36 アーチとアーネスト
それからの三日間は飛ぶように過ぎていった。
その間には依頼もあったが、宿題もあった。
少年たちはそれぞれの得意分野から手を付けていたせいでひどく偏ってしまった宿題の成果を、互いに突き合わせてどうにか平らにしようと必死になっていた。
アーチが水曜の午前中に簡単な依頼を片付けて帰宅した時も、彼らはまだその作業に追われていた。
「馬鹿バカ馬鹿、丸写しするなよダニエル。適当に言葉を変えろって」
「適当にってどんな風に?」
「そこは自分で考えろよ」
「そんなぁ……うぅーん……」
「ヴィンス、この文字何? なんて書いてあんの?」
「ん? んー……あっれ、何だっけこれ……」
「おいこら本人! せめて本人だけでも読めるように書けよ!」
「うっせぇな、文句言うなら見せないぞ!」
「それならこっちだって見せないからな!」
「もー、喧嘩してる場合じゃないでしょー!」
ダニエルにいさめられて、立ち上がりかけていた二人はしぶしぶ腰を下ろした。
アーチはコートを脱ぎながら、「順調なようですね」と声を掛けた。皮肉に素早く反応したヴィンセントが「どこが?!」とぴりぴりした声を上げたが、それは無視する。
「二時に出ますよ。それまでに片を付けてください」
「はあっ?!」
「早いよぉ、絶対終わらない……!」
「せめてもう一時間!」
「駄目です。今日の魔法列車のダイヤは三時が最終ですから」
「そんなぁ……」
ダニエルがべたりと机に突っ伏した。
頑張ってください、と言いつつ、アーチはキッチンの方に行った。
点けっぱなしにされていたテレビが昼のニュースを始めたところだった。
『速報です。さきほど魔法庁が、十二年前に俳優のエイブラハム・ウルフ氏を殺害した犯人グループの一人を逮捕したと発表しました』
全員の目がテレビに釘付けになった。
『犯人は国家公認魔法使いのクラーク・プレイステッドで、
テレビは在りし日の父の写真を映していた。
真っ赤なコートを着て舌を出し、おどけたポーズを取っている笑顔の父。彼はパパラッチを先に見つけてからかうのが好きだった。
これが最後の一枚になった。
ふいにスマホが鳴り出して、アーチの視界に色が戻ってきた。画面を見れば姉の名前。「失礼、少し」と誰にともなく呟き、キッチンに引っ込んで応答する。
「もしもし」
『アーチ! アーチ? ニュース見た?』
「うん、見たよ」
『父さんの……事件の犯人、捕まったって』
「一人だけどね」
『それでも! それでも……』
電話口で姉は半ば泣いているようだった。
『何て言ったらいいのかしら。嬉しくは……ないけど……なんだろう……』
「……分かるよ」
『分かる?』
「うん」
『そう。ならいいわ』
姉はすっぱりと頭を切り替えたようだった。彼女の持ち味はそういうところで、たまにアーチですら付いていけなくなることがある。
『元気でやってる? 最近怪我とかしてない?』
「元気だよ、とっても」
『怪我は?』
「……」
『したのね? したんでしょう。分かるわよアーチ! あんたはすぐに黙るから! 無茶もいいけどそろそろ歳を考えなさい! もう、危なっかしくて仕方ないわ!』
「ごめん」
口先だけで謝りながら、アーチはふと疑問に思った。
「ねぇ、姉さんって昔からそうだっけ?」
『何が?』
「危険を恐れずに突っ込め、って僕に教えたの、姉さんだよね?」
『ええ、そうよ』
姉はしれっと肯定した。
『でもそれは昔の話。子どもが出来て分かったわ。あの子たちが危険な目に遭うの、すごく怖いもの。自分のこと以上に』
「……」
『それに、もうあんたを心配する家族はあたしの他にいないでしょう? だからよ。あたしは父さんと母さんの代わり、ってわけ。特に父さんはあんたのこと本当に可愛がってたもの。普通父親って娘を溺愛するものじゃない? いやあたしのこともそりゃ愛してたけど、あんたへの過保護っぷりには敵わないわ』
「嘘、そんな? 盛ってるだろ」
『やだ、盛ってなんか、少しぐらいはあるけどほとんどないわ』
「だって、でも、父さんは魔法を嫌ってたから……」
『は?』
電波の向こうにいる姉の顔がまざまざと想像できた。間違いなく彼女は、思い切り眉を顰めて歯をむき出しにして、自分は不機嫌ですと頬に書きなぐっている。
『何言ってるの? 父さんは魔法好きだったわよ。嫌いだったら魔法使いの役なんてやるわけないじゃない。そういうところ頑固だもの』
「でも」
『それに、百歩譲って魔法嫌いだったとして。それであんたまで嫌いになるほど馬鹿な人じゃなかったわ。それはそれ、これはこれよ』
「でもさ」
『まだ何かあるの?』
切りつけるような調子で言われて、アーチは一瞬怯んだ。この歳になっても姉の圧力には負けそうになる。
手元にあったリンゴをいじりながら、ぼそぼそと言い返す。
「魔法はまともじゃないって……そう言って、反対しただろ。ほら……僕に、素質があるって分かった時」
『……ああ、あれ?』
姉はこともなげに言った。
『魔法がまともじゃないのは当然でしょ? まともじゃないから“魔法”なんだから』
「それは……」
筋は通っているような気がした。
が、姉はこうやって道理を引っ込ませて無理を通すのが得意な人間である。
『父さんが本当に嫌がってたのは、あんたが危険な目に遭うことよ。魔法界って、一般人じゃ簡単に入りこめない危険なところでしょう? まともに行き来もできないじゃない。あんたに何かあった時に何も出来ない、それが嫌だったのよ』
たぶんね、と彼女は付け足した。
『それに、魔法っていろいろ便利なんでしょう? それがズルみたく見えたんじゃない? そういう反則を覚えて、まともじゃない人間になってしまうのが怖かったのよ。そういうこと言いそうだわ、父さん。ね、そう思うでしょう?』
「……そうかもね」
姉の言うことはいちいち腑に落ちた。
けれど、納得できるのはそれが正しいからなのか、それともそう言われたいと願っているからなのかは、判別できなかった。
『ね、アーチ。今度うちに来なさいよ。いい加減うちの子どもたちに伯父さんを紹介したいわ』
「旦那さんが嫌がるだろ。魔法嫌いなんだから」
『いいのよ、黙らせるから。あの人にも分かってもらわないと』
「……あんまり押し付けるのはよくないと思うけど」
『食わず嫌いに食べさせるみたいなものよ。食べてしまえばきっと好きになるわ。魔法使い、っていう雑なくくりで判断されてもらっちゃ困るし、子どもたちにも悪影響だもの。協力しなさい、アーチ』
アーチは逆らえずに「了解」と頷いた。結婚式を最後に、八年近く電話でしか話していない姉に会いたいのは確かだった。可愛いと噂の姪っ子と甥っ子にも。
良かった、と心底から思った。
本当に良かった。もしプレイステッドの企みが成就していたら、姉の
そう思ったら耐えられなくなって、気付いたら「姉さん。電話ありがとう。久々に声が聞けて良かった」と柄にもないことを口走っていた。
すると姉は即座に『あんたなんか変なものでも食べた?』と返してきた。
その言い草にアーチは唇を尖らせる。
「ひどいな」
『だって気味悪いわ、あんたが殊勝だと。明日は雪かしら』
「雪ならもう降ったよ」
『そう。じゃ、そのせいね。ちゃんと暖かくして寝るのよ』
「僕はもう五歳児じゃないよ」
『分かってる、とっても元気な二十八歳児でしょ?』
「馬鹿にしてるよな。なぁ!」
『じゃあね、アーチ。また連絡するわ』
姉は一方的に電話を切った。
彼女に口で勝てないことはよく分かっている。アーチは溜め息をついて、スマホを置いた。さっき覚えたしんみりした気持ちもどこかへ吹き飛んでしまった。それがなんとなくありがたいような気もするから、家族とは不思議なものである。
リンゴを置いて、ビスケットの袋を片手にキッチンから出ると、少年たちがじっとこちらを見ていた。
「なんですか?」
「……今のって、家族?」
「姉です」
代表するように聞いてきたアーネストに答えると、「師匠にもお姉さんがいるんだ!」とダニエルが目を輝かせた。
「そういえば、君は姉が三人いると言っていましたね」
「うん! ねぇねぇ、師匠はお姉さんと仲好いの?」
「好いと思いますよ。八年ほど会っていませんが、電話だけはしていますし」
「なんでそんなに会ってないの?」
うろんげに眉を顰めたヴィンセント。
「姉の夫――義理の兄と呼ぶべきですが、彼が無類のオカルト嫌いでして」
軽く答えながら、アーチはビスケットの袋を開けてテーブルの上に置いた。
「結婚式の席で“これ以降は近付くな”と言われて、それっきりです」
「何それ」
「マジで?」
「ひっどぉ」
少年たちはビスケットを仇敵のように噛み砕いた。
「仕方のないことです。未知のものを恐れるのは人間として当然のことですから。できることなら、対話のチャンスが欲しいとは思いますが――」
などと言いながら、結婚式でそのチャンスを自ら積極的に潰したことを思い出し、アーチは苦笑した。横に座ったままで足を組む。
「――まぁ、そう簡単に出来たら苦労しません。血の繋がりも心までは繋げられないのですから、赤の他人となれば尚更、分かり合えないのが当然かと。……だから、家族だろうが親友だろうが関係なく、話さなくてはいけないんでしょうね。話せなくなってからでは遅いのですから」
八年前だったら絶対に、いや、もしかすると数日前の自分でも、口には出せなかっただろう言葉だった。分かり切っていたのにずっと認められなかった理屈が、ようやく腹の底に辿り着いて、不可解なほどすっきりと納まっていた。
「ねぇ、師匠」
小さな呼びかけに振り返ると、アーネストが深く俯いていた。
「なんですか」
「俺……俺さ、その……」
彼は意を決したように顔を上げた。
「俺、キャベンディッシュ家の次男なんだ。反魔法使い主義筆頭の――議員が――父で――だから、その……」
黙っててごめんなさい、と消え入るような声が、テーブルに向かって落ちていった。テーブルの上の小さなこぶしが真っ白になるほど固く握られているのを見て、この告白にどれほどの勇気が必要だったのだろうかとアーチは考えた。
「謝らなくて結構です。君がそれを気にするのは、自然なことだと思います。……ですが、どうやら君は、魔法界側の解釈しか知らないようですね」
「え?」
「キャベンディッシュ氏の主張には、正当な部分もたくさんあります。魔法使いの中にも彼を好ましく思っている人はいます。それに、反魔法使い主義筆頭、というのは魔法使い側が使っている呼び方で、
「……嘘、そうなの?」
「はい」アーチははっきりと頷いてみせた。「ちなみに、私もどちらかといえばキャベンディッシュ氏に賛同する側です」
アーネストは目を大きく広げていた。豚が空を飛んでいるのを目撃したような顔だ。
笑いたくなったのをこらえて、アーチは続けた。
「逃げ続けてはだめですよ、アーネスト」
「……うん」
「君が黙っていたから私も言わなかったのですが」とそっぽを向いて、「実は、最初に私へお金を払って依頼をしてくれたのは、君のお兄さんです」
「えっ?!」
「それがきっかけで、この仕事を始めました。今でも時々、彼の紹介で依頼を受けることがありますよ」
「ええーっ!」
向き直ると、アーネストだけでなくヴィンセントもダニエルもびっくりした顔をしていた。こちらを凝視する目の中には、キラキラの好奇心が星屑のように散らばっている。
それに応えてやりたいのは山々だが。
アーチは軽く笑って「早く宿題を終わらせなさい。でないと、列車の中でもやる羽目になりますよ」と、彼らに現実を突きつけた。
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