第4章
35 魔法使いの師匠
――深夜に寝室を出て一階に降りていくと、父がリビングで紅茶を飲んでいた。
十歳のアーチは茶葉の違いを理解していなかったが、その香りが父の一番のお気に入りのものであることは知っていた。
扉の隙間にぼうっと突っ立っていたアーチを見つけて、父は手招きした。
『どうした。よくない夢でも見たのか』
そういうわけではなかったのだが、アーチは大人しく父の隣へ座った。
『眠れない? なんで?』
翌日は
アーチは、エイブラハム・ウルフの息子だからという理由で主役を押し付けられていた――煽られて買って出た、と言った方が現実に即しているのだが。
持ち前の記憶力と負けん気の強さで、練習は完璧にこなしていた。そして“こんなの余裕だよ”という涼しげな顔を散々してきた手前、もし本番で何かやらかしてしまったら……と思ったら一気に緊張が押し寄せてきたのだ。
悪い想像ばかりが頭の中を駆け回って、気が付いたらすっかり目が冴えていた。
『ああ、それは当然だ、アーチ。父さんだって本番は緊張する』
父は、アーチの肩を優しく抱き寄せた。
そして重大な秘密を告白するように耳元へ囁いた。
『今から君に、世界で一番簡単な、誰にでも使える魔法を教えてあげよう。父さんはいつもそれを使って、仕事をしているんだ』
顔を上げると、父は柔らかく微笑んでいた。
アーチと同じ真っ黒な瞳は、ほのかに輝いているように見えた。
まるで、ワクワクするたびに目の中に散らしてきた星屑を、丁寧に拾い集めて大切に抱えているかのように――。
『それは変身魔法だ。よーいスタート、が魔法の呪文。その言葉で本番が始まった瞬間、君は別人に変身する。ずっと練習してきた主人公その人に変身するんだ。その人に完全になってしまえば、間違うことなんてありえない。君のやることがすべて正解だ。だって君は今その人になっているのだから。幕が下がったら、魔法はおしまい。自然に解けて、君は元通りになる』
父の大きな手が、アーチの頭をそっと撫でた。
『大丈夫さ、アーチ。君ならできる。だってたくさん練習したんだろう? 魔法で現実は変わらないけど、正しく努力をしてきたなら、成功するために必要な勇気をくれる』
ひょいと抱き上げられて、アーチは部屋の外まで運び出された。
廊下に下ろされる。見上げようとしたのを押さえるように、父はもう一度頭を撫でた。
『もう寝なさい。父さんももう寝る。……おやすみ、アーチ』
パタンッ、と軽い音を立てて扉が閉まった。アーチの目の前を塞いだそれは、いつの間にか冷たい鉄の扉になっていた。
遺体安置室の扉。
頭や肩や胸に残っていた温もりがフッと消え去った。
(ああ……もう二度と、話せないのか……)
そのことがすとんと腹の底に落ちた。瞬間、涙が溢れてきた。視界がぼやけて何も見えなくなって――
――その向こうから、雪の上をざりざりと進むタイヤの音が聞こえてきた。
意識が少しずつ現実に戻ってくる。アーチはゆっくりと目を開けた。そうだ、グラストンベリーからここまで車の中で寝ていたのだ。
窓の外は一面雪に覆われていて、その上を夜明け前の青白い光が滑るように広がっていた。
目元を擦りながら体を起こすと、凝り固まった肩や腰が変な音を立てた。その痛みのせいでもう一度涙がこぼれ落ちた。
スウィニーの大きな溜め息が聞こえた。
「はぁ……本当に熟睡してくれて……最悪だよ、何度か死にかけたんだからな……あー眠い……着く直前に起きるところも腹が立つ……」
「だから言ったでしょう? 道のりが倍あったら代わったのに、と」
「ちえっ。君は本当に嫌な奴だ」
「褒めてくれてありがとう」
「どういたしまして」
バックミラーの向こうで、少年たちはまだ眠っていた。
車は雪の中をのろのろと進み、やがて魔法庁の駐車場に停まった。
「ボーイズ、着きましたよ。起きてください」
とアーチが声を掛けると、真っ先にヴィンセントが起き上がった。
彼は欠伸混じりに「ああ、着いたんだ。……ほら、起きろよアーネスト、ダニエル」残りの二人を揺すり始めた。
アーチは外に出て後部座席の扉を開けた。途端に冷たい風が吹き込んで、「ひぃっ……さむい……」と悲鳴を上げたダニエルがうっすら目を開けた。
それから彼はロンドンの街並みを見て、
「ふわぁ……雪……積もったねぇ……」
とまだぽやぽやした声で呟きながら、のっそりと車を降りた。
「アーネスト! 起きろ、って!」
中央に座っていたアーネストはヴィンセントに頭をはたかれてようやく応答した。
言葉の体をなしていない呻き声を上げながら、まだ覚醒していない眼で、誰かを探すように首を巡らせている。
(……あ。そうか。夢……)
アーチはふと気が付いて、車の中に顔を突っ込んだ。
「アーネスト、何か見ましたか?」
「……
彼はアーチを見るなり腑抜けた笑顔になった。
「師匠のお父さんは、師匠の師匠だったんだな。最初に、師匠に魔法を教えた……魔法使いの師匠……」
「……」
アーチは何も言えず、ただ首を振った。
あれは夢だ。実際にあった記憶だけじゃなく、願望も映し出す都合の良い鏡。
演技を一番簡単な変身魔法だと父から教わったことは覚えているし、それがあの時であったことも記憶に残っているが、夢に見るまで久しく忘れていた。
だから、あのやり取りを事実だと鵜呑みには出来ない。
(……それは、あの悪夢も同じ、か……?)
ふとそんなことが頭をよぎった。悪いところを数えるなら良いところも数えろ、とは自分が言った言葉だ。
それなら、良いことを疑うなら悪いことも疑え――あるいは反対に、悪いことを信じるなら良いことも信じろ、ということにならないか?
アーネストは再び眠りに落ちた。つい数時間前の不吉な死相からはかけ離れた、血色の良い安らかな寝顔だ。
座席に投げ出された手にそっと触れる。血の通った手は温かく、冬の空気に触れてもまったく温度を下げていなかった。
アーチは柔らかく微笑んで、
「『
「いっっっでぇっ!」
飛び起きたアーネストが涙目になって抗議してくるのを片手であしらいながら、四人は一塊になって魔法庁に入っていった。その様をスウィニーがひどく不思議なものを見たような目で眺めていた。
四人バラバラに行なわれた聞き取りは優に一時間を超えた。
すでにプレイステッドとエディスン、それにフィルの三人の尋問は終わっていて、アーチたちが聞かれたのは事件にいつから、どの程度関わっていたのかということだけだった。
アーチが宝物庫の件を追及されることはなかった。フィルは黙っているのだろう。彼はいつだってそうやって口をつぐんでくれる良き親友だった。ばれていたらすべて話すつもりだったが、アーチはその恩恵をありがたく受けることにして、それ以外のことを片っ端から正直に話した。
一番遅くアーチが出てくると、廊下のベンチに少年たちが折り重なるようにして座って――倒れて――いた。
「お待たせしました、ボーイズ。お疲れさまです」
「あ、師匠……」
のそのそと顔を上げたダニエルが、疲れ切った笑みを浮かべた。
「大変だねぇ、魔法庁の、お仕事、って……僕もう疲れちゃった……とっても、眠い……」
「みんなそうだってーの」
ヴィンセントが無愛想に言って、ダニエルを突き放した。
「今日は帰って休みましょう。幸い、仕事も入っていませんし」
と、アーチは懐中時計を見て、
「この時間ならもうどの店もやっていますね。何か適当に、美味しいものを買って帰りましょう」
大きく伸びをしていたアーネストが目を開いて「賛成!」と言って、急に元気を取り戻したダニエルが跳び上がった。
「やったぁ。僕ねぇ、何か甘いものが食べたいなぁ」
「現金なやつ……」
とヴィンセントは冷めた目だ。
ともあれ全員、家に帰るまでの元気は出てきたようだった。
彼らを引き連れてアーチが踵を返したちょうどその時、廊下の向こうからバロウッズ先生が現れた。
「やぁ、ご苦労だったね、諸君。全部聞いたよ、大活躍だったと」
大活躍? その言葉には思わず首を傾げたが、あえて否定することもないと思ってアーチは黙っていた。
「グイン・アップ・ニーズの復活を阻止して、決して捕まえられないと有名な
と、バロウッズ先生は満面の笑みで少年たちを見た。
「君たちが濡れ衣を着せられていたこともはっきりした。プレイステッドはあの夜、アップミンスター墓地に一般人を連れ込んで、そこで憑依実験を行なったらしい。君たちが見たのはおそらくそれだったのだろう、とね。通報はヘンウッドが近隣住民に暗示をかけてさせたんだそうだ」
「なるほど、そういうことでしたか」
「そう。そういうわけだから」
バロウッズ先生は深く頷き返すと、大きく開いた袖口から巻かれた紙をひょいと取り出して、アーチに差し出した。
「なんですか、これ?」
「契約書だけど?」
「契約書? なぜ……」
アーチは眉を顰めた。
開くと、それは確かに契約書だった。
アーチとバロウッズ先生が交わした、少年たちを一ヶ月間預かるという仕事内容の契約書――
「……ああ、そうか」
アーチは唐突に理解した。
そして胸の内にごうと吹いた木枯らしをやり過ごすために、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「もともとこれは“停学処分を兼ねた弟子入り”でしたね」
バロウッズ先生はにこやかに頷いた。
「その通り。彼らを罰する理由がなくなってしまったからね。停学処分はおしまい。君の仕事もおしまいだ。つまり――ボーイズ、弟子入りは終わり。今すぐ学校に戻るんだよ」
「「ええっ?!」」
ようやく事態を理解した少年たちが、揃って困惑の声を上げた。
そして一斉にバロウッズ先生の足元に群がった。
「一ヶ月って話だったろ?!」
「ねぇなんでなんでなんで?」
「いきなり放り出されていきなり戻れなんて」
「まだあと二週間以上も残ってるのに!」
「分かんないよ、どうして?」
「振り回すのもいい加減にしろよ!」
「ボーイズ、落ち着きなさい」
「「だって師匠!」」
バッ、と揃って振り返った少年たちに、アーチは“静かに”とジェスチャーをした。
彼らはしぶしぶ口を閉じた。全員ふくれっ面だ。
「随分好かれたね、ウルフ」
「こちらの方が学校より自由に過ごせますからね」
「ふふっ、そういうことにしておこう」
含みのある顔で笑って、先生は杖を取り出した。
アーチも杖を出しながら、もう一方の手で文面が見えるように契約書を持った。
二人は杖先で契約書の文面を指し、
「『我らの思考は正気であり、我らの記憶に偽りなけれど、世界の影に揺らぎあり』」
「『世界の影が揺らぎしゆえ、我らの記憶を修正し、我らの思考を修繕す』」
と呟いた。
文書改竄防止魔法が解かれた契約書を受け取って、バロウッズ先生はペンを出した。契約書を書き換えるのだ。
まるで最初から、十日間だけの契約だったかのように。
その直前でふと、先生はなにかイタズラを思いついたような笑顔になった。
「ねぇウルフ。彼らはお行儀良く過ごせたかい?」
アーチは質問の意味を測りかねて小首を傾げた。
「部屋を散らかしたり、荷物をぐちゃぐちゃに広げたりしていないかな? 喧嘩して暴れてクッションの中身をぶちまけたり、魔法の練習と称して本の順番をめちゃくちゃにしたり、雪の上を転げ回った格好のままベッドに登ったり、していない?」
そこまで聞かれて、アーチはぴんときた。思わずにっこりと笑ってしまう。
そして意気揚々と答えた。
「ええ、それはもう――ひどいものですよ! 今の私の部屋がどんなに汚いか、ご覧になったらきっと卒倒なさるでしょうね!」
憤然として反論しようとしたヴィンセントの口を、アーネストが素早く押さえるのが目の端に見えた。彼は理解しているらしく、ダニエルにも必死に黙れと合図をしている。
バロウッズ先生が笑みを深めた。
「それじゃあ、その片付けには時間がかかるね。二日、いや三日ぐらいかな? ああ、ちょうどいい、切りよく二週間にしよう。今日が日曜日だから、月、火、水、と」
ぼそぼそ呟きながら、契約書に文章を付け足していく。
「水曜日までだね。ウルフ、家をすっかり綺麗にさせて、十六日の放課後ぐらいに学校へ着くようにしてくれるかな」
「わかりました、先生」
すっかり新しくなった契約書を受け取って、今度はアーチがサインをした。
状況を理解した少年たちが大人しくなって、こっそりハイタッチをしていた。
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