26 学び・教え
狐火を反射したのは、透明な石だった。
「そうか! 龍石!」
アーチは目の裏で星が弾けたような感覚を味わって、その石を手に取った。
先月倒したドラゴンの脳から取り出した、たいへん希少な石。売れば
アーチは迷わず壁に叩き付けて割った。
龍石はあらゆる毒に対して強い抵抗力を示す。本来はアクセサリーなどにして毒を“予防”するためのものなのだが、体内に入れれば毒の浸透を押しとどめてくれるだろう。効果を遅らせてその隙に解毒が完遂すれば助かるはずだ。
理論上は。
(“机上の空論だろうが成立したなら魔法は出来上がる”だ)
バロウッズ先生の言葉をいつものように支えにして、アーチは手早く準備を進めた。
龍石の破片を解毒薬の中に突っ込んで火にかけて溶かし、かつてない異様な臭気を漂わせるようになった液体をエディスンへ無理やり飲ませる。成分的には大丈夫だ、反発するものは含まれていない。自分用に濃くしていたのも薄めた。
液体が口に入った瞬間エディスンは思い切り暴れたが、きっと臭いだけだ。もしかしたら痛みもあるかもしれないが。死にたくないなら飲め、【癇癪玉】をくらうよりはよっぽどマシだろう、と心の中で怒鳴りつつアーチは彼の口を両手で塞いだ。
彼はそのまましばらく暴れていた――が、不意にぱたりと四肢を落とした。ピクピクと小さく痙攣している姿に、死んだ蛙へ電流を流した実験を思い出す。
アーチは顔をこわばらせ、恐る恐る脈を確認した。
(……死んで……――は、いない……っ!)
アーチは大きく息を吐いて、肩から力を抜いた。良かった、失敗せずに済んだ。
少し待っている内に、エディスンの痙攣は徐々に収まっていった。ほとんど動かなくなった頃に確認すると、熱もだいぶ下がっていた。息は細いがしっかりとしている。どうにか危機は脱したらしい。
(良かった……どうにかなったか……)
すっかり安心しきったアーチは、エディスンを肩に担ぎあげた。このまま裏道を通って戻ってしまおう。夜は危険だが少しぐらいなら大丈夫だ――と思いながら、エディスンの背の上に飛び乗ってきた狐を見て。
その煌々と燃える橙色の光を見て。
「……あっ」
アーチから血の気が引いた。
――“裏道”への外部の光の持ち込みは禁止されている――持ち込んだ場合、一生出られなくなると言われている――そう少年たちに言ったのは誰だったか?
自分だ!
アーチは頭を抱えた。“出られなくなる”とは聞いたが、実際どうなるのかは知らない。できれば一生知りたくなかった。
バッと振り返ると、入ってくるのに使った穴が消えていることに気が付いた。それどころか、見渡す限り一本道で、たくさんあるはずの分岐もない。明らかに異常な事態だ。
冷や汗が頬を伝った。
焦りが心臓を内側から叩く。
(落ち着け、考えろ、考えろ……!)
とりあえずアーチは狐を試験管にしまった。途端に、周囲は完全な闇に沈んだ。前後左右の感覚すら薄まっていく。自分が唾を飲み込んだ音がいやに大きく耳元へ響いた。体が異常な速度で冷えていく。ブライドリーの森にいる時と同じ症状だ。どうやら、悪霊にたかられているらしい。
体調が悪いせいだろうか。らしくない、と思ったのに、心がネガティブな方向に傾いた。
(……このまま、本当に一生出られなかったらどうなるだろうか)
餓死するよりは悪霊に殺される方がさすがに早いはずだ。あまり苦しむこともなく、ただこの暗闇に飲み込まれるように、凍え死ぬだろう。外では“行方不明”として扱われるはずだ。そうなったら――
(姉さんには、ちょっと悪いかもしれない)
と言っても、彼女には夫も子どももいるのだから、平気だろうという気もしている。落ち込むかもしれないが、すぐに立ち直れるはずだ。だいたい八年近く電話でしか話していないのだから、もう半ば行方不明になっているようなものだろう。
(フィルは……)
彼は「いつかこうなると思ってた」と言って、苦笑して済ませそうだ。そんな気がする。先生や他の知人も、みんな同じように言うに違いない。学生の頃から長く、それだけのことをやってきているのだから。自分のことなどとうに諦められているに決まっている。
なら。
(……
忘れろ、と自分で自分にかけた魔法が解けて、アーチはつい数時間前の少年たちとのやりとりを思い出した。すると頭痛がしてきた――なのに不思議と、茨のような苛立ちまでは戻ってこなかった。
代わりに湧いてきたあまり馴染みのない感情に、喉の奥がぐっと詰まる。それは、父の死体を前にした時とよく似た色をしていた。
(僕が戻らなかったら……それでも、彼らの罰は続く。師匠役がいなくなったからと言って、停学が解けるわけじゃない。別の魔法使いが、僕よりもずっと
闇の中で想像が膨らむ。少年たちはショックを受けるだろうか。たとえ受けたとしても、たった十日程度しか一緒にいなかった人間だ。大したダメージにはならないだろう。すぐに気を取り直して、別の――自分じゃない魔法使いを――
――『
一瞬だけ胸の辺りが軋んだ。
(……もしかしたら、その方がいいかもしれない)
彼らを危険にさらした挙句に馬鹿と罵られて、彼らの言動を理解できなくて責められて、なのに気を遣われて――まるで
アーチは溜め息をついた。
いつかも思った疑問が再び鎌首をもたげた。――どうしてバロウッズ先生は自分などを師匠にしたのだろう。いくらボディガード代わりだと言っても、多感な時期の少年たちを一ヶ月も預かるのだ。他にもっと適切な、護衛も教育も
(間違っている気がする。彼らは僕のところにいていいんだろうか……僕のもとにいるのが、嫌じゃないのだろうか。……この仕事、引き受けるべきじゃなかったかもしれない)
不安は悪霊たちの格好の餌だ。森の時よりずっと早く、手足の感覚が薄れていく。冷凍庫の中に閉じ込められるというのはこのような感じなのだろう。細胞が少しずつ壊れていくのがなんとなく感じられた。
(このまま、死ぬ――?)
何も成せないまま、弟子たちを置き去りに、どことも知れぬ暗闇の中で果てるのか――
『死んだら取り返しがつかないんだぞ!』
――パチッ、と目の裏で火花が散った。
(何を弱気になってるんだ、僕は!)
アーチは片手で自分の頬を張った。涙が散るほど思い切り。それで輪郭を取り戻す。
(そうだ、僕は死なない。死
父を奪った連中に負けたくない、こんな現実を押し付けてくる世界から逃げたくない――その意地だけが、十二年以上アーチの手足を動かしてきたのだ。今さらその意地を捨てるなんて、出来るわけがない。
一度、意識して呼吸をする。冷たい空気が肺に染み込んで、骨が内側から軋むような感じがした。
大丈夫、まだ生きている。生きているなら動ける!
アーチは左手に壁を触りながら、ゆっくりと歩き出した。瞼は閉じて、もう絶対に開けないと決める。瞼を閉じても開けてもまったく世界が変わらない、というのは精神をかなり圧迫するからだ。それをアーチはよく知っていた――アトラクションでそういうものがあったのだ。あれは命の危険のない、作られた暗闇の迷路だったが。
(姉が僕を置き去りにして……僕は全然出られなくて……パニックになって泣き喚いて……係りの人に助けられた……母が姉を叱って……父は僕を慰めた……)
二十年以上経った今となっては、恥ずかしさより懐かしさの方が強い。
少しだけ笑みがこぼれて、それにアーチは勇気づけられた。
(今はもう、泣いたって助けてもらえないし……誰も、慰めてはくれない)
父の温もりには二度と触れられず、今抱え持っている温もりは気絶したエディスンだ。そのやるせない現実が、アーチの反骨精神をさらに猛らせた。
(常に、正しい知識を思い出せ……そもそも“裏道”は――)
魔法列車と同じで、魔法界と一般界の狭間に位置する
目的地へ行くにはコツがある。松明の根元に刻まれている
(……坑道? 矢印?)
アーチはふと立ち止まった。
坑道とは狭義で言えば、鉱山の中の通路を指す言葉だ。矢印の付いた松明は明らかに作為的なものである。
つまり、この“裏道”は誰かの手によって作られたものである。
(外部の光の持ち込みを禁止するのは……盗掘を防ぐため?)
鉱山ならば納得の対策だ。外部の光、おそらくあの緑の光の松明以外の光が入った瞬間、それは盗掘者と見なされるのだろう。だとしたら、これは盗人を逃がさないためのトラップ。一生出られなくなる、という警告にも合点がいく。仕掛けた側には盗人を外に出すつもりなどないのだから。
だが、誰かが仕掛けたトラップならば、魔法で破れるはずである。
(おそらく幻術、それに方向喪失の呪い――それなら)
アーチは杖を握った手を腹に当てて、祈るようにこうべを垂れた。
そして、歌った。
「『
アンブローズ・カレッジの校歌。『迷い避けの呪文』。カレッジの
「『僕らは火 僕らは水 僕らは風 僕らは木
まだどんな音も出ない空っぽの鈴 歌を知らない小鳥たち
だからどうかお導きを 花の咲く庭へ続く道を
教えてくれたら走っていくから 脇目もふらずに真っ直ぐに』」
歌が終わった瞬間、耳元で風が唸りを上げた。
バタバタバタバタ……と大きな鳥の羽ばたきのような、あるいは巨大なドミノ倒しのような、そんな音が四方に満ちて――
――次の瞬間、アーチは
瞼に日光が当たった感触があったのは確かだが、それより先に襲ってきた“落ちている”という感覚に目を開ける。
「っ!」
開けたのを即座に閉じたのは太陽の光が目に刺さったからだ。涙に濡れた瞼を何度も瞬かせて、アーチはようやくまともに世界を見た。
目の前には真っ青な空! 涙の粒が冬の蒼穹に吸い込まれていった。
内臓が浮いている感覚! 空がどんどん遠ざかっていく。
アーチは歯を食いしばってエディスンを抱え直すと胸ポケットに手を伸ばした。箒を取り出し抱き締めるように抱え持ってから呪文を唱える。
「『
付きすぎた落下のスピードに箒の浮遊が抵抗して、その上エディスンの重みが偏りを生み、アーチはきりもみ回転しながらさらに落ちた。
ぐるぐる回る視界を気にする余裕はない。今はただ、このままでは地面に衝突するということだけが分かっている。もう何メートルも残っていない――
――どうせ制御は利かないのだから、とアーチは左手を離して、杖を進行方向に向けた。
「『
杖の先からバケツをひっくり返したような水柱が放たれた。
そして立て続けに、
「『
水の柱がその形のままふわりと浮かんで、そこにアーチは突っ込んだ。バチン、とボクサーに殴られたような衝撃があったが、地面にぶつかるよりはかなりマシだ。何より、水の抵抗と浮力のおかげで回転が止まったのがありがたい。
アーチは体勢を整えて水から出た。
「ぶはっ、はぁ、はぁ……」
空中に出た途端、エディスンの重みが肩にかかって嫌になった。風も冷たくて一気に体が冷えた。それになんだか、周りも騒がしい。
アーチは辺りを見回して、溜め息をついた。
町のど真ん中で突然箒に乗った男が水の塊を浮遊させたら、誰もがスマホを構えるだろう。当然のことだ。
これはまたクレームが殺到するやつだな、と他人事のように思いながら「『
と、思ったのもつかの間。
きりもみ回転による吐き気は普段より早く襲ってきて、アーチは一旦地面に下りることになったのだった。
あの坑道の中では空間だけでなく時間も歪んでいたらしい。幸いにして駄目にならなかったスマホで時間を確認すると、すでに日付も変わっていて、土曜日の昼になっていた。早く対処に気が付いて良かった、とアーチは改めて安堵の溜め息を吐いた。
魔法庁の屋上に降り立って真っ直ぐ交通局に向かう。途中、違法魔法課の中から飛び出てきたプレイステッドと危うくぶつかりそうになって、お互いひらりと躱した。アーチも急いでいたし、向こうも急いでいるようだったので、互いに手を挙げただけですれ違った。
交通局に入ると、ハズラムがちらりとアーチを見てパソコンに向き直り、それからもう一度こちらを見て、「……あぁ! ウルフ!」と目を丸くして立ち上がった。
「赤くないから、違う人だと思っちゃったわぁ」
「間違いなくウルフですよ」
アーチはちょっと肩をすくめて、抱えていたエディスンをカウンターの上にどさりと乗せた。
「ご依頼の通り、捕まえてきました」
「ご苦労様ぁ。……随分とやつれてるわねぇ」
「蛇に噛まれたんです。応急処置はしましたが、一応治療師に診せてください」
「……あぁ、エディスンじゃないわぁ。あなたの方よぉ、ウルフ」
「私?」
「そーよぉ、ひっどい顔色だわぁ」
と、ハズラムは眉をハの字にして、アーチの前で人差し指をくるくる回した。
「あんまり無理すると早死にするわよぉ。……って、ヘンウッドが言っても無駄なこと、あたしが言ったって聞きやしないんでしょうけどぉ」
アーチは苦笑して聞き流した。
その時、カウンターの上に転がされていたエディスンがふと身じろぎした。
「う、うぅ……あっ、うわあっ!」
彼は目を覚ました拍子にカウンターからずり落ちて、床に尻餅をついた。
アーチは彼を冷たく見下ろした。
「おはようございます、エディスン」
「あっ、あ、ああ、ああああ、あの、ここ、ここここここは……」
「魔法庁交通局です。あなたは今から、ハッキングの件で尋問を――」
「僕は悪くない!」
エディスンはそう叫ぶと、床に這いつくばったままアーチの足に縋りついた。
「ぼ、ぼぼぼ、僕はただ、ただ、い、言われたからやった、だけで……」
「誰の指示だったんです?」
「ひっ、ふっ、うっ、うぅっ」エディスンは荒く呼吸をしながら深く俯いた。「ひっ、こっ、交通っ、局にっ、ふっ、はっ、入れるように、してやるって……だ、だから……」
アーチはそのまま顔面を蹴飛ばしたくなったのをぐっとこらえて、もう一度聞いた。
「誰の指示でやったんですか?」
「……ッド」
「なんですって?」
「……プレイステッド! クラーク・プレイステッドだ!」
あらまぁ、と間の抜けた声をハズラムが上げた。
アーチは息を呑んで、エディスンの手を蹴り払うと交通局を飛び出した。
(魔法庁は安全じゃなかった――っ!)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます