第3章

23 厄介な思い込み


 ――意識が、一番深いところから中間あたりにまで昇ってくるような感覚があった。その拍子に過去の記憶を引っかけてきたらしい。

 アーチはぼんやりとした暗闇に立ちすくんで、家族の言い争う声を聞いていた。


『木から落ちた?! なんでそんな……』


 父が怒っていた。確か、八歳だったろうか。近所の公園にあった大きな木に、姉に誘われるまま登っていって、調子に乗って落ちて、前後不覚になったのだ。

 ちょうどその日に帰ってきていた父があんまり激しく怒り出したものだから、とっくに起きていたアーチは寝たふりをし続けていたのだ。


『ベラ! 君は見てなかったのか!』

『ごめんなさい、あなた……あんなに高いところまで行くとは思わなくって……』


(待って、ごめん父さん、違うんだ)


『フローレンス! 君が一緒にいたんだろう?! 何をしてたんだ!』

『あたしは忠告したわ。危ないわよ、って』


(父さん、違うよ、僕が悪いんだ)


『何かあったらどうするつもりだったんだ! 死んだら取り返しがつかないんだぞ!』


(ごめんなさい、父さん……全部、全部僕が悪くって――)


『――そうだ、お前が悪いんだ、アーチボルト』


 突然、薄闇の中から現れた父がアーチに指先を突きつけた。

 ひゅっ、と息を呑んだアーチの目の前で、その指が腕ごとぼとりと落ちる。


『お前が魔法使いになったから、私は死んだんだ!』


 空っぽになった眼の奥から真っ黒な炎が噴き上がって、アーチに襲い掛かった。

 アーチは咄嗟に、顔を腕で覆おうとして――その腕が何かに押えつけられているのを感じた瞬間、意識が上層にまで引っ張り上げられた。

 目を覚ます。


「元気そうで何よりだ、ウルフ」


 真横から皮肉が飛んできて、アーチは灰色の天井から視線をずらした。

 医療用ルーペの向こうのレモンのような瞳がこちらを鋭く見返し、すぐに傷口に向き直った。マスクを付けていようが、ベッカムヘアが似合っていないことに変わりはない。


「ベンフィールド……」


 彼がいるということは――ここは魔法庁の医務室か。魔法による怪我を魔法によって治す時にだけ使われる、魔法使い専用の部屋。


「そういえば、治療師でしたね、君……」

「そうさ。仕事じゃなかったら君なんか看るものか。よーし、終わった」


 ベンフィールドは荒っぽくピンセットを放り出した。深く溜め息をつきルーペを外すと、一度目頭を指でぎゅっと押さえる。

 それから、アーチの体をベッドに固定していたベルトを外し始めた。


「しかし、あの距離から【じゃじゃ馬ジョーンの癇癪玉】をくらってよく五体満足でいられたものだ。上半身が吹っ飛んでてもおかしくなかったんだぞ。破片も綺麗に急所を避けて……相変わらず、化け物じみた悪運の奴め。やっぱり悪魔と契約してるんじゃないのか?」


 龍鱗のタイピンを着けていて良かった、と思った瞬間アーチの思考が急ハンドルを切った。

 ――弟子たちはどうなった?!


「うわっ! 馬鹿かお前、傷が開くだろ!」


 唐突に起き上がろうとしたアーチを、ベンフィールドは慌てて押さえつけた。実際は押えつけられるまでもなく、動いた瞬間にアーチは強い痛みと眩暈に襲われて、ベッドに戻っていたのだが。


「何だよどうしたんだよ急に……」とベンフィールドは頭の悪い犬を前にしたような目付きでアーチを見た。「ついに気が狂ったか?」


 アーチは痛みをやり過ごして、声を絞り出した。


「……彼らは……無事ですか? その……少年たちは」

「……ああ、君の弟子・・・・か?」


 ベンフィールドは鼻で笑った。


「聞いたら驚くだろうなぁ。なんと――」


 無駄なタメを作り、


「――全員、無傷だよ」


 アーチは長々と溜め息をついた。良かった……死なせずに済んだ。彼らの命を守れた!


「魔法庁への連絡から何から全部あのガキどもがやったんだ。君の応急処置も、まぁ二年生にしてはわりとまともに出来てた方だったな。ったく、すっかり君に洗脳されて……」


 マグカップにお湯を注いで薬を混ぜながら、ベンフィールドはアーチを睨みつけた。


「どうして君のような奴に懐いているのか、僕には理解できないよ。何か怪しい薬でも飲ませたのか?」

「そんなわけないでしょう。人聞きの悪い……」

「ミル先生に激痩せトニックウォーターを飲ませて三日間トイレに閉じ込めた奴が何を言っているんだ」


 彼はベッドを操作してアーチの上体を起こすと、無愛想にマグカップを突き出した。

 アーチは自分のものとは思えないほど重たい腕をどうにか持ち上げ、マグカップを両手で受け取った。絶対に口にしたくない類の青臭さが鼻に届く。治癒薬だ。


「全部飲めよ。無理だろうけどな」


 ぞんざいに煽ってきたベンフィールドを睨み、アーチはマグカップに口を付けた。こういうのは勢いが大事なのだ、と思い切り傾ける。

 瞬間、強烈なにおいが延髄を突き刺して、全身の産毛がぞわりと逆立った。

 これを飲むとアーチはいつも、昔姉に騙されて飲んだ日本製の青汁のことを思い出す。あの生ぬるい青臭さと苦さによく似ているのだ。

 むせそうになるのを気力で抑えこみ、喉を鳴らす。

 空になったマグカップを突き返した。


「本当に一息で飲み切るとは」


 ベンフィールドは呆れ顔でマグカップを受け取った。


「半分飲めれば充分な濃度に調整してやったのに」

「はぁ?」

「まぁ、飲み過ぎて害になるやつじゃないからな。特に君の場合は」

「だからって……」

「ざまぁみろ。日頃の恨みさ。効き目は抜群だぞ。ありがたく受け取っておけ」


 アーチの文句をひらりと躱し、ベンフィールドはベッドを元通り倒すと立ち上がった。道具を手早く片付けながら、


「君の服の破片はそっち。『収納』が弾けて飛び出てきたスーツケースはベッドの下だ。この後少なくとも十二時間は動くなよ」


 と早口で言うと、アーチに布団を被せて道具を抱える。


「ベンフィールド」

「なんだよ」

「【癇癪玉】の破片、一つでいいので、置いていってくれますか」

「いいけど……」


 ベンフィールドは素直に従い、トレーの中から血まみれの黒い破片をサイドテーブルに置いた。


「何に使うんだこんなもの?」


 アーチは答えずに、にっこりと笑った。


「ありがとうございました。助かりました」

「……ふんっ」


 ベンフィールドは顔を歪めて鼻を鳴らすと、さっと踵を返した。

 彼が扉を開けると、「治療終わったのか?!」「師匠マスターは?!」「アーネスト起きろ、終わったみたいだぞ!」「ねぇねぇ大丈夫なの? 大丈夫なんだよね?」少年たちの声が押し寄せてきた。

 ベンフィールドは説明するのを面倒に思ったらしく、「見れば分かるよ! もう入っていいけど静かにな、静かに!」と一番うるさい声で怒鳴った。

 アーチは彼らの無事を確信して思わず目を瞑り、ほうと息を吐いた。力が抜ける。


「師匠、大丈夫?!」


 ダニエルが真っ先にベッドの脇に駆け寄ってきた。

 その後ろから、ほぼ寝ているアーネストに肩を貸したヴィンセントがのたのたと歩いてくる。


「ええ、生きてますよ」


 と答えると、ダニエルは涙目になりながら、アーチの手元に突っ伏した。


「良かったぁ……」

「いや、良くはないだろ」


 ヴィンセントが鋭く言って、アーチを睨んだ。紺色の瞳が怒りに震え、陽炎のように揺れていた。激しい貧乏ゆすりは床を陥没させる勢いだ。


「自己犠牲とかマジで寒いからマジでやめろよな。ムカつく。そんなんに助けられても全然嬉しくないし感謝できないし本当に腹が立つ! これであんたが死んでみろよ、あんたはいいかもしれないけど俺らは一生もののトラウマになるんだからな?!」

「ヴぃ、ヴィンス……」

「止めるなダニエル! 上手くしゃべれない内に言いたいだけ言っとかないと、本調子になったら言いくるめられる!」

「確かに……」


 素直に口をつぐんだダニエルをアーチは見遣った。


「そこで納得するんですか……」

「だってそうじゃない?」

「そうですけど……」

「とにかく!」


 とヴィンセントが吠えた。


「次やったらマジで許さない! 死ななかったとしても俺が殺す!」

「本末転倒では……?」

「うるさい! 本調子でない時ぐらい軽口叩くな!」


 ヴィンセントは歯をむき出しにして怒った。

 アーチは「分かりましたよ」と言いつつ重くなってきた瞼をこすり、欠伸を噛み殺した。薬が効いてきたのだ。このまま寝れば、起きた時にはすっかり治っているはずである。


「君たち、今日はここに?」

「うん」


 ダニエルが頷いた。


「隣の医務室、貸してくれるって」

「そうですか……なら、安心ですね」


 ヴィンセントが舌を打って「自分の心配をしろっての」と毒づいた。


「連絡、きちんとしてくれたんですね」

「連絡したのはアーネストだ」


 とヴィンセントは不機嫌なまま答えた。


「コイツ、そういうの得意だから」

「応急処置もしてくれたと。ベンフィールドが褒めてましたよ」

「本当?」


 ダニエルが疑わしそうに顔を上げた。


「師匠、全然効いてないみたいだったけど」

「効きにくいだけで、効かないわけではありません。助かりました……」


 アーチはいよいよ瞼を支えられなくなってきた。視界がかすむ。眠りの波がひたひたと打ち寄せてくる。

 今度の欠伸は噛み殺せなかった。大きく欠伸をすると、目尻に涙が溜まり、傷がじわりと痛んだ。


「……三人とも、今日はよく休んでください。私ももう寝ます」


 言った傍から意識が薄れていく。薬湯のおかげで温まった体が、回復のための休養を求めてどんどん力を抜いていくのが分かった。

 その時だった。ヴィンセントの肩にもたれていたアーネストが身じろぎして、顔を上げた。


「師匠……」


 ぼやけた視界の中にいるアーネストは、二度アーチの夢を共有した時とまったく同じようにぼろぼろと涙をこぼしていた。

 きっとまた共有したに違いない。


「師匠は、勘違いしてるよ……師匠は悪くないのに……最後の、あの言葉……師匠の声だった・・・・・・・よ……」

「……え?」

思い込んでる・・・・・・んだ、師匠。悪い方に思い込んでる・・・・・・だけなんだ……」


 その言葉が聞こえたのを最後に、アーチは穏やかに意識を手放した。

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