29 魔法の使い方
――アーネストが誘拐された。
その事実を認めて、アーチの目の前が真っ赤になった。
そうだ、そうするほかない!
だが、ヴィンセントが床を踏みつけた音ではたと冷静になった。
「畜生! くそっ! プレイステッドめ! だから嫌な感じがするって言ってたんだ!」
自分より動揺している人が近くにいると自然と落ち着くものである。
アーチはスマホをポケットにしまった。
「落ち着いてください」
「これが落ち着いてられるかよ!」
「それでも、です。誰にも言うなと言われたのを聞いていなかったのですか?」
そう言うとヴィンセントはぴたりと口を閉ざした。腕を組んでふくれっ面になって、言葉の代わりに爪先をばたばた動かす。ダニエルはあからさまに狼狽して、目を潤ませていた。
アーチは意識して笑みを浮かべた。彼らが安心するように――自分が落ち着くように。
「とりあえず、一度家に戻りましょう。時間はありますから、しっかり準備をしなくては」
アーネストに言われるまでもない。この場合、狙われているのは自分だ。わざわざあとの二人を連れてこいと言ったのは、予備の人質といったところだろう。本当は彼らを置いていきたかったが、それが通らない希望であることは分かっている。
ヴィンセントとダニエルはゆっくりと頷いた。
家の床には爆発の痕跡がくっきりと残っていた。【癇癪玉】の破片もあちこちに飛び散っていて、壁や戸棚に刺さっている。
「この辺りを軽く直しておくので、二人は昼の用意をお願いします」
「了解」
「うん」
「普段より多めにしてください。肉も卵も使って」
「分かった」
不安な時ほど手を動かした方がいい。出来るだけ不安の原因から離れたことをして。現実逃避ではあるが、冷静な思考を取り戻すには重要なことだ。幸い、と言っていいのかどうかは分からないが、取り戻すだけの猶予は与えられたのだから。
アーチは破片を一つ一つ取り除きながら、ぐるぐると思考を巡らせた。
(プレイステッドがすべての犯人であることは確定した――動機は三十年前の“魔女狩り”事件だとして、狙いはなんだ? 復讐? グイン・アップ・ニーズは闘争と死の女神、復活させることが出来たなら、百万単位で人が死ぬのは確かだけど……)
『悪夢を忘れることなんかそう簡単にはできないよね。そうだろう?』
バロウッズ先生の言葉と一緒に、父親の死体の映像が脳裏に浮かんできた。その時に感じた怒りも悲しみも悔しさも全部明瞭に思い出せた。
いや、これは“思い出した”のではなかった。
それはまるで腐らないリンゴのように、ずっと新鮮なまま心に置き去りにされているものだった。
(復讐……か)
考えなかったわけではない。目の前に犯人がいるなら絶対に殺すだろうという確信もある。フリーランスをやっているのには、半ばそれを期待している向きもあった。
いずれ犯人に辿り着けるかもしれない、という小さな期待。
(でも、“魔法使い”とか“一般人”なんていう大雑把な括りで恨むことなんてできるのか? 直接の加害者でない人間も交ざっているのに? ……それはあまりに非合理的というか、怒りを向ける対象が分散してしまって燃費が悪いように思える)
だがたとえば、父を殺した犯人が、同時に母や姉も殺していたとしたらどうだろう?
あの灰色の部屋に三つの死体が並んでいたとしたら?
そのどれもが目を潰され、体の一部を奪われていたら?
アーチは咄嗟に頭を振った。あまりに不吉すぎる想像だ。
(……だとしても、ありえない。悪いのは犯人だけだ。すべてをひっくるめて悪いと決めつけるなんて……)
ああ、だが、それは実際に経験してないからそんな風に言えるのかもしれない、とアーチは思った。
想像と実体験との溝は思っているよりずっと深いのだと、この歳になれば理解している。
(……それでも……)
最後の一欠片を拾い上げる。
集めた破片をゴミ箱にざらざらと落として、アーチは両手を払った。
(魔法を人殺しに使うのは、
「師匠、出来た」
「ありがとうございます。こちらももう終わります。――『
杖を振ると、小さな金色の光がいくつも、シャボン玉のようにぽわぽわと浮かんで破損個所を覆った。しばらくその場所に留まった光は、徐々に小さくしぼんでいき、やがて消えた時には破損はすっかり元通りになっていた。
「すげぇ、便利だな」
「そろそろ学校で習うと思いますよ。ただ、破片とか元々なかったものがそこに残っていると、それを飲み込むようにして直るので気を付けてくださいね」
「人がいたらひどいことになりそうだな」
「……そうですね。かなり危険です」
その発想はなかった、とアーチはこっそり舌を巻いた。子どもの発想力はすさまじいものである。
「使い方だよねぇ」
卵の皿を持ったまま突っ立っていたダニエルが、ポツリと言った。
「植物だって、同じやつでも毒にも薬にもなるんだもん。魔法だってそうだよね」
そう言ったダニエルの大人びた顔は一瞬でしなびた。
「アーネスト、大丈夫かなぁ……」
「大丈夫に決まってんだろ!」
ヴィンセントがその背中を思いきり叩いた。
「そうじゃなきゃ人質の意味がない!」
「その通りです」
アーチもヴィンセントに同意して頷いた。そうであってほしい、という願望が混ざっていたことは自覚していたが、それを少年たちに知らせる必要はない。向こうからすれば、アーチたちをおびき寄せられればそれで済むのだから、アーネストの出番は最初の一言だけでおしまいという可能性も充分に考えられるのだが――アーチは心臓の裏を引っ掻かれたような感じを覚えて、咄嗟にグラスを掴むと冷たい牛乳を流し込んだ。
そして何事も無かったかのように、どっさり盛られたパンに手を伸ばした。
「まずは食べましょう。いざという時に動けなくなっては困りますから」
「うん!」
それからしばらくはひたすら食べる。しゃべりたくないわけではなく、余計なことを考えたくないだけだった。
用意したものが半分ほど消えた時、ダニエルが思い出したように顔を上げた。
「あのね、師匠がいない間に、僕らのところに師匠の同級生の……何だっけ?」
ヴィンセントがぼそりと助け舟を出した。
「ウィリアム・チアーズ」
「そうそう、チアーズさんが来てね」
「
「太った鶏肉?」
「丸々太っていたでしょう? その上無類の臆病者だったので、そう呼ばれていたんです」
アーチが解説すると、ヴィンセントが「へぇ。あぁまぁ確かに、そんな感じの人だったな」と頷いた。
「それで、彼がどうしたんです?」
「んーとね、師匠のイタズラの話をしてくれたの」
「彼には私、なにも……あ、いや、ベンフィールドの巻き添えにした気がするな。三人まとめて肥溜めに突き落としたんでした」
「あはは、その話もしてた。ひどい目に遭ったって言ってたよ」
話が脱線しそうな気配を察したのか、「本題はそれじゃなかっただろ」とヴィンセントが舵を切った。
「あっ、そうだった」
「違うんですか?」
「うん。あのね、師匠のイタズラは、絶対に自分のためじゃないんだ、って」
思わぬ言葉にアーチは声を失った。
「バロウッズ先生のチーズケーキを盗んだのは、バロウッズ先生が寮に来た時、偶然共有スペースに置いてあったケーキを食べちゃったからだって。そのケーキ、誕生日だった後輩のために他の子が頑張って用意したものだったのに」
「クィルター先生をハゲさせたのは、先生が間違えて生徒を丸坊主にして、そいつがずっとからかわれてたから、そこから注目を逸らすためにみんなに賭けを持ちかけて、報復も兼ねてそうしたとかなんとか」
「ミル先生をトイレに閉じ込めた話、最高だったよねぇ」
「あれはマジで最高」
ニヤリと笑ったヴィンセントがひょいとアーチの方を向く。
「なぁ師匠、激やせトニックウォーターの作り方教えてよ」
アーチは顔をしかめた。
「嫌ですよ。君たちがそれを使ったら全部私のせいにされる」
「ちぇ。いいじゃん別に」
「よくありません」
「それもさ、ミル先生が自分のこと棚に上げて、太ってる子をいじって泣かせたからなんでしょ?」
ダニエルが目をくりくりさせながらアーチを見上げた。
アーチはなんだかいたたまれなくなって目を逸らした。
「チアーズが私をそんな肯定的に捉えているとは思いませんでした」
「違うの?」
「……どうでしょうね」
曖昧に微笑んで誤魔化そうとしている自分に気が付いて、アーチは慌てて言葉を繋げた。
「私は私がやりたいようにやっているだけですよ、昔も今も。出来るだけ
盗んだチーズケーキは自分で食べたし、ハゲ魔法の一件はだんだんエスカレートして最後には当初の目的をすっかり忘れていた。激やせトニックウォーターに至っては、『これであのババアに仕返しする名目が出来た!』とガッツポーズをしたくらいである。
そんなことを思い返していたら、ふとしっくりくる言葉を見つけた。要するに――
「――“誰かのために”を免罪符に、自分勝手なことをしているだけですよ」
「へぇ」
興味なさそうな相槌を打ったヴィンセントが
「じゃ、今の仕事もその延長なんだ」
「ええ、おそらく」
「おそらくって、自分のことだろ?」
「自分のことを知るのが一番難しいものですよ。鏡を見ても、心までは映りませんから」
ヴィンセントは「ふぅん?」と首を傾げた。
もそもそと卵を口に運んでいたダニエルが、恐る恐るといった風情でアーチを窺った。
「……じゃあ、師匠は、魔法使いのこと嫌いじゃないんだね?」
「はい」
アーチははっきりと頷いた。
「嫌いだったら、魔法使いをやってはいませんよ」
そう言うと、ダニエルはようやく安心したように「良かったぁ」と相好を崩した。
用意したものをすっかり片付けると、アーチはデスクの引き出しを漁り始めた。自分には必要ないからとろくに管理していなかったことを、こんな風に後悔する時が来ようとは想像もしていなかった。
「ええと……確かこの辺に……あった」
「何それ?」
「護符です。雷避け、氷避け、炎避け、毒避け、呪い避け……」
色とりどりの紙や石や骨が雑多に放り込まれている箱を引きずり出して、アーチは一つずつ床に並べ始めた。
二人が寄ってきてしゃがみこむ。埃をかぶっているそれらをヴィンセントは疑いの目で見た。
「効き目あんの、これ?」
「持っていないよりはマシだと思います」
「……まぁ、そうだろうけど」
ヴィンセントは嫌そうにそれらをポケットに突っ込んだ。
「準備しておけばよかったね……僕、こういうの得意なのに」
ドルイドは魔除けや治癒に秀でている。確かに、ここにあるガラクタよりずっと良いものをダニエルなら用意できるだろう。
「今更遅ぇっての」
「そうだけどさ……」
冷徹なヴィンセントの言葉にしゅんとするダニエル。
アーチは励ますように彼の背中を撫でた。
「予期できたことではありませんから。今あるもので最善を尽くすしかありませんよ。――では、そろそろ行きましょう」
外は三人の足取りと同じぐらい重たい曇天が広がっていて、今にも冷たい雨が降り出しそうな色をしていた。
一般のバスに四時間ほど揺られている内に、みぞれのような雨が落ち始めてきた。辺りはもう闇に溶けて、まったく何も見えない。ただ濡れた路面をタイヤが擦るざりざりという音が聞こえるだけで、それは眠るのにも適さないノイズである。
バスの中では出来るだけ寝て過ごしたいアーチも、今だけは目が冴えてしまって仕方がなかった。だが、やはり緊張しているのだろう、酔うこともなかった。
バスはアーサー王の墓の前を通って、トーの丘の横に停まった。
こんな季節のこんな時間では観光客はおろか地元民すらろくにいない。これから起こるだろうことを思えば好都合だった。
ぱた、ぱた、と落ちてくるささやかな雨は冬の乾燥した空気を少しだけ和らげていたが、三人のひりついた緊張をほぐしてはくれない。
三人は無言でトーの丘を登り始めた。
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