25 現代的悪魔の所業
魔法庁の屋上は開放されていない。といってもただ錠が掛かっているだけで、魔法使いにとってそれは“されている”と同義である。
魔法によるロックもかかっているが、アーチにとってそれは“何もされていない”と同義だった。
特に今は。
「『
無愛想に命じると、破壊的な音を立ててロックが外れた。もしかしたら完全に壊したかもしれなかったが、気にはならなかった。
外はよく晴れていて気持ちの好い夕べだった。太陽の残り香を纏った風がごうと吹いてアーチの髪をなびかせる。
その新鮮な空気を吸って、ようやく彼の胸中は凪いだ。
――今は忘れろ。余計なことは全部忘れろ。
静まった湖に向かって言い聞かせる。
――今はエディスンを捕まえることに集中するんだ。それ以外のことは全部いらない。
アーチは屋上の真ん中に膝をついて、スーツケースを開いた。
水銀の入った鉄の容器を取り出して栓を開ける。どろりとした液体金属を落とすと、それはぽたりと半球状になった。
そこに杖を突っ込んで液体を伸ばす。
みるみるうちに精緻な紋様が描かれていく。
悪魔を召喚するための魔法陣だ。悪魔の召喚およびその利用までは合法とされている。実際、悪魔の猟犬を利用した捜査は違法魔法課の常套手段だった。ただし、契約をした瞬間に魔法法違反となり、よくて最も下の階級への降格、悪ければ投獄されるのである。
描き上げた陣の中央に【じゃじゃ馬ジョーンの癇癪玉】の破片を置いて、自分の血を三滴垂らし、最後にきっちり円陣を閉じるとアーチは杖先を上げた。
「『呼ばれたならば直ちに来い。咎めた殻・母・旅に恋
聞こえたならば即座に来い。二度寝・
我は汝の力を望む。割れた三時・文字・
我が血の為に力を使え。葉書・子は
円陣に黒い光が灯り、それがすぅっと伸び上がったと思うと、中央からぴょこんと悪魔が飛び出てきた。
その悪魔は両手に収まるサイズの小さな黒猫で、下半身と前腕は蝙蝠、額にはねじれた山羊の角がついていた。短いしっぽがぴこぴこと動いている。
耳まで裂けた大きな口がカパリと開かれると、人間と同じ形の真っ白な歯が見えて、そこからしゃがれた声が出てきた。
「ハァイ、ご無沙汰。アタシを呼ぶような物好きなんてアンタぐらいのものよ。ちょくちょく呼んでくれないと困るわ。でなきゃおまんまの食い上げよ」
古臭い言い回しだ。
アーチはその金色に輝く目から視線を逸らしつつ言った。
「そこにある【じゃじゃ馬ジョーンの癇癪玉】で私を傷付けた人間を捜してください」
「ソイツを殺してくればいいってわけね?」
「見つけたらマーキングをして私に知らせるように」
「ヤダァ、なにそれつっまんないのぉ」
「報酬はすでに支払いました」
「三滴程度じゃ足りないわ。髪の毛チョウダイ」
「用件は以上。行きなさい」
悪魔との接し方は簡単だ。“会話を噛み合わせないこと。”それだけでいい。一方的に要求を伝え、相手の言葉には言い返さない。会話が噛み合った瞬間、彼らはこちらを“意思疎通の出来るもの”として認識し、契約を持ちかけてくるのだ。
悪魔は不満げにアーチを見つめながら円陣の中を飛び回っていたが、ふいに動くのをやめた。
アーチの目の高さに浮遊して、円陣のギリギリのところでニヤリと笑う。
「ネェ、もう少し報酬くれたら、アンタの抱えてる
アーチは真正面からその金色の瞳を睨みつけた。
三つに分裂した瞳孔がくるくる回りながらアーチを見返し、彼の心を誘惑した。悪魔と目を合わせる行為は禁止されている。『服従』や『魅了』に負ければ、契約に乗せられてしまうからだ。
だが、アーチの体質は呪いをねじ伏せる。
「行け」
冷徹に繰り返すと、悪魔はヒゲをぴんぴん揺らしながら「チェッ、つっまんないのぉ」と呟いて、魔法陣の下に潜っていった。
「『
魔法陣を燃やして完全に通路を閉ざしてから、足で陣を消す。
スーツケースをジャケットの裏に『収納』して、その時初めて自分がコートを着ていないことに気が付いた。
「道理で寒いわけだ」
久々に漏らした独り言は思いの外大きく聞こえた。
アーチは深く溜め息をつくと、屋上の柵に背を預けて座り込んだ。
ダニエルから貰ったサンドイッチをパッケージから取り出す。アーチの好きなライ麦入りのぱさついたパンに、胡椒をきかせたローストビーフと一度溶けてから固まったチェダーチーズ、しなびたレタスがたっぷり詰め込まれていた。
かぶりつくと、久々に動かした顎の付け根がジンと痺れるようにうずいた。
(……彼らは、何を考えてこれを選んだのだろう)
アーチは柄にもなく思いを巡らせた。
(何を考えて僕の前に立ちはだかったのだろう。何をあんなに怒って――責めて――怯えていたんだろう……)
そんなことをぼんやりと考えながらだったから、一口を飲み込むのに異様なぐらい時間がかかった。しかし、昨日の昼から何も食べていない胃にはその方が都合が良かったらしい。スロースタートを切った胃袋がぐるぐると音を立てた。
冬の太陽があっと言う間に去っていくのを見送りながら、サンドイッチを口に運ぶ。
悪魔が消えてから十分も経っていないのに、辺りはすっかり闇に閉ざされて、いよいよ寒さが厳しくなってきた。一旦コートを取りに戻ろうか……と考えたその時。
スマホが振動した。
届いた通知はマップアプリからのものだった。だが、正規の通知ではない。マップを起動すると、黒いピンが地図の上を北に向かって動いていた。距離は約百キロ。ピーターバラの周辺だ。
最近は悪魔だって現代っ子なのである。
アーチは箒を取り出して、
「『
と唱えると、残りのサンドイッチを一気に口に詰め込んで屋上から飛び降りた。
ピーターバラの上空は重たい雪で濡れていた。
アーチは寒さに耐えかねて一度止まり、箒の上で器用にスーツケースを開くと、試験管を取り出した。
杖で四回底を叩いてからコルクの栓を開ける。
中からふわりと出てきた橙色の炎は、次の瞬間狐の姿に変わって、アーチの首に巻き付いた。
その暖かさに一度全身が震えて、震えが収まった時には寒さは遠退いていた。
(よし。さて、エディスンの位置は……)
アーチはもう一度マップを開いた。
自分の現在位置を示すピンと、エディスンの位置を示すピンは、今やほとんど重なっている。
縮尺を操作すると、彼は五キロほど西の自然公園にいることが分かった。その黒いピンは、あっちに行ったりこっちに来たりと、何やら不可思議な動きをしている。
アーチは首を傾げつつそちらに向かった。
――と、暗闇の向こうからエディスンの声が聞こえてくる。
「わあああああああああっ! 『
完全にパニックに陥っているようで、同じ呪文を何度も乱発している。一発はアーチのすぐ脇を掠めて飛んでいき、後ろの木を凍らせた。
アーチは高度を上げて左腕を前に出した。首に巻き付いていた狐がその上に乗る。
「『
これが正しい『援護』の使い方だ。
魔力を分け与えた瞬間狐は宙に浮かんで、その光を一気に強めた。野球場のライトのように公園内が照らし出される。
アーチは、突然の光に顔を覆ったエディスンが蛇の大群に
急降下して彼の腕を掴み、有無を言わせず引っ張り上げる。
彼の足に引っ付いていた二、三匹には『
「ひぃっ、なっ、なっなっなっなっ、なに?!」
「落ち着いてください、エディスン」
「あっ、わっ、うあ、う、ウルフ!?」
びっくりしたエディスンが暴れたから、アーチは思わず彼を取り落としそうになった。
「暴れないで、箒に掴まってください」
「き、き、君、君は、しし、死んだと……」
エディスン自身もこの高度から蛇の群れには落ちたくないらしく、箒の柄を素直に掴んだ。
「……死んだと、ばかり、思ってた……」
「そう簡単に殺せるとは思わないでくれますか」
アーチは狐を回収し、スーツケースから手錠を取り出した。魔法使いを捕縛するための特殊な手錠だ。これを付けられている限り、魔法は使えなくなる。
それをエディスンの手首にしっかりと嵌めて、アーチは冷酷に微笑んだ。
「そのまま、しっかりと
「ひっ、あぅ……」
「ご安心ください。私だって、
「ご、ごごご、ごめ、ごめん、なさい……ごめん……なさ……あっ」
狐火に照らし出されたエディスンの顔は真っ青だった。寒さ(と恐怖)で震えるにはやや大袈裟が過ぎるほどに。
不審に思った瞬間、彼はずるりと手を離した。
「っ!」
アーチは反射的に彼の腕を掴んだ。
そして眉を顰める。
彼は服越しにも分かるほど異様な熱を持っていて、汗をにじませていた。
「エディスン、あなた、蛇に噛まれましたか?!」
かすかに、だが間違いなく、彼の頭が縦に動いた。
アーチは唇を噛んで、エディスンを肩に担ぐと急旋回した。彼に死なれては困る。依頼の内容は“捕まえること”だし、何よりこのままでは黒幕の正体が闇に葬られてしまう! それでは相手の思い通りだ――誰が少年たちを害そうとしたのか、分からなくなってしまう!
地上には蛇の気配が残っている。この分だと彼らはどこまでも追ってくるだろう。
蛇が入りこめないところで、治療が出来て、魔法庁より近い場所はどこだ?
(――……“裏道”!)
一番近い“裏道”の入り口へ針路を変える。
肩口でエディスンが熱にうなされながら、うわごとのように繰り返した。
「う、あぅ……嫌だ、死にたくない……死にたくない……ひぃっ、うぅ……死にたく、ない、よぉ……ひぐっ、う、うぅ……」
昨日人を殺しかけておいてなにを腑抜けたことを、とアーチは歯ぎしりした。彼の声を出来るだけ聞かないように努めながら、ひたすら箒を走らせる。
入り口はバス停だった。周囲には誰もいない。ちょうどいい!
箒から飛び降りるとほぼ同時に唱える。
「『不都合は腹の中、不法は手の上、不公平は足の下』!」
ガクン、と真下にスライドした視界の残像に迫りくる蛇の大群が映って、すぐに消えた。
(……はぁ、ギリギリだったか……)
だが、安堵するにはまだ早い。
アーチはすぐさまエディスンを地面に寝かせて様子を見た。
(意識はもうほとんど無いか。症状は痙攣、発熱、それから……うっ)
吐き気。違う、これは自分の症状だ。
アーチの膝の下で地面がぐらりと揺れた。一旦腰を下ろして、壁に背を預けて天を仰ぐ。閉じた瞼の中で眼球がぐるぐると揺れ動く。悪魔なら酔わないのだろうか、などと余計なことを考えながら、口を押さえて吐き気が去るのを待つ。チーズのにおいが口腔内に戻ってきて、気持ち悪さが倍増した。狐火の暖かな光が心配するようにすり寄ってきた。
しばらくそのまま固まって、内臓に落ち着けと言い聞かせる。
一分ほど経って、ようやくアーチは目を開いた。どうにか吐かずに済んだ。
(よし……やらなくては)
酸っぱい唾を飲み込んで、スーツケースを開く。
治癒は専門外だし嫌いだ。だが、やれないことはない。薬は常に持ち歩いているし、命を繋ぐことぐらいは出来るだろう。いや、絶対に出来る。やるのだ! ……だが、何からやればいいのだろう? 解毒薬はあるが、あの強い呪いに対して効き目があるのか。あったとして間に合うのだろうか。
エディスンの容体はアーチが休んでいる間にかなり悪くなっていた。うわごとはもう聞こえない。痙攣もひどく、白目をむいて口の端に泡を出している。
アーチは焦ってスーツケースの中を引っ掻きまわした。
(このままでは死んでしまう!)
――その時不意に、何かが狐火を反射して光った。
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