32 refreshing
アーチが死に直面したのはこれが初めてではない。
普通の人よりもずっとたくさん死の淵に指を這わせてきたし、淵の中へと爪先を突っ込んでみてはぎりぎりのところで引き返してきた。吸血鬼、ドラゴン、他にも様々な脅威が、アーチを淵の中へ突き落そうとしてくるのを、彼はいつだって相手だけを蹴落として、道連れにしようと掴んでくるのを蹴散らして、生き残ってきたのだ。
だからよく分かる。
自分が今、その淵に飲み込まれていくのが。
夜の闇よりなお濃い闇に包み込まれて、体がどんどん溶かされていく。“裏道”の時よりもずっと温かくて、得体のしれない安心感があった。
蹴落とす相手も、そんな気力もない。
――これですべてから解放される、という背徳的な悦びさえ感じた――
「
眼前に金色の光が散らばったと思ったら、水が引くように暗闇が晴れた。
アーチは何が起きたのか咄嗟に理解できなかった。誰かが死の淵から自分を引っ張り上げたのだ。
だが一体誰が?
目を開けると、サファイアの瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていた――
――アーネストだ。
「
「え……?」
「貴様、なぜ――!」
アーチだけでなくプレイステッドまで動揺していた。当然だ、アーネストは死んだはずなのだから。
だが彼は生きていた。生きて、その温かい手で、アーチの手を握っている。彼はもぞもぞと起き上がって、アーチの手を両手で包み込んだ。祈るように額を寄せて、もう一度唱える。
「『直ちに危機を知り都合を問い質せ、そして汝に染み込みし不浄を取り払え、
ひゅ、と風が吹き抜けたような感覚がして、アーチの体がさらに軽くなった。毒が消えたのだ。唇の端から溢れ出ていた血が止まる。痙攣が収まり、手足の感覚が戻ってくる。
アーネストは顔を上げ、へへ、と笑った。
「毒って“危機”だし、“不浄”かなって思って」
「っ……」
アーチは彼の手を強く握り返した。奥歯を食いしばって溢れてきた涙をこらえる。とても信じられなかった。自分が死んで天国で再会したのだと言われた方がまだ納得できる。だが……だが、違うのだ。プレイステッドが「貴様かヘンウッド!」と叫んで、フィルが「その通りだよ馬ー鹿っ!」と叫び返した。
こんな場所が天国であるわけがない。
つまり、アーネストは生きている!
その上――ああまったく、子どもの発想力には敵わない――洗濯魔法で体を洗濯されるとは思わなかった!
「師匠!」
「アーネスト!」
ダニエルとヴィンセントが駆け寄ってきた。ダニエルがスーツケースを放り出してアーネストに飛び付いて、ヴィンセントがアーチを助け起こす。アーチが「君たちは無事ですか?」と聞くと「今一番無事じゃなさそうなのは師匠だよ」とむすっとして答えた。だが「なら、全員無事ということですね」と笑ったら、三人ともちらりと顔を見合わせて、にっこりと頷いた。
良かった。全員生きてる。自分も含めて、全員が!
アーチはまた涙が出てきそうになって、慌てて目を瞑ると頭を振りながら立ち上がった。
(……もう二度と、ごめんだ)
アーチはぐっと拳を握りしめた。
他人の復讐にこの温もりを奪われてたまるものか――たとえそれが、どんなに悲願の復讐であろうとも。
振り返ると、プレイステッドがフィルに杖を突きつけていた。
「ヘンウッド、貴様、囮に使ったらもう充分だから殺すとそう言って――!」
「ああ、そう言った。だから、
仮死薬。ブライドリーの森で言っていたやつだ。
確か、一時的に仮死状態にして、効果がある間はあらゆる傷が停滞する、と。
「お前ならただ脅すだけじゃ済まさない。絶対に刺すって思ってたよ、プレイステッド。……睡眠薬にしなくて良かった」
「貴様、騙したのかっ!」
「騙された方が悪いんだろ? それにほら、僕に構っている余裕はないはずだ。――スリム・ウルフが牙を向くぞ!」
その言葉にプレイステッドがハッと振り返った時には、アーチはすでにスーツケースを振りかぶっていた。
夜闇よりなお濃い黒い瞳が、地獄の業火のように燃え盛っている。
「くそっ!」
わざと遅くした振り下ろしを、プレイステッドは簡単に躱して大袈裟に距離を取った。
それでいい。今のはフィルから引き離すための牽制でしかない。
「『
真っ直ぐ飛んできた雷撃をスーツケースで打ち払い、「フィル、下がって、三人と一緒に」と言うが早いか大きく踏み込む。「先生!」と駆け寄る少年たちの声が一瞬で遠退く。
大きめの呪文を詠唱していたプレイステッドが、あからさまに慌てた顔になった。普通の魔法使いは単独での戦闘をしない。したとして生身で突っ込むなどということはありえない。普通は使い魔を盾にして、自分は安全圏から魔法を撃つものだ。
そのセオリーを真っ向から無視するアーチを相手に、悠長な詠唱など隙でしかない。
さすがに歴戦の捜査官だ。プレイステッドは即座に詠唱を切り上げると、さらに後ろに下がってアーチから距離を取り、胸ポケットに手を突っ込んだ。
「行け、マーベリウス!」
アーチは咄嗟に急ブレーキをかけ、横に飛び退いた。
プレイステッドが放った石が空中で大きな蛇に姿を変え、アーチの影に牙を突き立てた。
(使い魔。これが本体か)
実に巨大な蛇だった。アーチが三人束になっても平気で丸呑みにするだろうと思える大きな口から、紫色の煙が上がっている。枯葉色の胴体は光を反射してぬらりと光り、固そうな鱗がびっしり連なっているのが見えた。
アーチはスーツケースを握り直した。この大きさでも一匹だけなら余裕だ。
縦に裂けた瞳孔がアーチを捉えた。
「シャアアアアッ!」
突進してきたのを横に躱す。勢いのまま背後に滑っていった蛇を、アーチは無視することにして駆け出した。
使役者がいるならそちらを殴った方が話が早い。
プレイステッドの方に向かって踏み込み、
「っ!」
反射的にスーツケースを盾にした。蛇の尾が突然翻ってこちらに迫ってきたのだ。それに押し返されてたたらを踏む。
ただ、薙ぎ払われたわけではなかった。
(なるほど、絞め殺される!)
思ったよりも蛇の動きが早かったのだ。通り過ぎた半身がぐん、と戻ってきて、アーチの周りを取り囲む。
アーチはスーツケースを振り上げて、蛇に向けて振り下ろすと同時に唱えた。
「『
衝突と同時にスーツケースから手を離す。反動で体重を半減させた体が吹っ飛び、蛇の包囲網を突き破った。
「『
「『影は忍び寄り汝の足を絡め取る』!」
着地した瞬間を狙ったかのように、プレイステッドの詠唱が完成した。
自分の影が地面から離れ足に絡みついてきた。ぎしり、と締め上げられて動けなくなる。
動きを封じられたアーチ目がけて、蛇が大口を開けた。
アーチは咄嗟にジャケットのボタンを引きちぎって放り投げた。
「『
銀製のボタンが蛇の口の中で弾け飛び、蛇が一瞬怯んだ。その隙に杖を頭上に掲げ「『
そして改めて噛み付いてきた蛇を紙一重のところで躱した。
そのままアーチは距離を取らずに踏みとどまった。鱗の端が体を掠めてコートや頬を裂くのにも構わず、蛇の大きな眼に杖先を向ける。
小さいやつには躱されたが、この大きさなら外しようがない。
「『
「ッ、キシャアアアアアアッ!」
雷撃が突き刺さって片目を潰された蛇が大きくのたうった。
それに潰される前に「『
さっき手放したスーツケースのもとへ走り、それを拾い上げ、
「『炎は矢となり汝の骨を貫く』!」
その瞬間に放たれたプレイステッドの魔法を避けられなかった。
高密度の炎の矢。
それらが一斉に降り注ぎ、雨に濡れていた地面から水蒸気を濛々と立ち昇らせる。
「ははははははっ! 直撃だ! 骨も残るまい――」
「――ぬるい」
「なっ!」
この程度の魔法で十七年間も愛用しているスーツケースを貫けるとでも思ったのだろうか。
水蒸気を切り裂いて飛び出てきたアーチに、プレイステッドは驚愕の色を隠せず硬直した。その頬に、
「ふっ!」
右ストレートを突き刺した。さすがに人体をスーツケースで殴ったら殺しかねない。
「うぐっ!」
完全な不意打ちに殴り飛ばされ膝をついたプレイステッドは、しかし唾を吐いて素早く立ち上がった。
「かっ、ふっ……」
「おや、意外と丈夫ですね」
やっぱりスーツケースで殴った方が良かったかもしれない。そんなことを思いつつ追撃を掛けようと踏み込み、しかし直前で反転して飛び退いた。
蛇の牙が下から掬い上げるようにして空を切り裂き、アーチの肩口を掠めた。切り傷としてよりも毒の痛みに顔を歪め、「『
一旦距離を取って改めて彼らに対峙した時だった。
憎々しげにこちらを睨みつけたプレイステッドが「『分裂せよ』!」と命じた。
瞬間、枯葉色の蛇が縦横に裂け、何百匹という小さな蛇の大群に変わった。
(っ……マズい、これは!)
「『
アーチは杖を振りながら飛び退いた。この量を押しとどめることは出来ない。一人なら空中に逃げられたが、ここには――
「
「こっちに!」
アーチは彼らの呼びかけに従った。
群がってくる蛇たちを吹き飛ばしながら駆け戻る。
塔の前に陣取っていた三人が三角形を作るように立っていた。その中にアーチが入った瞬間、「せーの!」とアーネストが号令をかけ、
「「『
三人が同時に結界を形成した。
見えない壁を押し潰そうと蛇の大群が押し寄せてくる。バチッ、バチバチッ、と鎬を削る音がする。
プレイステッドが笑いながら、
「ガキの『防壁』ごときで防ぎきれると思うなよ!」
と脅すように吠えた。
アーチは鼻で笑った。
「どうやら彼は、君たちが私の弟子であることを知らないようですね、ボーイズ?」
「みたいだねぇ!」とダニエル。「『防壁』ができなきゃ師匠の仕事に付いていけないのに!」
「何度か死にかけたもんな!」とアーネスト。「それに比べたらこの程度!」
「こんな小さい蛇
「そのまま少しだけ保っていてください。一掃します!」
「「
たいへん頼もしい返事だ。集団行動も案外悪くないのかもしれない、などと思いながら、アーチは胸の前に杖を構えた。
ゆっくり詠唱できるなら、自分が出来る最大のものを思い切り撃ち込んでやろう。殺してしまうかもしれないが、手加減したら反対にやられる。
(……それに、あんなやつ死んだところで――)
「アーチ」
咎めるように、フィルが彼の肩を掴んだ。
フィルは罪悪感に耐えるように瞳を揺らしながら、引き攣った顔で申し出た。
「謝罪は後でさせてくれ。今は――ソネットの十四番だろう? 手伝わせてくれないか」
思わぬ提案にアーチはちょっとだけ面食らった。本来は二人以上でしか撃てない大規模魔法詩文『ソネット』。学生時代の練習相手はいつもフィルだったのだ。
一人の時はいつも『援護』を使った上に詠唱を短縮して、無理やり撃ってしまっているのだが。二人でやれるなら二人でやった方がいいに決まっている。
ましてそれが親友であればなおさら。
アーチは学生のように、ニィと笑った。
「思い切り撃つ。調整は頼むよ、フィル」
「っ……」
フィルのブラウンの瞳が一瞬だけくしゃりと歪んで、しかしすぐに輝きを取り戻した。
そして彼もまた学生のように笑った。
「ああ! 任せろ!」
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