17 Blue Hour

 ぺた、ぺた……と足音が近づいてくる。

 まだ暗いが、もう完全な暗闇の時間帯は過ぎていた。カーテンの隙間から僅かに、日の出直前Blue Hourの色が覗いている。

 ソファの上で寝返りを打って、背もたれの部分に置いておいたスマートフォンに手を伸ばす。

 電源を入れると、青白い光が手の中に灯って、今が早朝の五時半であることを教えてくれた。

 アーチはスマートフォンの電源を落とすと、ゆっくりと上体を起こしてソファに座った。

 足音が近づいてくる。


「マスター……」


 酷く掠れたか細い声だが、もう判別できる。これはアーネストだ。

 実際、機能を暗さに合わせて調整した目が、アーネストの輪郭を捉えた。


「どうしました?」


 アーネストは、アーチの手がぎりぎり届かない辺りにぴたりと立ち止まった。薄闇が紗のように掛かっていて、表情までは読み取れない。だが、元気でないことだけは分かった。

 彼は自分で自分の体を抱き締め、喉の奥から無理やり絞り出したような声で言った。


「夢……見たんだ……」

「夢?」

「うん……」


 アーネストは深く俯き、全身を細かく震わせていた。

 合わない歯の根を必死に抑えようとしながら、彼は途切れ途切れに言葉を続けた。


「薄暗い、灰色の部屋に、ベッドがあって……ベッドの上に、人が……白い布が掛かっていて……それを、取るんだ。そうしたら……死体が、あって……」

「……」

「俺、それを、ゆっくり見てるんだ……本当は、見たくないのに……本当は、大きな声で泣きたいのに、それを我慢して……見てるんだ……奪われたのは、命だけじゃなくて……右腕全部、右足の親指と太腿の骨、左足の膝から下、左手首、左腕の上の骨だけ……」

「……アーネスト」

「肋骨が右側だけ三本、内臓の一部……それから、瞼を押し開けたんだ。右目は潰されていて、左目はくり抜かれてた……魔法使いは必ず目を潰す……目があれば、最期の記憶を読み取れるのに……誰が、誰がこんな……誰が、僕の父さんを・・・・・・っ!」

「アーネスト!」


 アーチは咄嗟に立ち上がって彼の肩を掴んだ。

 アーネストはびくりと全身を震わせて、のろのろと顔を上げた。薄闇の向こうで、カーテンから入ってくるごくわずかな光を反射した彼の大きな瞳が、アーチを真正面から見据えた。


「落ち着きなさい。それはあなたの夢じゃありません。それはあなたの過去じゃない」

「師匠の、だよね?」

「っ……」

「師匠のお父さんだったよ。画像見たから、知ってる。師匠のお父さんだった」

「アーネスト、もういいから寝なさい」

「すごく、すごく悲しかった。悲しくて悔しくて苦しくて、どうしようもなかった……」


 彼の瞳から涙がぼろぼろと溢れてきた。パールのような大粒の雫が頬を伝い、次から次へと床に向かって落ちていく。

 アーチは何も言えず、何も出来ず、ただそれを見ていた。

 アーネストは涙を拭いもせずに言った。


「……師匠は、お父さんが好きだったんだね」

「っ!」


 胸をえぐられたような気がした。


「大好きだったんだ……だから、なおさら悔しいんだ……お父さんに背いて魔法使いになったのに、認めてもらう前に魔法・・・・・・・・・・使いが殺したから・・・・・・・・――」

「やめなさい」


 自分でも驚くほど鋭い声が出た。

 掴んでいた肩がびくりと震えて、アーネストが口をつぐむ。彼の涙はまだ止まっていなかった。

 アーチは一度だけ深く呼吸をすると、アーネストに向き直った。潤んだアーネストの瞳の中に歪んで映った自分は、自分のものとは思えないほど弱々しく、傷付いたような表情を浮かべていた。


「もう忘れてください。それは私の記憶です。あなたのものじゃない」

「……うん」


 ごめんなさい、とアーネストは呟いて、瞼を擦った。涙は止まっていた。眠気が戻ってきているらしい。


「師匠……ごめんなさい……俺……」

「謝ることじゃありません。気にしないでください」


 アーチはようやくクィルター先生に言われたことを理解した。『夢も、感情も、筒抜けになる』とはこういうことだったのか。感受性の強い魔法使いの中には魔力を通じて相手の過去や未来を覗ける人がいる、という話は聞いたことがあったが、アーネストがそこまでの人物とは思っていなかった。

 まして、自分の心に入り込まれるとは、考えもしなかった。

 アーネストはゆらゆらと首を振った。


「……俺……俺まだ、師匠に……言ってない、ことが……」


 だがそこで睡魔に負けて、アーネストはかくんと頭を落とした。

 力の抜けた体を両手で受け止めて、そっと抱き上げる。十三歳の体重とはこんなに軽いものだったろうか、とどうでもいいことを考えたのは、心が麻痺しているからだった。

 寝室に入ると、ヴィンセントが上体を起こしていて、不審げに囁いてきた。


「どうかしたの?」

「寝ぼけてこっちに来ただけです」


 おやすみなさい、と囁き返して、アーチは会話を切り上げた。

 ソファに戻る。毛布を全身に巻き付けて丸くなる。そうやって自分の体の在り処を確認しておかないと、青い光の中に溶けて消えてしまいそうで、背骨がじんと冷たく痺れた。

 なのに、冷えた体が徐々に温まっていくのを意識していると、それにもまた胸が詰まってきて、呼吸も思考も覚束なくなるのだった。


(……魔法使いはまともじゃない。まともな幸せを手にすることは出来ない……うん。でも僕は、それでもいいんだよ、父さん……それでも、魔法使いになって……)


 魔法使いになって、何をしたかったんだっけ?

 アーチはぎゅっと目を瞑り、瞼を手で押さえた。明日――すでに今日だが――の寝坊は確定だ。だが、そんなこと構っていられなかった。どうせフィルからの依頼だ、最悪の場合は平謝りすればいい。

 今はただ、何も考えないでいたかった。

 眠りのベールは彼を優しく包み込んだ。


 翌朝。

 ロンドンの北東二百キロ、ブライドリーの森の入口で、四人は膝に手をつき息を荒げていた。

 辺りは一面真っ白い雪に覆われていて、昼前の強い日差しを照り返している。

 約束の時間ぎりぎりにやってきた四人の問題児を前に、フィルは呆れ返った声で言った。


「ここまで来るのにわざわざ“裏道”を使って、しかも全力疾走してきたの? なんで?」

「だって……師匠マスターが、起きなかったから……」

「……そのあと、牛乳を盛大にぶちまけてくれたのは、誰です……?」

「あれは、俺のせいじゃ、ないっ……!」

「僕のせいにっ、しないでよねっ、アーネスト……!」


 フィルは深々と溜め息をつくと、「仲良くしてるようで何よりだよ」と呟いた。


「今日の依頼内容は分かってるだろう?」

「ええ、もちろん」


 一足早く回復したアーチが頷いた。


「いつもの、ですよね。予定の量は?」

「今年は多いんだ。いつも通り四分の一を貰ったら、五百グラムくらいにはなると思う」

「けっこう採るんですね」

「何を採るの?」


 ダニエルが首を突っ込んできた。


「僕の仕事に必要な薬草さ。今日しか採れない、特別なものでね」


 フィルは丁寧に答えてから、アーチの方を向いた。


「お弟子さんたちを借りてもいいかい?」

「ええ、どうぞ。ボーイズ、ここではフィルの指示に従ってください。ただ、常に警戒することを忘れないように」


 そう言うと、少年たちは神妙に頷いて、フィルが怪訝な顔をした。

 アーチは歩きながら、手短に現状を説明した。

 少年たちが殺人現場と思われるところに出くわしたこと――強制的に地下水道に飛ばされたこと――一つ目とmono-eye逆さ十字団and SSORCの蛇が襲ってきたくだりで、フィルは目を見開いた。


「本当にっ?! あの狂人集団が?!」

「ええ。ですから、フィルも気を付けてくださいね」


 アーチは脅すようににっこりと笑った。


「借りた以上、この依頼中に彼らに何かあったら連帯責任ですから」

「……やっぱ返してもいいかい?」

「駄目です」

「冗談だよ……。しかし、そんなことになってるとは。僕は何にも知らなかったな」

「学校の方ではどういうことになってるんです?」

「そりゃ最初の通り、一般人に向けて魔法を撃ったから停学ついでの弟子入り、さ」


 フィルは、三人がムッとしたのを素早く感じ取ったように、「ああいや、本当に知らなかったんだ。ごめんよ。信じてないわけじゃないんだ」とフォローを入れた。


「アーチ、そのこと、バロウッズ先生に報告したかい?」

「――……忘れていました」

「今の間は考えてすらいなかったな」

「後でやっておきますよ」


 アーチはひらひらと片手を振って、フィルの小言を躱した。

 雪の上をさくさくと進んでいく。どこか遠くで、ドサリと雪が落ちた音がした。

 全力疾走の汗が引いて凍えるように冷たくなった体が再び暖かくなってきた。その頃になってようやく、フィルが足を止める。


「この辺りかな」


 といっても、景色はまったく変わっていない。ここまでも、この先も、木立が延々続いていて、細かな特徴は雪に塗り潰されているから、どうしてこの場所でフィルが足を止めたのか少年たちには理解できなかったようだ。

 彼らが顔中に疑問符を浮かべていることを、フィルは見落とさなかった。


「雪が降る前に来ておくんだ。目印はないから、歩数で覚えておくんだよ」

「へぇー」


 ダニエルが目を輝かせた。


「何があるの?」

「スノードロップの希少種さ。普通なら今頃は花盛りなんだけど、ここのは特殊でね。長く雪の下で眠り、バレンタインデーの五日前から芽を出して、当日の朝にだけ花を咲かせるんだ。今日がちょうど五日前だから、雪の下に、もう芽が出始めているはずだ」

「それじゃあ……」


 何かに気が付いたらしいヴィンセントが嫌そうな声を出した。


「この、雪を、掘るの?」

「その通り」


 にっこりと笑って、フィルは続けざまに言った。


手で・・ね」

「「手ぇっ?!」」

「あー、やっぱりかー」


 アーネストとヴィンセントが大声を上げ、ダニエルは悟ったような顔で頷いた。


「金属は厳禁だもんなぁ」

「なに平然としてんだよダニー」

「だってそういうもんだよ。森の植物は金属を嫌うんだ」

「へぇ、さっすが――」


 何かを言いかけたヴィンセントが、はたと口をつぐんだ。


「――詳しいよな、ダニエルは。そういうことだけ」


 ダニエルはいつになくきつい目付きでヴィンセントを睨み、睨まれたヴィンセントは少し気まずそうにそっぽを向いた。


「それじゃあボーイズ。早速だが始めよう。日が暮れたらつらくなるからね」


 フィルの号令に明らかにやる気を欠いた返事をして、少年たちはのろのろと雪に手を突っ込んだ。

 それを傍目にアーチは木立へ寄りかかった。胸ポケットから小さな銀の鈴が付いた組紐を取り出して、それを左手首に付ける。

 それから周囲を見回した。

 辺りは変わらず、しんと静まり返っている。雪が落ちる音が、さっきよりも少しだけ近くに聞こえた。


師匠マスターはやらないの?」


 と、ヴィンセントが不満げに睨んできた。

 アーチは、


「私の仕事はまた別のものですから」


 と泰然として答えると、ゆったりと腕を組んだ。

 その手元で鈴がしゃらりと鳴った。

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