バゲット・アンド・ウィスキー 前編
アーチがその日魔法管理課を訪ねたのは、本当に偶然のことだった。
「こんにちは」
中で顔を突き合わせて話していた二人が、のんびりとした動作でこちらを向いた。
「やあ、ウルフ。何か厄介事かねぇ?」
「私と厄介事を同列で扱うのはやめてもらえますか、チアーズ」
「だって、ねぇ。君の周りが平和なんて、それこそ嵐の前兆だからねぇ」
「失礼な」
アーチはちょっと眉を顰めて、彼らがいるミーティング用の丸テーブルに近付いた。
「こんにちは、クーパーさん」
「おう。元気そうだな、ウルフ」
「はい、おかげさまで」
ハドリー・クーパーは初老の魔法使いだ。うねりの強いグレイヘアーを顎の下でざんばらに切ってある。少し前までは焦げ茶の部分も残っていたのに、今では見る影もない。長く魔法庁に勤めていて、アーチが大学を卒業した頃にはすでに魔法管理課の重鎮だった。無愛想だが面倒見がよくて、アーチにも積極的に仕事を振ってくれた人である。
クーパーは胡桃のような目でアーチを見上げ、色の抜けた眉をしかめた。
「なんだ、呪われたもんでも持ってんのか」
「お見通しですね」
アーチは素直にポケットから左手を出した。
「うわぁ」
チアーズが思いっ切り嫌そうな声を上げた。
アーチの左手には金属製の蜘蛛がへばりついていた。八本の足がぎりぎりと皮膚に食い込んでいる。糸の代わりに吐き出されたらしい細い鎖が、血管に入り込もうとするかのように指や手首を締め上げていた。
普通なら痛みにのたうち回っていてもおかしくないのに、アーチは平然と、趣味の悪いアクセサリーを無理やり装備させられたかのような顔をしていた。
「呪物の処理は魔法管理課の管轄だ、とベンフィールドが匙を投げまして」
「あぁ~、ギルのやつめ……面倒だからってねぇ……」
チアーズが眉尻を下げながら席を立った。たぷたぷと腹が揺れる。
「君、また一回り太りました?」
「あはは、ちょっとねぇ」
「そろそろ健康診断に引っ掛かるのでは」
「思い出させるなよぉ、この間引っ掛かったばっかなんだからねぇ――というか、そういう話は今いらないよねぇ」
チアーズは古びた救急箱のようなものを持ってきて、広がっていた書類を脇に押しのけながらテーブルの上に置いた。その中から解呪用の道具一式を広げる。
「座って、手ぇ置いてねぇ」
「はい」
指示された通り、テーブルの真ん中に敷かれたビニールシートの上に手を乗せる。
ゴーグルを着けたチアーズとクーパーがぐっと顔を近付けて、アーチの手に巣食った蜘蛛をまじまじと見つめた。
「……えーと、個人製作ですかねぇ?」
「そうだな」
「けっこう年季が入ってる感じがしますけど……」
「何年くらい?」
「二……うーん、三十年くらいですかねぇ?」
「残念。これは五十年ものだな。鎖の部分をよく見ろ」
「んー……何か……見たことない術式ですねぇ」
「五十年前に流行ってたやつだ。俺も学校以外では見たことないな」
「はぁー、なるほど」
何だかすっかり授業モードだ。
体のいい教材にされてしまったアーチは、文句を言おうとして――手元に広がっていた書類を見て、開けた口を閉じた。どうせ予定もないのだから、と大人しく教材にされてやることにする。
「それで、解呪の方法は?」
「ええとぉ……【ポージィの追跡花】と同じ方法でいけますかねぇ」
「……それでいけるのはウルフだけだろうな。この呪いの場合、焼き切るまでに【ポージィの追跡花】の五倍はかかるぞ」
「じゃ、ウルフには耐えてもらいましょう」
さすがのアーチもこれにはチアーズを睨みつけて、「積極的に苦しい方法を採用するのはやめていただけますか?」と冷たく吐き捨てた。
「えーとじゃあ……殺そうとしない方が良かったりします?」
「ああ、そうだな」
「なら……【ミッドナイト・ワン】を使うとか?」
「その方がまだマシだな。一番いいのは、【乞食のトミー】と同じやり方だ」
「ああ! その手がありましたねぇ!」
丸々とした両手を合わせて、チアーズはいそいそと準備を始めた。
アーチはクーパーの方を見遣った。
「こんな調子で大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
「隠居なさるのでしょう?」
クーパーはちょっとだけ瞬きをして、アーチの手元にあった引継用の書類を見て、はにかむように笑った。
「ああ。もういい歳だからな、娘と婿が住んでる田舎に引っ込むのさ。ま、大丈夫だろ。あんたがもうちょい大人しくしてくれれば」
「私ですか?」
「厄介な呪物を持ってくんのはあんただけだ」
「……チアーズには任せられないと判断した時用に、隠居先をお聞きしてもよろしいですか?」
「やだね。隠居じじいを頼るな」
クーパーは鼻で笑って、背もたれに肘をかけた。
チアーズが気の抜けた声で「じゃあやるよぉ」と言った。パンくずをばら撒き、ナイフを構え、たどたどしい手つきで呪文を唱え始める。
「――お礼を、どうしましょう」
「……お礼?」
「ええ」
アーチは蜘蛛がミシミシと音を立てて剥がれていく様子を見ないようにしていた。不可視性魔法の呪物だから痛みはほとんどないが、自分の体が何かに侵食されているのを見るのは気持ちのよいものではない。
「あなたには本当にお世話になりました、クーパーさん。駆け出しの頃の私が何とか食いつなぐことが出来たのは、あなたが振ってくださった仕事のおかげです。ですから、隠居なさる前に何か……と、思ったのですが、私に出来ることなど戦うことぐらいですから……そうだ。何か好きな食べ物とか、お酒とかはありますか? あるならそれを――……クーパーさん?」
クーパーが両手で顔を覆って俯いていることに気が付いて、アーチは慌てて言葉を切った。
「どうかされたのですか? どこか、具合でも?」
「っ……いや……」
クーパーはゆるゆると首を振って、一度大きく呼吸をすると、ゆっくりと顔を上げた。目の周りがわずかに赤くなっていた。
彼は恥じ入るように、あるいは後ろめたさを振り払ったかのように、伏し目がちに微笑んだ。
「いや、悪いな、ウルフ。……ああ、本当に……あんたら、親子だな」
「はい?」
「本当は墓場まで持っていくつもりだったんだ。あいつはあんたに俺のことを話さなかったみたいだし……この間までは、知らせないでいた方が、あんたにとってもいいだろうと思ってた。だが――うん、そうだな。そうだよなぁ……」
独り言のようにブツブツと言っていたクーパーが、ふいに目線を上げて、アーチを見た。
胡桃の瞳が眩しいものを見るように細められた。
「なぁ、ウルフ。隠居じじいの昔話に付き合う気はあるか?」
アーチはちょっとだけ戸惑ったが、すぐに頷いた。
「はい。ぜひ聞かせてください」
「長くなるぞ」
「構いません。どうせ今日は何の予定もありませんから」
「そうか。んじゃ、遠慮なく」
クーパーは手元のティーカップに残っていた紅茶を喉に流し込んで、それから軽く話し始めた。
「俺はあんたの父親――エイブラハムの友人だった」
「っ!」
「導入としちゃ完璧な掴みだろう?」
目を見開いたアーチに悪戯っぽく笑いかけて、クーパーは続けた。
「それも、出会いからして最悪の出会いだ。エイブは、俺の住んでたフラットの裏側に血まみれで倒れてたんだからな。あれは確か、俺が魔法庁に入った少しあと――十九になる直前だったな――ひどく寒い夜だった――」
†
雪でも降るんじゃないか、そうなったら最悪だ、などと思いながら、ハドリーは家までの道を急いでいた。勤め始めて五ヶ月。仕事にはようやく慣れてきたが、特に大きなミスをすることなく一週間を終われた金曜日ほどほっとする日はない。だから早く帰って暖かい部屋で、適当な飯を食って、ゆっくりと眠りたかったのだ。
しかし、
「……ん?」
フラットの裏手に出た時、ハドリーはふと異様な気配を感じて立ち止まった。
(呪い……いや、悪魔のにおい……?)
この辺りに住んでいる魔法使いは自分以外にいない。しかも、悪魔を放しているような輩に心当たりはない。かといって、自分が悪魔に狙われるほど誰かの恨みを買った記憶も無かった。
(野生の悪魔が近くにいる? だとしたら、違法魔法課……いや、魔性生物課か? どっちかに連絡しなきゃまずいんじゃ……)
なんて思いながら、そろりそろりと気配の方へ向かった。
すると、
「っ!」
花壇の裏に隠れるようにして、人が倒れていた。
しかも、その肩には悪魔の猟犬ががっぷりと食らいついている。
『グルルルルルルゥゥゥッッ……』
猟犬の金色の瞳がパッとこっちを向いたのを、ハドリーは咄嗟に目を逸らして躱した。悪魔と目を合わせてはいけない。魔法使いの常識である。
(やべ、ええと、悪魔払い……)
ハドリーは慌てて脳内の魔導書をめくった。悪魔に殺人を命令するのは明確な魔法法違反である。万一その現場に行き合ったら、即座に悪魔払いを実行することが義務付けられていた。
だが、実践するのは初めてである。
(大丈夫、落ち着け、悪魔の猟犬は一番下級のやつだ、習った通りにやれば大丈夫……)
袖口に収納していた杖を取り出し、構える。
ひとつ深呼吸。
「――『汝魔性のものよ。魔界の住人よ。疾く疾く疾くこの場を去れ。汝のあるべき場所はここに在らず。汝の至るべき場所はここに在らず。汝の聞くべき言は我の言。汝のなすべきは我の意思。疾く疾く疾くこの場を去れ!』」
パァッと金色の光が広がって、次の瞬間、猟犬の姿が掻き消えた。
ハドリーは溜め息をついた。
(良かった、低級の悪魔で……でなきゃ無理だった)
これだけあっさり引き下がったということは、どうやら命令自体もそう強制力の強いものではなかったらしい。
とりあえずの窮地を脱して、ハドリーは被害者に近寄った。
「あの、大丈夫ですか……?」
返事はない。噛まれていたのは肩だったから、命に別状はないはずだが。
(悪魔の瘴気に当てられたかな)
ハドリーは杖を振り上げて、「『
瞬間、杖の先が淡い光を灯して、その人を照らし出した。
倒れていたのは青年だった。おそらく同じ年ぐらいだろう。黒い髪と強いコントラストをなすように顔色は真っ白で、ひどく苦しそうに歪んでいた。まず間違いなく
「おい、しっかりしろ――」
と何気なく肩に触れた瞬間、ハドリーはびくりと手を放した。
(こいつ……めちゃくちゃ呪われてる?!)
ちょっと触れただけでよく分かった。ありとあらゆる方向から、ありとあらゆる呪いが、この青年の頭の先から爪先まで全身パンパンに膨れ上がるほど詰め込まれていた。迂闊に触れたら伝染するほど、強烈な呪いの数々。
ハドリーは一旦目を瞑って、「『
青年にまとわりついている呪いが、黒々とした影になって目に映った。それらはほとんどが、一般人の放った悪意が呪いにまで発展したものだった。占い師とか祈祷師を名乗る一般人からのものも見受けられる。しかし、いくつかは本物の魔法使いが放った本物の呪いだった。
(なんでこいつ、こんなに呪われて――しかも、悪魔にまで襲撃されて――いや待て、これでこいつ、死んでないのか?!)
胸元は上下していた。口も開いていて、そこから弱々しい息が出てきているのも確認できた。死んでいない。
(死んでない……一般人を呪うのは魔法法違反……助けないと駄目……いや、でも、俺にどうにか出来るのか……?)
ハドリーは迷った。医務局はすでに閉まっているし、一般人を担ぎこんで看てもらえるかは担当者次第だ。何より、彼を担いで魔法庁まで行くのに時間がかかる。この状態では、そこまで耐えられるとは思えない。
(……やるか)
腹を括って、ハドリーは自身に防護魔法をかけると、彼を担ぎ上げた。
部屋に入る。ウィスキーの空き瓶をいくつか蹴倒しながら狭い廊下を進み、ようやくベッドに辿り着く。
青年を寝かす。
電灯の下で見ると、彼の顔色は一層悪くなって見えた。
(とりあえず止血と浄化……)
悪魔の猟犬に噛まれた部分は出来るだけ早く処置しなくてはならない。猟犬の牙が備えている呪いの影響で、すぐに壊死が始まるからだ。
(――あれ。全然壊死してないな)
彼の肩は牙が刺さった穴がある以外、至って綺麗な状態だった。
呪いの溜め込み具合といい、これといい、なんだかおかしな体質の青年であるらしい。ハドリーは首を傾げながら、だがこの方が処置が楽であることは確かである。そこには感謝して、青年の傷を聖水で清め、薬草を挟んだガーゼを当てて包帯を巻いた。
それから、呪いを吸収する水晶のペンダントを着けてやったり、着けた傍から濁って効力をなくす水晶をこまめに替えてやったり、窓を開け放して結界を張ったりと――そのかいがいしさたるや自分でも驚くほどだった。
呪いをあらかた吸い出して、危険な状態を脱した頃には、すっかり夜は深まっていた。
学生の頃、散々同級生や後輩たちの治療を手伝ってきた経験を、こんな風に活かす機会がくるとは思わなかった。まったく考えていなかったが、大学へ行って治療師になるのも悪くなかったかもしれない、などと今さらになって思った。
「……う……」
ふいに青年が身じろぎして、苦しげな声を絞り出した。
「……が、う……ぼくは……」
目尻から水晶のような透明の粒が流れ落ちた。
「あんたに……反抗したいわけじゃ……ないんだ……父さん……」
ハドリーはこれ以上聞いてはいけないような気分になって、そそくさとベッドの脇から離れた。
窓を閉め、冷え切ってしまった部屋に暖房を入れる。
(……そうだ。あれでも使うか)
同じく魔法使いだった祖母がくれた特製のアロマオイル。使ったこともなければ使う気もなかったため、何が入っているかは忘れたが、不眠や悪夢に苛まれる夜に使えと言われたことと、その使い方は覚えていた。
蝋燭を立て、炎の中に三滴だけ垂らす。
と、炎の色が柔らかな緑色に変わって、不可思議な香りが部屋中に広がった。
(なんだろう、このにおい……ラベンダー系がメインだな。柑橘系もちょっと入ってそうな……感じは、あるけど……――あ、やべ、これは……マジ、で……眠く、なるやつ……)
瞼が一気に重たくなって、視界がかすんだ。こんなに強制的に眠りへ連れ込まれることになるとは思っていなかった。説明が足りない祖母のことを心の中で少しだけ責めながら、ハドリーは慌ててソファに横たわった。
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