バゲット・アンド・ウィスキー 中編



 朝の陽ざしで目を覚まして、昨夜カーテンを閉めなかったことを思い出した。

 大欠伸を一つ。


(……あいつ、どうなったかな……)


 のろのろとソファから起き、ベッドの方に行く。

 ベッドはもぬけの殻だった。


「……あー、まぁ、そうだよな」


 寝癖のついた髪を手で掻き混ぜて、なんとなく溜め息をつく。そりゃそうだ、と思った。別にお礼を期待したわけでもなければ、話したかったわけでもない。むしろ勝手に出ていってくれて助かったかもしれない。一般人とのコミュニケーションなんて長らくしていないのだから、普通に話せる自信もない。

 だからこれで良かったのだ、と思いながら、テーブルやベッドの上に書き置きでもないかと探していることに気が付き、もう一度溜め息をつく。


(ったく、礼の一言ぐらいあってもいいだろ! こちとらあんなに丁寧に看てやって……面倒だったのに……クソッ)


 苛立ち紛れにシーツをはぎ取って、洗濯機に放り込む。ガタがきている洗濯機は、壊れそうな音を立てながら回り始めた。

 その轟音に紛れるようにして、キーターンの回る音がした。


「っ?!」


 ハドリーはびくりと両肩を跳ね上げて振り返った。

 外から鍵が開けられたのだ。

 魔法か? いや、だとしても何故? 魔法使いの恨みを買うようなことはしていない――いや、もしかして、昨日の奴を助けたのがマズかったのか? いや、まさか――

 全身を硬直させて玄関の方を凝視するハドリー。

 すると部屋の扉が軋む音がして、


「いてっ」


 瓶を蹴ったらしい。小さな声と瓶が転がる音。

 それから、ひょっこりと昨日の青年が顔を出した。ソファの方を見た青年は、そこにハドリーの姿がないことを知ると、すぐにこちらを向いた。


「やあ。おはよう」


 屈託のない笑顔でそう言った彼は、手に紙袋を抱えていた。そこから焼きたてのパンのにおいが漂ってくる。


「なんだかよく分からないが、君が僕を助けてくれたんだろう? 朝飯、買ってきた。部屋の鍵、元のところに置いとくな」


 青年はハドリーの部屋の鍵を棚に戻して、テーブルの上で紙袋をひっくり返した。


「そこのパン屋、こんなに早くからやってるんだな。美味しそうだったし、いいね、ここ。好きなの取ってよ。僕は何でも食べられるから」

「……」

「どうした?」

「いや……」


 ハドリーはすっかり毒気を抜かれてしまった。ここまで自分勝手な振る舞いをされたのは初めてだった。だが、何故か怒りは湧いてこなかった。


「……オレンジジュースしかない。いいか?」

「いいね。オレンジジュースは大好きだよ」


 彼は幼い子どもみたいに笑った。


 青年はエイブラハム・ウルフと名乗り、気さくに「エイブでいいよ」と言った。血色を取り戻した彼は端整な顔立ちをしていて、オリエンタルな雰囲気のある黒い瞳と、春の夜空のような柔らかな黒髪を持っていた。ハドリーは彼のことを、どこかで聞いたことがあるような名前で、どこかで見たような顔だなと思ったが、たぶん気のせいだと結論付けた。


「で、さぁ、ハドリー?」


 と、エイブは好奇心を丸出しに、テーブルの上へ身を乗り出した。


「昨日のことよく覚えてる。黒くて凶暴で大きな犬に襲われて、一瞬で意識が飛んだんだ。あれをどうして――どうやって、僕を助けてくれたんだ?」

「……何を聞いても、驚かないか?」

「うーん、驚かないのは無理だな。でも何を聞いても信じるよ。それは約束する」


 ハドリーはちょっとだけ躊躇って、しかしすぐに手を伸ばした。国家魔法使いの証、金色の魔法陣が描かれた黒革の手帳を取り上げて、テーブルの上に放り出す。


「俺は魔法使いだ。で、昨日あんたを襲ってた犬は、悪魔だった」

「――」

「悪魔を呼び出せるのは魔法使いだけだし、それで一般人を襲うのは魔法法で禁止されてる。万一現場に行き合うことがあったら、速やかに救助しろって義務付けられてるんだ。だから助けた」

「――」

「信じられないだろ?」


 黒い手帳に釘付けになっていた目が、パッとハドリーの方に向いた。

 エイブの瞳は星屑を散らしたみたいにキラキラと輝いていた。


「魔法使い? 君が? 本当に?」

「ああ、そうだよ」

「初めて会った! へぇ、魔法使い。魔法使いか!」


 ハドリーは少し面食らった。どんな反応を予想していたのかはもう分からないが、とりあえず思ったような反応とは違ったのだ。


「魔法使いってことは、なんだっけ、魔法学校? に、行ってたのか?」

「そりゃ、まぁ」

「どんなところなんだ?」


 何気ない問いに、ハドリーは考え込んだ。アンブローズ・カレッジがどんなところだったか、って? それは――


「――……一歩間違ったら死ぬようなところだったな」

「えっ?」

「あんたを襲った犬みたいのがうじゃうじゃしてて……いや、まぁ、こっちから下手に手を出さなきゃ別にどうってことないんだけど、うっかり機嫌を損ねたりすると、いきなり襲われたりするし……」

「へぇ……」

「それに、時空が歪んでて、ちょっと転んだだけで別の空間に飛ばされたりするし、最悪の場合時間ごと思いっ切り飛ばされたりするし……学校に憑いてる幽霊の中には、三百年前に学校内で遭難した生徒とかもいるぐらいで……」

「三百年前?!」


 エイブは目を見開いた。その拍子に手元のバゲットサンドからレタスの欠片が零れ落ちた。それをひょいと拾って口に放り込みながら、彼は噛み締めるように言った。


「そんなところ、よく生きて卒業できたな、ハドリー」

「まぁ、そうとう変なことをやらかさない限り、死ぬことはないよ。死亡事故はここ百年くらい起きてないって話だし」

「へぇ、そうなのか。それにしたって、すごいな……一度ぐらい見に行ってみたいけど、僕らが行ったらすぐに死にそうだな」

「そうだな。一般人が行くところじゃない」

「そっか……残念だな……」


 エイブは本当に残念そうな顔をしていた。気持ちと表情が直線で繋がっているような男だなと思って、ハドリーは笑ってしまいそうになった。

 それを誤魔化すように、バゲットにかぶりついて、それから尋ねる。


「あんたは学生なのか?」

「いや? 一応、働いてるよ」

「へぇ。そうは見えないな」

「ふふ、そうだろう? 何をやってるかは秘密」

「ふーん?」


 なにか危ない仕事でもしてるんだろうか、とハドリーは失礼なことを考えた。だとしたらあの呪いの量にも頷ける。


「あんたさ、すごく呪われてたぞ」

「呪われてた? 僕が?」


 エイブは心底意外そうな顔になった。


「へぇー、ああもしかして、それでここのところ体が重かったのかな?」

「あれだけ呪われてたら、普通は死ぬ」

「出る杭は打たれる、っていうやつだな。――ふんっ、いっそありがたいね」


 声音が唐突に冷淡な調子になった。ハドリーは小首を傾げてエイブの方を見た。

 そこに、先ほどまでの気さくな青年はいなかった。

 彼は窓の方を見て薄く笑っていた。だがその目が笑っていなかった。世界の命運を背負わされたヒーローのように、あるいは王権の簒奪を狙うヴィランのように、鋭い眼差しをしていた。


「いずれ、誰も打つことが出来ないくらいの高みに登りつめてやる」


 そう言ってエイブはバゲットを噛みちぎった。

 ぞっとしたのが、恐怖だったのか何だったのかハドリーには分からなかった。魔性生物を前にした時と似ているような気も、そんなものとは比べ物にならないほど怖いような気もした。

 ハドリーは唾を飲み込んで、ようやく声を出した。


「……ペンダント」

「ん? ……ああ、そういえば、着けっぱなしだったな。ごめん、すぐに返す――」

「いや。やる」


 ハドリーは伏し目がちに続けた。


「その水晶、呪いを吸い込んでくれるんだ。肌にくっ付くようにして着けておいてくれ。白く濁ったら効果はなくなるから、そしたら外しておくように。ここに持ってきてくれたら、また元に戻せるから」

「いいのか?」

「大したもんじゃない。魔法使いにとっては弱すぎるから、あんまり使い道ないんだ。一般人には役立つだろ。……あんたの呪われっぷりだと、一瞬で濁りそうだけど」

「ふぅん」


 エイブはちょっとだけ唇を尖らせて、手のひらの上に水晶玉を転がした。興味深そうに、あるいは考え込むように黙り込んで、


「やっぱいい。返すよ」


 と、にっこり笑いながらペンダントを外した。

 ハドリーは眉を顰めた。


「いいのか?」

「うん。僕は魔法使いじゃないから。呪いなんかに負けるつもりはないし」


 勝ち負けではないのだが、とハドリーは思ったが、何も言わなかった。言えなかったのだ。こんな小さな水晶などなくとも、彼なら本当に負けないような気がした。


「また来ていいか? 魔法の話を聞かせてほしいんだけど」

「……別に、いいけど」

「やった。パンと酒でいい?」

「ウィスキーにしてくれ」

「了解。瓶ちゃんと出せよ。蹴ったのけっこう痛かったんだからな」

「分かってるよ」

「じゃあ、僕は行くよ。またな、ハドリー!」

「ああ」


 エイブは颯爽と出ていった。肩に穴が開いて血まみれになった上着を羽織って。それが歴戦の傭兵みたいで、やけに似合っていた。ハドリーは不思議な気持ちで彼を見送った。



 それ以降、エイブは週末になると現れた。少なくとも二週に一度は。彼はいつも呪いのにおいを全身に纏いながら、しかし蝕まれていることなどまったく感じさせない不敵な笑みを浮かべていた。

 エイブはなんとも捉えがたい人間だった。どこか非人間的にすら感じたぐらいだ。幼い少年のようにはしゃいで喋ったと思えば、老成したドラゴンのようにむっつりと黙り込むこともあった。赤ちゃんみたく口の周りをソースだらけにしてげらげらと笑った直後に、指先で掬い取ったソースをいやに妖艶な仕草で嘗めとったりした。まるで、彼の体の中を流れる時が不規則に捻じれているかのようだった。

 言動はたいてい自己中心的で身勝手で、たまに苛立つこともあった。なのに不思議と、その三秒後には許してしまっているのである。何に苛立ったのかすら忘れることがほとんどだった。

 彼が一体何の仕事をしているのか、ハドリーはずっと聞けなかった。最初に軽くはぐらかされた手前、なんとなく聞きづらくなっていたのだ。半年ぐらい経って、段々持ってくるウィスキーの質が良くなっていっても、彼の手足に謎の生傷が増えているのを見ても、まだ聞けなかった。どんな答えが返ってくるのか怖かったのもあるし、答えを聞いたら最後、二度と会えなくなるような気がしたというのもある。


 だから、魔法庁ですれ違った女性陣の口から、彼の名前が出たのを聞きつけた時は、心底驚いたのだ。

 思わず廊下にしばらく立ち尽くした。


(今……エイブラハム・ウルフ、って、確かにそう言ったよな?)


 聞き違いではなかったはずだ。だが、彼女らに追いすがって尋ねてみるほどの勇気はない。

 ハドリーは小走りになって所属部署に戻った。当時はまだ魔法管理課ではなく、広報課の見習いをやっていたのだ。

 広報課の部屋に入り、暇そうにしていた先輩を捕まえる。


「あの、すみません」

「ん?」

「エイブラハム・ウルフ、ってご存知ですか?」


 すると先輩は鼻でせせら笑って、「知らないわけないだろ」と言った。それから手にしていた雑誌をハドリーに見せつけるようにした。


「新進気鋭の大スター、エイブラハム・ウルフ。英国史に残る大俳優になるだろうって、今から噂だぜ」


 見開きの特集ページだった。そこではハドリーのよく知る青年が、初めて見るような大人びた笑顔を浮かべていた。


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