31 宿敵・


 アーチは絶叫してなりふり構わずアーネストに駆け寄った。なぜか邪魔されることはなかったのだが、そんなことを不審に思う余裕もなく。


「アーネスト、アーネスト! しっかり……!」


 手に食い込んでいたガラス瓶を放り捨て、アーネストを抱きかかえた。

 ナイフは根元まで深々と突き刺さっている。

 見事に心臓の位置だ。


「『東の椅子を掲げたまえ、癒しの水を与えたまえ、治癒heal』!」


 アーチを中心に、金色の光がぶわっと広がった。それらは渦を巻いてアーネストの体にまとわりついた。


「『援護boost』」


 魔法の効果を『援護』で持続させたまま、ゆっくりとナイフを抜く。そうしないと出血で死んでしまうとアーチはよく知っていた。だがそれは腕や足の話である。心臓は? 心臓など刺されたこともなければ、刺された人間に出くわしたこともないアーチにとってそれは未知の領域だった。

 血は出なかった。

 アーチはナイフを放り捨て、アーネストの首筋に触れた。

 ――脈は冷たく固まっている。


「……嘘だ」


 脈がないなんてそんなことあるものか。だってきちんと治したのだ。刺されてから数秒も経っていないのに、こんな簡単に命が奪われるなんてことがあるものか!

 だが事実として、口も肺も動いていない。どんな表情も浮かべていない真っ白な顔の彼は、作りかけのビスクドールのようだった。

 そしてその人形同様、彼は息をしていなかった。


「嘘だ……」


 縄を解いて手首に触れても事実は変わらなかった。

 脈は動いていない。

 彼は死んでいる。


「嘘だ、こんなの……! 『治癒heal』! 『治癒heal』!」


 金色の光が無造作にばらまかれる。

 何度も何度も全力で唱えて、魔法はきちんと作動しているのに、抱き締めた小さな体は冷たいままだった。


「『治癒heal』……!」


 頼む、治ってくれ、とアーチは心の底から祈った。

 頼むから目を開けてくれ。

 こんな風に死なないでくれ。

 僕のせいで不幸にならないでくれ。

 魔法が本当に奇跡の業ならば、どうか彼を助けてくれ!


「『治――」

「アーチ、もうやめるんだ」


 聞き慣れた優しい声がして、誰かが肩に触れた。

 アーチの本能が振り返るのを拒んだ。振り返っていけない、認めてはいけないと魂が強く叫んだ。


「もうやめて……頼むから、これを飲んでくれ」


 珍しく、体より先に思考の方が走り出す。

 ――ボーギーは人殺しの言うことを聞かない。プレイステッドは父の殺害に加担した。なら誰が自分の足を縫い付けるように頼んだ? 自分たちが何時の汽車に乗るのか知っていたのは誰だ?

 カレッジの宝物庫に忍び込む方法は魔法庁の職員では知り得ない。カレッジ内部の人間の協力が必要だ。ゴヤの怪物のルートを使って宝物庫に忍び込めるのは誰だ? それを知っているのは自分以外に誰がいる?

 プレイステッドが【ハンプティ・ダンプティの黄身】を持っていたのは何故だ? ダニエルはそれを誰に渡した?

 それらすべてに当てはまる人。そんなの、一人しかいない――

 どうか否定されてくれ、と思わず願った。願いながら、アーチは全身にまとわりついてくる冷たい影へあらがうように、ゆっくりと振り返った。

 ――傍らに膝をつき、薬の瓶を差し出して、その男は微笑を浮かべていた。


「ごめんね、アーチ」


 彼の唯一の親友は、口先に謝罪の言葉を転がした。


「……フィル……?」


 アーチはもう何も考えられなかった。瞬き一つ出来ないで、ただ茫然と、弟子の亡骸を抱えたまま親友の顔を見詰めていた。


「ごめん。僕からも頼むよ。これを、飲んでほしい」


 フィルは繰り返した。


「君、不思議がっていたね。僕にパートナーがいないこと。原因があるんじゃないか、ってさ。……びっくりしたよ。カレッジを卒業して、大学の四年間会わなくって、再会した後も一度もそんなことに興味を示さなかった君がさ。やっぱ、弟子の力なのかな」

「……」

「あの時は誤魔化したけど、本当はいたんだ。大学の頃にね。婚約までした相手が。本当に、心から愛して、一緒に人生を送ろうと決めた女性が」

「……」

「彼女の名はリネット・ジョンソン。五年前、普通列車の脱線事故に巻き込まれて、他の乗客たちを救うために死んだ魔女だ」


 ふ、とアーチはテレビの画面を思い出した。なぜかその画面は実際に見た時よりも鮮明に思い出された。

 そうか、あの時映った見覚えのある顔は、フィルだったのか。


「僕は、彼女を生き返らせるためにプレイステッドの計画に乗った」


 そう言いながら、フィルは泣くのをこらえるようにちょっと唇を噛んだ。


「宝物庫に侵入したのは僕だ。君と一緒に校則を破ったことが、こんな風に活かされるとは思いもしなかったよ」


 彼は表情を消して、淡々と続けた。

 その声は機械音声のように、無機質な響きでアーチのもとに届いた。


「三人に【ハンプティ・ダンプティの黄身】を取られたことには驚いたけれど、これは反対に使えると思った。君の耐性の強さは知っていたからね。きっと女神の器になれると思ってた。でも、君が協力してくれるとは思えなかったし、無理やりなんて返り討ちに遭うに決まってる。だから、バロウッズ先生に君を推薦したんだ。師匠役を任せてはどうかって。きっと君は上手くやって、弟子たちが人質になってくれると思ってた。……まぁ、僕が言うまでもなく、先生は君に任せるつもりみたいだったけど」


 思った以上の効果だった、とフィルは小さく付け足した。


「ブライドリーの森ではわざと時間を忘れた振りをした。君の耐性の強度を測るため……それと、ブラック・レディが君の魂を抜いてくれたら、一番穏便に器が手に入るなと思ってね」

「……いつから……」

「ん?」

「いつから、こんなことを……?」


 フィルはきまり悪そうに髪を掻いて


「【レディ・マフェットの瞳】がカレッジの宝物庫にあるって知ったのは、数ヶ月前だ」


 と答えた。


「僕が一つ目とmono-eye逆さ十字団and SSORCに接触したのは……三年前くらいかな」


 五年前じゃないのか、とアーチは呆けた心でぼんやりと思った。

 まるでそれを読み取ったかのように、フィルは冷たい目になってアーチを見た。


「君がきっかけなんだよ、アーチ」

「……?」

「ほら、四年前の、吸血鬼の事件さ。あれで君は大怪我を負って、一ヶ月ほど意識を失っていただろう?」


 彼は大きく音を立てて溜め息をついた。


「その時に心底嫌になったんだ。君もリネットも、自分のことを後回しにして……たとえ他人だろうと誰かの幸せのために尽くすのは当然のことだ、って顔してさ。それで助かった人たちはいいだろうね。でも……君たちと生きていくことが幸せだった人は、どうなると思う……? 君たちの犠牲のおかげで、僕らはすっかり不幸だ……」

「フィル……」

「でも、君たちは変わらない。何を言ったって無駄だ。だから、僕が変わるしかない。だから……ごめんよアーチ。思い知ってくれ」


 フィルはアーチにガラス瓶を押し付けると、プレイステッドの隣に並んだ。


「師匠、駄目……っ!」


 か細い声に振り返ると、ダニエルが首根っこを掴まれていた。プレイステッドが今にもダニエルの目に杖を突きいれようという素振りを見せながら、アーチを冷たく見遣る。


「さぁ、早く飲みたまえ。でないと――」

「『雷撃ビリビリblitz』!」


 突然、その向こうから決死の声が響いた。ヴィンセントだ。倒れたままタイミングを窺っていたらしい。

 その閃光はプレイステッドの背中に直撃した。


「やった……」

「――弟子のしつけがなっていないな、ウルフ」


 プレイステッドはじろりとヴィンセントを睨みつけた。


「そんなっ……」

「私が護符を持っていないとでも思っていたのか?」


 プレイステッドの代わりに焼け焦げた護符が、ジャケットの内側からはらりと落ちた。そして彼は杖を振り上げ、


「待て!」


 アーチが出した大声にぴたりと動きを止めた。


「頼む、から、待ってくれ……」


 みっともなく声が震える。

 プレイステッドは杖を上げたまま、顎で“飲め”と命じた。

 もうアーチは躊躇わなかった。躊躇なかった。自分のせいでこの冷たい体がこれ以上増えてしまうのは我慢できなかった。

 アーネストを地面に下ろし、即座にガラス瓶の栓を開ける。一息に中身を飲み干した。味も温度も分からなかった。ただ液体が喉を滑り落ちていく感覚だけがあり――

 心臓が跳ねた。


「っ……が、はっ!」


 アーチはその場に崩れ落ちた。

 意思に反して全身が小刻みに震え始め、汗がどっと噴き出す。歯の根が合わない。視界が二重三重にぶれて歪んでまだらに点滅した。あっと言う間に意識が薄れ、自分の体がどちらを向いているのかも分からなくなる。

 フィルの動揺しきった声が遠くに聞こえた。


「反応が違う。どういうことだ?!」

「ふっ、はっはははははははは! あははははは!」


 プレイステッドの高笑い。


「魂を安全に抜く? 終わったら戻す? 馬鹿を言うな、そんなこと誰がするものか! 異常者オッド贔屓の愚か者に!」

「まさか君、魔法薬じゃなくて……」

「ああそうだよ、あれはただの毒だ。呪いですらない、単純に人を殺す毒だ! それならばアイツの耐性だって関係ないだろう?!」

「っ、アーチ!」

「『雷撃ビリビリblitz』!」

「うぐっ!」


 フィルの倒れる音が、枝から落ちた雪のように響いた。


「プレイステッド……それじゃ、君は、まさか……」

「ふんっ、死者の蘇生? そんなこと出来るわけがない。五百年以上の研究の歴史がそれを証明している。死者の蘇生は不可能だ。……だから私は復讐するんだ。私の一族を殺した愚かな異常者オッドどもに、血の制裁を与えるんだ!」

「騙したのか……」

「騙される奴が悪いんだよ」


 ガンッ、と衝撃に襲われ、背中が一瞬冷たくなった。

 だがすぐにその感覚も遠退いて、むせ返るような熱が腹の底から全身を駆け回り、焼けつくような痛みと気だるさが同時にアーチの手足を押さえ込んだ。

 仰向けになった視界がパタパタと明滅する中に、かろうじてプレイステッドの顔が見える。


「さぁ、早く死ね、スリム・ウルフ。死んでその体を明け渡せ。異常者オッドを救うために働いた体を、異常者オッドを殺すために使ってあげよう!」


 アーチは瞼を閉じようとしたのだが、もう体は言うことを聞いてくれなかった。

 痙攣のせいで意図しない瞬きが何度も何度も起きてしまう。暗転と明転が不規則に起きて、世界は歯の抜けたパラパラ漫画のように細切れになった。

 思考もバラバラになる。


(……ごめん、父さん……)


 明転。

 口の中に血の味が広がった。


(ごめんなさい……父さんの、言った通りだ……)


 魔法使いはまともじゃない。

 まともな幸せを掴めるわけがない。


(……だから、せめて……自分は、幸せになれなくても……誰かを……)


 暗転。

 胃の方からせり上がってきた塊に喉を塞がれて咳き込んだ。

 だがその行為も生理的な反射でしかない。プレイステッドが何か言っているようだが、もう何も理解できない。


(父さんみたいに……みんなを、幸せにする魔法を……)


 明転。

 アーネストの顔が見えた。濡れた地面に頬を付けて、力なく瞼を閉ざしている。

 彼のあの輝かしいロイヤルブルーの瞳は、もう何も映さないのだ。


(……っ……)


 悔しい。悔しくて涙が出てきた。父に認められるどころか、それ以前のことすらまとも・・・に出来なかった。フィルのこともそうだ、自分はいつも鈍感を気取って親友すら“他人”として扱っていた。誰にも興味を持たなかった。もっと、もっと早く彼のことを見ていれば、彼の苦悩に気が付いていればあるいは――

 ――暗転。


(……ごめんなさい……全部、僕が悪いんだ……)


 師匠マスター、と誰かに呼ばれたような気がしたのが、最後だった――

 

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