に若い女性が二人。奥に座る和装の少女がおそらく——実行者。
「明石」
「はい」
銃をしまった明石が実行者の背側に周り、取り出した手錠で後ろ手に拘束する。実行者——集落ではあいな様と呼ばれる少女、本名草薙藍那は大人しくそれに従った。ぽとりと手から落ちたのは採血管だ。
驚きの表情で固まっている手前の女には見覚えがあった。
……いつか捜査網に引っかかったフリーライターだった。桜井悠といったか。どういうルートを辿ったのか、黒坂らの協力員を見つけ出して接触し、ごくごく短時間の会話だけで核心の情報を抜き取っていった正体不明の人間。しかしこの対応の無様さを見るに、単に洞察力が鋭いだけの素人なのだろうと、黒坂は結論づけた。
草薙藍那を拘束し終えた明石が黒坂の方に戻ってくる。
「こっちの方はどうします?」
「縛って放置だ」
「わかりました」
明石がもう一つの手錠を取り出し、固まっている桜井悠を向き直らせて背中側に手を持ってくる。ガチリと音が鳴ったところで。
「悪いな、明石」
「え?」
彼の背中で、スタンガンのスイッチを入れた。
一瞬の痙攣ののちに、明石が昏倒する。彼の手からスマートフォンが落ちる。その画面から、誰かにショートメッセージが送られているのを黒坂は見てとった。
「ちっ……! やってくれたな明石!」
急いで草薙藍那の元に走り、彼女を乱暴に立たせる。その次の瞬間、住居の外から多数の足音が聞こえてきた。
「こっちだ! 来い!」
草薙藍那を引きずるように、勝手口に向かう。数名の捜査員と鉢合わせるが、手加減している余裕はなかった。出会い頭に殴りつけ、その場に叩き伏せる。
「ちょっと! 待、待って!」
黒坂の背後から桜井悠の声が聞こえた。振り向けば、自由な両手で立ち上がりこちらへ駆け寄ろうとしている。明石が黒坂の足を引っ張るべく、手錠をかけたふりをしたのだろう。
転がるように住居を出て、草薙藍那の衣服を引っ張りながら駆ける。背後からはついに銃声が聞こえてきた。桜井悠は何かを喚きながら、それでも黒坂の後ろをついてきていた。
何とか車に辿り着き、草薙藍那を助手席に放り込む。すぐに出発しようとしたが、桜井悠は後部座席に飛び込んできた。
多数の捜査員が駆けてくる音が聞こえる。放り出している余裕はない。
黒坂はため息をつきながらエンジンをかけ、車を出発させた。
車全体が跳ねるような悪路を疾走する。バックミラーを見れば、数台の車がすぐ後ろを追いすがってきていた。油断すればスリップして木々に激突しかねない曲がり道を、実現できる最大の速度で右へ左へ抜けていく。
「し、死ぬ……助けて……」
後部座席で振り回されている桜井悠は譫言のように呟いている。
「ごめんなさい。今は血を渡すのは難しいわ」
草薙藍那は冗談なのか本気なのかわからない言葉を口にする。
黒坂の運転技能についてこられる捜査員はいなかったのか、一般道に出る頃には後を追う車両はいなくなっていた。それでも、日本が誇る警視庁公安部の捜査能力からすればほんの一時の空白でしかない。黒坂はこの空白のために、全てを捨てたといっても過言ではない。
「それで。あなたの目的は?」
草薙藍那が黒坂を真っ直ぐに見て尋ねる。
「あんたに、俺の娘に会って欲しい」
黒坂は正面を向いたまま答える。
「できればその血も分けてほしい。金ならいくらでも払う」
「血だけなら、桜井さんのように取りに来ればいいのに」
「それは受け付けてないんだろ」
「そうね。本人以外の使用のためには渡してない。でもそれを確かめる術は、私にはないわ。騙そうと思えば、いくらでも」
「集落について調べた」
黒坂は無表情で言う。車は一定の速度を保ち、彼の目的地へと一直線に走る。
「皆、生きているうちから穏やかになったそうだな。死にたいくらいに傷ついた人間達なのに、集落以外の罹患者よりも落ち着いていると。俺の仲間……だった者からの話では、あんたと会話したことがその要因だと聞いた」
「どうかしら。私は普通にしているだけよ」
「娘はもう、長くない。なのに幸福症候群も発症していない。先天性の疾患だ。もう何年も……何年も辛い治療を続けている。せめて最後くらい穏やかに過ごさせてやりたいんだ。……頼む」
ハンドルを握る手に力が籠る。
草薙藍那は軽くため息をつく。
「まあ、お会いしてみましょう」
桜井悠は後部座席で爪を噛んでいる。
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