写真の女の子

写真の女の子

 夜風が頬を冷やしていく午後7時、少女は通学路を歩いていた。


 夏休みが終わると、中学3年生にとっての大きな学校行事は合唱コンクールと卒業式を残すのみである。

 少女は中学最後の合唱コンクールを1週間後に控えていた。


 園児の頃からピアノに触れ、今も地元のピアノ教室に通っている。日々の練習のかいあって、合唱コンクールで3度目の伴奏を任せてもらった。


 本番と同じ体育館で練習をしたくて、バレー部やバスケ部の活動が終わるまで待っていた。

 体育館の人気がなくなってから、ステージ上にあるピアノで練習を始める。学校の施錠が行われるまでの間、クラス練習で指摘のあった箇所を重点的に練習していた。


 見回りの先生が来て練習を切り上げると、窓の外は真っ暗である。普段の下校よりずっと遅い時間になっていた。

 普段一緒に帰っている友人には、待たせたら悪いからと先に帰ってもらっている。


 少女の地元はのどかな町で、通学路の道路は広い田んぼの間にあった。街灯もなく、車も人の通りもない道は、前も後ろも真っ暗闇である。片道約20分の通学路を、携帯していたライトで照らしながら歩いていた。


 秋になり、日が沈む時刻がぐっと早くなったことを肌で感じる。

 夕方にもなると風は一気に冷え込む。下校する同級生の姿もなく、辺りの静けさが夜を思わせた。


 合唱コンクールの本番が来週に控えている。少女の心中は不安や緊張や意気込みや、様々な感情が忙しなく動いていた。

 それらを紛らせるように、とりとめのないことを考え始める。今日の夕飯はなにかな、宿題が多いな、などと思い浮かべていた。


 少女は、歩いている道のなるべく先を照らしている。

 携帯用のちっぽけなライトでは、真っ暗闇のなかは少し心もとない。ないよりはまし、という程度である。


 足元の少し先を照らすわずかな明かりに、ぼやぁっとしたもやのようなものが見えた。突然現れたようにも思われ、少女は思わず歩みを止めた。

 手にしていたライトを、今度はしっかりと靄に向ける。靄の正体を確かめるようにしっかりと見つめると、それはなんとなく人の形に見えた。


 少女の他は誰一人いない場所で、静かで真っ暗な状況に現れた人影に、少女はひどく驚いた。同時に、驚きよりはるかに勝る恐怖で思考が停止するような感覚に陥った。


 うっすらと淡い人影は、同年代の子どものようであった。髪の長い女の子である。リボンタイのセーラーの制服は、どことなく見覚えがあった。


『からだを…… かして……』


 切望するような、縋るような、しかしおどろおどろしい声音が聞こえた。目の前の女の子の口が動いていたから、発言者は彼女なのだろう。

 脅迫するような響きにも聞こえた声に、少女は竦み上がる。


 ぼんやりと浮かんでいた女の子の影は、次第に鮮明になった。やがてはっきりと人の体を成し始め、ついにははっきりと少女の視界に映る。

 女の子は頭の先から制服に至るまで、びしょびしょに濡れているようであった。


 女の子の長い髪と手指の先から、ぽたぽたと水が滴り落ちる。ふと女の子の足の先へ視線を向けた。少女が手にしたライトでそこを照らすも、女の子の膝から下は闇に溶けたように消えている。


『からだを…… かして……』


「っ……!」


 恐怖のあまり、音のない悲鳴がもれる。


『ひきたいの…… おねがい……』


 なおも女の子は近づいてくる。女の子が、一歩また一歩と近づいてくる度、地面のアスファルトの色が濃くなっている。女の子の髪の毛や制服、指先から滴り落ちる水によって、地面が濡れていく。


 地面の様子から、水は確かに滴っている。しかし女の子の足はなく、そもそも存在自体が不確かであった。少女の心中は混乱を極め、身体は激しく震えていた。


『ことしも、らいねんも…… そのさきもずっと……』


「ぅ……っ!」


『あなたのからだを、かして……』


 極限の恐怖に腰が抜ける。すとん、としりもちを着いてしまって動けない。


 女の子がひたひたと近づいてくる。少女の首に伸ばされた両手は冷たかった。

 ひやっ、とした感覚に再度震えが走る。冷たいのは女の子の手が濡れているからなのか、女の子の足がないからなのか。


 身動きもできずに、ただ女の子を見上げる。


『ねぇ……』


「くぁ……!」


 指のリアルな感触とともに首が絞められる。ついには、息が途絶えてしまいそうなほどの苦しさが、少女に訪れた。


 ブゥーーーー


 遠くから車が通っていく音がした。車のライトが徐々に近づいてきている。

 不意に首の圧迫が消え、不確かな人影もいなくなった。


 震えで動かなかった足にぐっと力を込める。立ち上がった少女の横を、車が1台通り過ぎて行った。


 そして再び女の子が現れる前に、少女は己を叱咤して駆けだした。

 先ほど人影があった方には決して目を向けず、激しく揺れる手元のわずかな明かりを頼りに、がむしゃらに走る。


 街灯と信号機と役所と車、夜の闇に光瞬く人工の明かりが少女を照らす。日常の喧騒が耳に聞こえて、ようやく少女は歩調を緩めて立ち止まった。

 それでも全ての恐怖を薙ぎ払うことはできず、そわそわとした心持ちで自宅を目指す。登校した時よりも、学校を出た時よりも早く足を動かした。


 やっとの思いで帰宅すると、母親が台所から笑顔で顔を見せた。


「おかえり」


「ただいま」


 母親の姿と夕飯のいい匂いに、気が抜けるほどの安堵を覚えた。


 自室で部屋着に着替え、食卓へ向かう。

 母親を手伝って配膳をしていると、視界の端に古めな本が映った。台所と同じ空間にある、リビングのローテーブルに置かれている。


「お母さん、あれなに?」


 少女の問いかけに、鍋をかき混ぜていた母親がリビングの方へ顔を向けた。


「あぁ、それ? お母さんの中学の頃の卒業アルバム。部屋の掃除してたら、久しぶりに出てきたの」


「見てもいい?」


「いいわよ」


 母親の中学時代に興味をそそられ、アルバムを手に取る。母親の出身中学は少女と同じ学校である。


「制服も今とは違ってね」


 母親の指摘を受け、よく写真を見る。少女のリボンとは違い、当時は紐のリボンだったようである。


(そういえばこの制服、つい最近も見たような……)


 はじめから順々に卒業アルバムのページをめくり、ふと一つのページで手を止めた。意識せずとも、少女の手が震えだす。


 卒業アルバムを見つめる娘の背後から、母親も開かれていたクラス写真を見た。料理を食卓へ並べるついでに覘いたらしい。

 クラスの生徒たちが担任の先生たちとともに笑顔を浮かべている。しかし一人だけ、円形の写真で写っていた。


「お母さん、この子って……」


「その子ね、3年の途中に川で亡くなったの。ちょうど今くらいの時期だったわ。合唱コンの伴奏をする予定だったんだけどね」


 悲しいわね、と呟いた母親は台所へ戻っていった。

 母親が後ろから立ち去る音を聞きながら、少女の目はアルバムの一点を見つめ続けた。

 母親は鍋のシチューに火をかけてかき混ぜながら、続ける。


「その子と一緒にいた友達が言ってたの。合唱コンで使う楽譜が風で飛ばされちゃってね、川に落ちたのを拾おうとして亡くなちゃったって」


 亡くなった女の子は、少女と同じく合唱コンクールで伴奏をする予定だった。川で亡くなったということは、溺れてしまったのだろうか。


『からだを…… かして……』


 耳の奥で、頭の中で、女の子の声が聞こえた気がした。

 学校の帰り道に見た、水で濡れた女の子の姿を思い出して身震いする。


 少女の心中に、不安や緊張に勝るとも劣らない恐怖が広がった。

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写真の女の子 @gomokugohan

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