番外編

エピローグ/ブレスド・レッド


 目の前がかすんだような感覚を覚えたのは、三月の風が強く吹いたからというわけではなかった。


 父の墓の前に父が立っている――


(ゴースト……? あれ、あたしって霊感あったのかしら? 今までそういうのとはとんとご無沙汰だったんだけど? ついに見えるようになっちゃった?)


 フローレンスは何度も瞬きをして、目を擦り、じっとその赤いコートの人物を見つめた。

 どれだけまじまじと見つめても、やっぱり父にしか見えない。最後の記憶よりもかなり若いようだし、髪の毛は長くて後ろで括っているが、その立ち姿は見事に父だ。軽く俯いて墓碑を見つめている横顔には、深い哀愁が影を落としていた。


「うわぁ、真っ赤だぁ!」


 今年八つになる娘が声を上げた。

 その声に反応して、父の幽霊は振り向いた。

 彼はフローレンスを見て微笑み、こちらにやってきた。


「やあ、姉さん。久しぶり」


 声は父より少しだけ高いだろうか。黒縁眼鏡の向こうの瞳は、父よりも濃い漆黒だ。

 それではたと思い至る。


「……アーチ?」

「他に誰に見える?」


 厭味っぽい言い回しはウルフ家のお約束だ。


「あんまり父さんにそっくりだったから……ゴーストかと思ったわ」

「父さんはゴーストになるタイプじゃないだろ」

「それもそうね」


 滲んだ涙を誤魔化すように笑って、フローレンスは五つ下の弟を抱き締めた。


「久しぶり、アーチ。元気そうで良かった」

「電話で元気だって言っただろ」

「あんたの自己申告なんて当てにならないわ」

「ひどいな、相変わらず」


 アーチは笑いながら離れた。


「お久しぶりです、ノーマンさん」

「……ああ、久しぶり」


 フローレンスの夫であるノーマンは、世にあるオカルトのすべてをことごとく嫌っている男だった。だから今も、寝ている息子を抱えるのに手一杯ですという顔をして言葉だけで挨拶を済まそうとした。だが、妻に爪先を踏まれてしぶしぶ手を出した。

 アーチは気にした素振りも見せず、ノーマンと普通に握手をした。

 その様子を見てフローレンスは感動した。


「アーチが大人になってる……!?」

「何気なくひどいことを言うのはやめてくれるかな姉さん」

「だって八年前なんかひどかったじゃない! あたしの結婚式だっていうのに拗ねちゃって……」

「それは……」


 口ごもって、アーチはふいとそっぽを向いた。


「……まぁ、確かに、あの時はごめん。子どもだった」

「アーチ、あなた本当に変な物食べたでしょ、ねえ?」

「食べてない! いろいろあったんだよ!」

「いろいろって?」


 アーチは顔に“話したくない”と殴り書きしながら表面上は大人のように「その話は後でいいんじゃないかな」と言って、自分をじっと見上げている少女の方に目をやった。

 彼は姪っ子のためにしゃがんだ。


「こんにちは、レディ。会えて嬉しいよ」


 フローレンス譲りの明るさを持ち合わせている少女はにっこりと笑った。


「こんにちは、ミスター。素敵なコートね!」

「ありがとう。お褒めにあずかり光栄だ。僕はアーチボルト・ウルフ。君のお母さんの弟なんだ」

「あら、弟ならあたしにもいるわよ。エイブラハムっていうの」

「それは……良い名前だね」

「でもあたしだって“良い名前”なのよ」

「なんていうの?」

「ベティ。おばあさまと同じなの!」

「そう。素晴らしい名前だ」

「うふふ、そうでしょう? おほめにあずかりこうえい、だわ!」


 ベティはさっき聞いたばかりの言葉を早速真似してみせた。


「姉さんそっくりだ」


 と笑いながらアーチは立ち上がり、フローレンスに小声で言った。


「でも、ここにはいない方がいいかも。けっこうショッキングだから」


 彼がちらりと目線をやった先には、布に包まれた円柱状のものがある。

 ――奪われた父の目が見つかった、と聞いていた。

 確かにそれは、衝撃的な映像だろう。白骨死体だって、七つの子どもに見せたいとは思わない。


(……けど、それをアーチが気にするなんて)


 前の彼だったら、そんなこと歯牙にもかけなかったに違いない。一体この八年間で、彼に何があったのだろう。月に一度電話をして話していた感じでは、これといった変化はなかったように思ったのだが。


(本当に何かあったのね)


 気になるがしかし、これ以上つついたらいよいよ機嫌を損ねるだろう。

 フローレンスは追及したい衝動を抑えこんで、ノーマンに子どもたちを連れ出すよう頼んだ。

 彼らが墓地から去るのを待って、アーチと一緒に墓へ向かう。

 アーチはひざまずいてそっと包みを開いた。


「っ……」


 フローレンスは息を呑んだ。

 ガラスケースの中にぽっかりと浮かんだ眼球。

 その瞬間に感じた胃の腑がぎゅっと縮むような感覚を、恐怖と呼ぶならそうなのかもしれない。だがそれだけではないような気がした。


「……腐っていないのね」

「そういう風に加工されてるんだ」


 アーチは淡々とした声で言った。

 フローレンスは指を伸ばした。指先が震えていた。そっとガラスに触れる。

 あの時無かった父の目は、今になってようやく埋葬される。これでようやく、父は天国を見回して、母と見つめ合い微笑みを交わせるのだ。


「やっぱ、目がなくちゃ、駄目よね……向こうで、また、たくさんいろんなものを見て、ワクワクしてくれなくっちゃ……ねぇ、父さん……」


 嗚咽を飲み込んだフローレンスの肩をアーチがそっと抱いた。

 彼の方を見て、フローレンスは鼻を啜りながら言った。


「アーチ、あんたやっぱ変な物食べたでしょう」

「……姉さんはどうしても僕を食中毒にしたいんだな」

「だって、十二年前は……一度も、泣かなかったくせに……」


 アーチは指先を眼鏡の下から差し込んで、目元を擦った。


「泣くのにも体力がいるんだよ。あの時の僕に、そんな余裕はなかったから」


 そう言って泣きながら笑った弟の顔は、本当に父親そっくりだった。


(ほら、見なさい父さん、アーチはまとも・・・な大人になったわよ。だから言ったじゃない、大丈夫だ、って……)


 きっと今頃、父も空の上で安心していることだろう。アーチがアンブローズ・カレッジに行くと決めた時も、その後も、ずっとずっと彼のことを気に掛け続けて、『ヴァルプルギス・ナイト』の話が来た時には半ば強引に学校がロケ地になるよう押し通したぐらいなのだから。

 そこまでしておいて、当の息子にはそんな素振り欠片も見せずに“厳しい父親”を演じきってみせたのだから。


「ほんっと、難儀な人」


 思わず呟くと、アーチが拗ねた顔になった。自分のことを言われたと思ったらしい。ちょっと唇を尖らせる仕草は子どもの頃からまったく変わっていない。

 でも反論をしないあたり、少しは自覚があるらしい。


「父さんそっくりね」

「そう?」

「そうよ」

「……そっか」


 ならいいや、と呟いて、アーチは立ち上がった。

 風が吹いた。墓地にそぐわない真っ赤なコートの裾が、駆け抜けていく少年のように翻った。


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