第17話 変わらないつもりの日常


「とりあえず……今の話は保留だ。葵……話の続きは、次の土曜日まで待ってくれないか?」


「解った……」


 それだけ言って、葵は帰って行った。俺は気持ちを切り替えるために冷たいシャワーを浴びて、今日は少しだけ遅刻して学校に行った。




 遅刻しても、俺が教室で空気である事は変わらなかった。いつも通りに午前中の授業が終わる。


 チャイムが鳴り終わるのと、ほとんど同時に、今日も篠崎桜奈しのざきさくなが教室く入って来た。

 クラスメイトが注目しているのも同じだ。もう三日目だから、そろそろ慣れたらどうだ?


「榊原君……一緒に図書室に行こうよ。勉強の間でも食べられるように、今日はサンドイッチにしてみたんだ」


 エヘヘと……篠崎はちょっと恥ずかしそうに笑う。俺は教室の視線なんて無視して、篠崎と図書室へと向かった。

 そして勉強しながら篠崎が作ったサンドイッチを食べる。


「篠崎、サンドイッチ美味うまいよ……」


「そんな……榊原君、嬉しい!」


 声のボリュームを下げて、篠崎が微笑む。


「だけどな……次の問題を、しっかり解けよ? 解けるまで……弁当は中断だ」


「えー……そんな……」


 篠崎はそれなりに頑張っているが……昼休みの一時間だけじゃ、とても時間が足りない。


「なあ、篠崎……昨日言った篠崎専用のカリキュラムの事だけど」


 難しい顔で、一年生の数学の問題を解いている篠崎に声を掛ける。


「うん……榊原様、お願いします!」


 篠崎は茶目っ気たっぷりで応えるが――


「でも……榊原君も、あんまり無理はしないでね!」


「……うん? どういう事だよ?」


「だって、榊原君……今日はちょっと、疲れてるみたいだから……」


 篠崎の言葉に、自分の浅はかさに気続く――俺は気持ちを切り替えたつもりだったが、結局葵の事を引きずったままだったみたいだ。


 それにしても……そんな事にも篠崎は気づいてくれるんだ。この学校では篠崎以外にとって、俺は空気なのに。篠崎と喋って、篠崎の笑顔を見ているだけで……嬉しい気持ちになるのは認めるしかないな。


「いや、篠崎……悪かった。俺の事は気にしないでくれ」


 そんなの無理だよって顔を篠崎はしているけど、俺はわざと気づかないフリをする。これ以上葵の事で篠崎に心配を掛けたくないから……いや、正直に言えば……今朝の事を篠崎に知られたくなかった。


 俺は嘘つきだ――


「なあ、篠崎……もっと勉強する気はないか?」


「え……それって、もっと榊原君が教えてくれるって事? だったら……勿論だよ!」


 篠崎は俺を見つめて――キラキラと目を輝かせる。ちょっと胸が痛いが、その痛みを俺は無視する。


「そうか……だったら、放課後に二時間。その後は篠崎も蘭子らんこと遊びたいだろうし、悪いけど俺の家に行って蘭子の世話とか散歩を頼む。だけど……自分の家に帰ってからも、課題を説くくらいの時間はあるだろう? もうカリキュラムは組んであるから……あとは篠崎次第だな」


 結構小五月蠅いことを言ったが――篠崎はやる気満々で頷く。


「うん……榊原君が教えてくれるなら、私は頑張るよ!」


 そんな篠崎を、俺はまた可愛いと思ってしまう――葵に対する後ろめたさを感じながら。


「なあ、篠崎……篠崎の成績はヤバいんだろう? だったら俺が教えるとか、そんな事関係なしに、自分で頑張れよ!」


「はい……反省してます! だから……榊原先生、お願いします!」


 今度は先生かよと、俺は思わず笑ってしまった。


※ ※ ※ ※


 月曜日の放課後から早速、篠崎専用のカリキュラムを始める。


 とりあえず、今すぐ必要なモノはコピーをしておいたが――必要な参考書とか問題集はネットで調べただけだから、このメモを渡す。


「今週中に必要なテキストは買っておくように。金は問題ないんだろ? 蘭子らんこを優先したいなら、雨の日にでも買いに行けよ」


 雨の日はさすがに散歩は出来ないから、蘭子らんこの世話に掛かる時間も減るだろう。


「大丈夫だよ……榊原君が教えてくれたから、全部Amezonで注文するだけだから」


 まあ、今どきはネット注文だよな――俺もクレジットカードは持っているけど、親戚の名義だからほとんど使っていない。それでもキャリア決済があるし、コンビニ払いも代引きも出来るから。俺はそこまで困っていない。


 五時過ぎに、蘭子の世話のためにうちへと向かう篠崎と別れて、俺は今日も七時まで学校に残って、それからバイトに向かった。


 バイトを始める前に、まかないで夕食――それから三時間のバイト。俺にとっては、いつも通りの日常だった。


 それを金曜日まで繰り返す……文也さんは何も言わないけど、本当は葵の事も気づいているのだろうか? だけど、そんな事を気にしても仕方がないし、こんな事を文也さんに相談するつもりもない。


 この一週間の間に、俺は葵の事も真剣に考えた。だけど、答えはまだ出ていない。当然だろ……この三年間の葵の事を、俺は何も知らないのだから。


 だから、結局のところ――葵本人に訊くしかない。今さらそんなことを言うと、葵に呆れられるかも知れないけど……葵に正面から向き合うには、他の方法なんて俺には思いつかなかったんだ。


 そして金曜日のバイトが終わり――葵と約束した土曜日を迎える事になる。

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