バゲット・アンド・ウィスキー 後編
帰り道に先輩が持っていた雑誌を買った。店頭にあった最後の一冊で、買った直後に別の客が店員に在庫を問い合わせているのが聞こえた。
歩きながら開く。鮮烈なデビューを飾った若きスター、エイブラハム・ウルフ。彼の素顔に迫る。独占インタビュー。
『――俳優を目指したきっかけは?』
『小さい頃から地元の演劇団にいたんです。演技の中で、自分ではない誰かになるのが楽しくて仕方がなくて。楽しいことを一生続けていたいと思ったら、俳優になるほかありませんでした』
『――初主演「恋に落ちたら」で苦労したことは?』
『これまで一度も恋に落ちたことがなかったので、なかなか役に入り込めませんでした。ラブロマンスを読み漁ったり、いろんな人に話を聞いたりしたのですが、それでも実感を得るのにかなり時間が掛かって……綱渡りのような演技になってしまいました』
『――来月公開の新作「マーヴェリック・スパイ」見どころは?』
『国家を脅かす巨大な敵を、一人で切り崩していく爽快な映画です。派手なアクションはもちろんですが、主人公が自分自身の心の問題に立ち向かっていくところにも注目してもらいたいです』
紙の向こうで微笑んでいるエイブは、違う世界の人間のように見えた。ハドリーにはすべてが嘘くさく感じられた。自分のところに来る彼も、雑誌の中にいる彼も、どちらも。
(……見覚え、あるわけだったな)
テレビにも映画にも興味が無かったから記憶に残していなかったが、『恋に落ちたら』のポスターもあちこちで見かけていたのだ。ちょうど今、『マーヴェリック・スパイ』のポスターがあちこちに貼られているように。
一度気が付いてしまうと、もう無視できなくなった。町中にエイブの顔が溢れている。
(こんなにたくさんあったのに、全然気が付かなかったんだな、俺)
裏切られた、という感覚を覚えたが、それは違うとも思った。これはただ自分が鈍感で、注意力が無かっただけの話である。騙されたわけではない。確かに彼は隠したが、気付くチャンスも問い詰めるタイミングもいくらでもあったのだ。それらをすべて見ない振りで無視してきたのは、他ならぬ自分である。
次に来たのは、どうしよう、という感覚だった。
エイブはその週もふらりとやってきた。そして部屋に落ちていた雑誌を目ざとく見つけて、ハドリーの逡巡を嘲笑うかのように平然と言ったのだ。
「ああ、それ、わざわざ買ったんだ。言ってくれればあげたのに。サインでもしてやろうか?」
ハドリーが答えないでいると、エイブはちらりとこちらを見た。その目に不安げな光がよぎったのをハドリーは見逃さなかった。
「君は本当に気付いてなかったのか? 僕はてっきり、とっくに気付かれてて、そっちがわざと気付いていない振りをしてるんだとばかり思ってた」
「悪かったな、気付かなくて」
「いや、いいんだ! 気付かなくていい! それでよかったんだ、その方がよかった。……その……あの……何て言ったらいいか……ええと……」
エイブは苦しげに口をパクパクさせた。まるで言葉封じの呪いをかけられたかのような有様だった。
やがて彼は諦めたように、眉をハの字にして肩を落とした。
「……悪い。僕、言葉が下手で……だから演技が好きなんだ。用意された台詞をなぞればいい。何も言えない僕じゃなくなって、何でも言えるスマートな主人公になれるから」
「そんなことインタビューじゃ答えてなかっただろ」
「言えるもんか、こんな本音なんか。……インタビューとかそういう時は“大注目の若手スター、謙虚な人格者”ってキャラクターを設定して演じてるんだ。そうじゃないとまともに喋れないんだよ」
「ふぅん? じゃあ、ここではどんなキャラクターを演じてるんだ?」
「……今日はなんだか意地悪だな、ハドリー」
エイブは拗ねたように唇を尖らせて、椅子の上に両足を引き上げた。膝に顔をうずめながら、ふくれっ面で答える。
「……“命の恩人に懐いた孤独な青年、隠し事アリ”っていう設定」
「なんだそれ」
「うるさいな。そういう感じだろ? 展開的に」
「それは設定じゃなくて事実だろ」
「ん?」
「違うのか?」
ハドリーは眉根を寄せた。なんだか腹の底がぐらぐらして気持ち悪かった。それを誤魔化すように、テーブルを指先でトントン叩きながら、吐き捨てるように言う。
「あんた見るからに友達とかいなさそうだし、俺が命の恩人ってのに間違いはないだろ。だいぶ大げさではあるけど。で、隠し事してたよな。そこまでいったらもう設定じゃないだろ。単なる事実だ」
「え……でも、それじゃあ……設定じゃなかったら、これは何?」
「……何のこと言ってんのかいまいち分かんねぇけど、演技だと思ってたなら違うんじゃねぇの? 設定がないなら、それは演技じゃなくて
きょとんとした顔になって、エイブはハドリーを見た。真っ黒い瞳がハドリーを見つめて、三秒。その顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「じゃあ、それじゃあ、ここにいる間ずっと僕は
「知らないよ。お前のことだろ?」
「だってこれは設定じゃないって……演技じゃないって……君が言ったんだろ?!」
「言ったけど……」
「ああ、そっか、そうか、それならこれが
ハドリーには彼が一体何に納得して、何を理解したのか、想像も出来なかった。ただ、彼の中で何かがぴたりと定まったのだな、ということだけ察せられた。――それに呼応するように、ハドリーの腹の底の、ぐらぐらと煮え立つような感覚も収まった。
エイブは真っ赤に染まった頬を両手で挟んで、年相応に微笑んだ。
「ありがとう、ハドリー。君に会えた幸運を、僕はどうやって感謝すればいいんだろう。お礼……そうだ、お礼をしないと。助けてもらったし、ずっと世話になってるし……でも、うん、困ったな。僕に出来ることなんて演技以外ないからな……何か好きな食べ物とか、酒とかあるか? バゲットとウィスキー以外で」
「それ以外にはないよ」
「そんな。何かあるだろ?」
「いいや、ない」
ハドリーは無愛想に答えた。そうして、あからさまに気落ちした表情で睨んでくるエイブの鼻先に、もう半分ほどしか残っていないウィスキーのボトルを置いた。
「バゲットとウィスキーがいい。そんな上質なやつじゃなくって、惜しみなく飲み食いできるようなやつが最高だな。それをあんたが持ってきて、馬鹿話しながら一緒に飲み食いする。それ以上のことはないよ。それだけで、助けたかいがあったって思える」
「……台本にありそうなセリフだな」
「やめろよ恥ずかしい」
「いや、羨ましいよ。僕じゃそんなセリフ、素のままじゃ絶対に考え付かないし、言えないから」
「……最悪。すっげー恥ずかしいこと言った気になってきた」
「そんなことない、って! 最高だよ!」
「あーもううるさい! この話はこれでオシマイな! ほら飲めよ!」
照れ隠しにウィスキーを押し付けて、エイブがげらげら笑いながら受け取る。
その日から、エイブの中の時間が捻じれることはなくなった。
時が経つにつれて、飲む場所はバーに変わった。人気のない場末のバーだ。エイブはどんなに忙しくなっても、半年に一回は必ず連絡をしてきた。
そしていくつになっても変わらない笑顔で、嫉妬や羨望という呪いを一身に浴びながら、「やあ、ハドリー。元気だったか?」と気さくに片手を挙げた。
彼がハドリーに、つまり魔法使いに対して、何かを――呪い避けだとか、呪い返しだとか、そういう強力な魔法を――頼むことはついぞなかった。あの日の宣言通り、彼は
エイブはハドリーにいろんな話をした。
父親に俳優の道を否定されて、大喧嘩の末に家を出てきた話。銀行員だった父親は、俳優の世界を危険だと言ってどうしても許さなかったのだという。「一つ主演をやったぐらいじゃ、ただの
好きになった女性の話。今度デートに行くと、ティーンエイジャーのような顔で話していたのをよく覚えている。天下の俳優様も惚れた相手には弱いんだな、とからかったら、真っ赤な顔で怒られた。上手く言葉にできない愛をどうしたらいいものかと真剣に悩んでいるのが、申し訳ないが面白かった。なんでもそつなくこなしているくせに、こういうのは無理なのか? なんて聞いたら、「だってこういうのは演技じゃ駄目だろう?!」と真に迫った声で言い返された。――やがてその恋が実った時の、彼の幸せそうな顔よ! どんな高位の悪魔も尻尾を巻いて逃げ出すんじゃないかと、ハドリーに本気で思わせたくらいだった。
†
「子どもが出来たって話も、二人目に魔法使いの素質が見つかったって話も、全部聞いた。取り乱し方がすごかったなぁ。俺が散々、アンブローズ・カレッジは不安定で危険だとか、一歩間違ったら死ぬとか言ってたせいだろうけど」
「そういえば、どうして父がカレッジの危険性を知っていたのか不思議に思ってたんですが……なるほど、クーパーさんから聞いていたんですね」
「そうさ。そんであいつ、息子は自分によく似て意地っ張りな性格だって分かっていながら、真っ向から否定しちまったから、かえって焚きつけてしまって引き返せなくなった、どうしよう、って――あんまりうるさいから、俺が知り合いを通じて生存確認だけしてやることになってさ」
「え」
「細かいことは伝えなかったよ。……とてもじゃないが、伝えられなかったさ。ったく、本当に参ったよ。初日から三日も行方不明になってくれて。誤魔化すのがどれだけ大変だったか……」
「それは……その……ご迷惑をおかけしました……」
アーチはとうに治っていた左手で首筋をこすりながら、明後日の方に視線をやった。蜘蛛を鉄格子に放り込んで、紅茶のお代わりを淹れてきたチアーズが、「ああ、そんなことあったねぇ。あれで、アイツはヤバいやつだ、ってみんなが思ったもんねぇ」と笑った。
クーパーは紅茶の表面に視線を落として、ポツリと言った。
「……まさか、あんな風にいなくなるなんてな」
苦味の強い言葉を落とした紅茶を、まずそうに啜る。
「だからさ、あんたがあいつのコートを着て、フリーランスの魔法使いなんてやり始めた時は、どうしてやるのが一番いいか、分からなくて――下手に口出ししたら、かえって悪化させるんじゃないかと思って、結局俺はなんにもしなかった。あんたがずーっと一人で戦ってるのを知ってて、何も……なんにも、出来なかった」
そんなことはない、と言いかけて、アーチは口をつぐんだ。黙って受け入れる。
「でも、やっぱあいつの息子だな。最近のあんたは、前ほど危なっかしくない――いや、危なっかしいのは変わってないけど、なんていうか……安定したよな。あいつもそうだったけど、一人できっちり立て直して」
「いえ、一人ではありませんよ」
今度は軽やかに否定した。
「父にはあなたがいましたし、僕も一人ではありませんでした。だからどうにか、まともに生きていられるんです」
「……そうか」
「はい」
アーチは意識的に“演技”を削って微笑んだ。そうすることが、彼に対する一番の礼儀のように思えたのだ。
「あなたには親子そろって、長くお世話になりました。今の僕に出来るお礼が、何かありますか?」
「……一年に一回でいい」と、クーパーはちょっとだけ照れくさそうに、伏し目がちになった。「バゲットとウィスキーを持って、話をしに来てくれないか。上質なもんじゃなくていい。惜しげなく飲み食いできるようなやつが最高だな。……それが一番だ」
「わかりました。必ず」
「呪いは持ってこないでくれよ」
「父ではありませんので、ある程度は自分で処理しますよ。あとはチアーズにしっかり仕込んでおいてください。僕のためにも、よろしくお願いしますね」
「それはチアーズの努力次第だな」
「頑張ってください」
「ええ~、ウルフのためってのが嫌だねぇ……」
チアーズはわざとらしく眉間にしわを寄せながら「ま、出来る限りねぇ」と頷いた。
「では、私はこれで。ありがとうございました」
「はいはぁい、もう来ないでねぇ」
「それは約束できませんね」
「ほどほどにしとけよ」
「気を付けます」
口先だけでそう言って、アーチは部屋を後にした。
真っ赤なコートが颯爽と翻り、扉の向こうに消える。
「――あーあ、時が経つのは早ぇな……」
クーパーはそう呟いて、目頭を押さえた。
おしまい
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