16 苦手なもの
それからしばらくは平穏な日々が続いた。
その間に来た依頼は簡単なものばかりだった。といっても、それはあくまで“アーチにとって”であり、少年たちにとっては何度か死にかけるような危険なものだったが。
「『防壁』なら学年……いや学校一上手く使えるようになった自信がある……」
とはアーネストの言葉である。
穏やかな昼下がり。
少年たちは食卓にテキストを広げ、頭を抱えて唸っていた。
「ヴィンス……グゥン・アプ・ヌッド? って、何だっけ?」
「
「ん? んー……いや、違うよ」
「マジか。どこでミスったんだ?」
「やり方は大丈夫そうだから、計算ミスじゃないか?」
「あー、確かめるのめんどっ」
「一九九〇年五月二十日、一般人による大規模な魔法使い襲撃事件が発生……“最後の魔女狩り”と、よばれ……それをうけて、ほうりつが……かいてい……まほーちょー……ぐぅ」
「おいこら、寝るなダニー!」
「寝たら死ぬぞー!」
「んんー……だめ、僕……おなかいっぱいで……」
「『
「いっっったぁっ! ひどいよヴィンセントっ!」
涙目になって抗議するダニエルを無視して、二人は平然と「目ぇ覚めただろ?」「便利で良いよなーこれ。トラップにも出来るって最高だよな」などと言っている。
それを不満に思ったらしく、ダニエルがぷぅと頬を膨らませた。
「『
「いっでぇ! てっめ、やったな!」
「暴れんなよっ、いったっ! 辞書を投げるなよ馬鹿!」
「そんなんに当たる方が鈍臭いんだよ!」
「はぁっ?!」
気が付いたら宿題などそっちのけだ。
アーチはそれをBGMに、淡々と魔法薬を作っていた。
「……あ。しまった」
うっかり手が滑ったのはBGMのせいではない。単純に、アーチがこの手の作業を苦手としているからだ。
フラスコの中の液体が虹色に波打ち、ぼこぼこと泡立って、みるみるうちに膨張していく。
アーチは素早く席を立ち、デスクの陰に隠れながら言った。
「ボーイズ、しゃがんで!」
「え?」
「は?」
「うぇ?」
少年たちの呆けた声が、次の瞬間、弾け飛んだ謎の液体に塗り潰された。
「ぎゃああああああっ!」
「なっ、なんっ、何だよコレ!」
「くっさっ、うわ、最悪!」
魔法薬の出来損ないを頭から被って、ヘドロの色になった少年たちの顔から、悲鳴が響き渡る。
ただひとり難を逃れたアーチは、両手を上げて立ち上がった。
「……申し訳ありません、ボーイズ。今のは私のミスです」
「
「苦手なんですよ、魔法薬の作製」
「苦手なもの多すぎないか?!」
「嫌いなものは多いですが、苦手なのは製薬だけですよ」
「うえー……『我が身に染み込みし不浄を取り払え――」
「駄目です、アーネスト!」
洗濯魔法を掛けようとしていたアーネストがぴたりと口を閉じた。
「失敗した魔法薬に魔法を掛けると、互いに影響し合って、効果が変わってしまいます。何がどのように変わるかは分からないので、危険が大きいのです。それで死んだ人もいるくらいですから、それはやってはいけません」
「えぇー……じゃ、どーすればいいの?」
アーチは風呂場を指差した。
「お湯で落ちますよ、たぶん」
「たぶんって……」
少年たちはぶつくさ言いながら、ずるずると足を引きずっていった。
アーチはキッチンで雑巾を濡らし、真っ先に少年たちの宿題の方を確認した。
何ヵ所かには掛かってしまっているが、大事には至っていない。まずはそこにホッとした。せっかくやった宿題を台無しにされることほど、腹の立つことはないのだから。
それから、彼らが投げ合っていた辞書やらノートやらを拾い、丸く乗っかっている粘性の強い液体をそっと拭き取る。間違っても反対に染み込ませてしまわないように。特にこういうノートには、注意が必要だ――
――開いた状態で落ちていたノートを拾った時、アーチはそこに自分の名前があることに気が付いた。
お世辞にも綺麗とは言えない癖の強い走り書きが、
『アーチボルト・ウルフ』
『噂通りの見た目、しゃべり方はイメージと違う、他の噂は本当か?』
『バロウッズと仲が良い、ミルと仲が悪い、ヘンウッドと仲が良い』
『アンブローズ・カレッジ史上最高の問題児、ものすごい悪戯の数々』
『グロイのが苦手?』
などと脈絡なく箇条書きにしている。
いちいちノートにまとめるのは几帳面だが、まとめ方は乱雑だ。たぶんヴィンセントだろう、とアーチは当たりを付けた。
何も見なかったことにしてノートを閉じようとした時、その一番下、おそらく最も新しく書き足された項目が目に飛び込んできた。
『エイブラハム・ウルフ、関係ある?』
その横に、ウェブサイトから拾ってきたような情報がつらつらと書きなぐってある。
――俳優、一九六一年一月二十日生まれ。十八歳の時映画『恋に落ちたら』でデビュー。二〇〇八年殺害される。享年四十七歳。代表作『マーヴェリック・スパイシリーズ』など。アンブローズ・カレッジが初めて校内の撮影を許した映画『ヴァルプルギス・ナイト』では主演を務める。現場にはいつも真っ赤なコートで登場すると有名。殺害の経緯や犯人はまだ特定されていない――
名前のところから、斜めに向かって矢印が伸びていた。
『若い頃の写真、師匠にすごく似てる。たぶん父親だ、とアーネスト』
風呂場の方で、誰かが「ああっ!」と叫ぶのが聞こえた。
それからすぐに、バタバタと駆けてくる足音。
アーチはノートを持ったまま振り返った。
ちょうどその瞬間に、ヴィンセントがリビングに飛び込んできた。相当焦って出てきたのだろう、彼の前髪からはぼたぼたと水が滴っていた。
ヴィンセントは、ノートがアーチの手の中にあることを確認するやいなや、
「勝手に見んなよ!」
と叫びながら飛びかかってきた。
アーチは素直にノートを手放して、冷淡に言った。
「見られて困る物を投げるとは、軽率ですね」
「うっ……」
「情報保護魔法は三年生で習うものですが、あとでお教えしましょう」
「マジ?!」
「ええ」
ころりと目の色を変えたヴィンセントに、アーチは微笑みかけた。
「それと、知りたいことがあるなら直接聞いてくださって構いませんよ。答えられる限りは答えます」
「いいの?」
「どうぞ。ただし――」
矢継ぎ早に言い足す。
「――髪の毛を拭いてきたら、ですが」
部屋が綺麗に片付いた頃には、少年たちの宿題をやる気もアーチの魔法薬を作る気力も、すっかり消え失せていた。
「こうなるから師匠の部屋って綺麗で、壁とか床に変な染みがあるんだな」
と冷静に考察をするヴィンセントの横で、アーネストがダニエルの側頭部を見て
「あー、ここ、色が染み付いちゃってるよ……見事に真っ青だ」
「マジで? メッシュみたいでカッコイイ?」
「それは微妙」
「そんなぁ」
などとしゃべっている。
このまま放っておけば、疑問なんて忘れてくれるのではないだろうか、とアーチは思った。が、あのノートがある限りは思い出し、勝手に調べるのだからと考え直す。変に探られるよりはハッキリ話してしまった方が気持ちが良い。
温めた牛乳とビスケットを食卓に持っていくと、少年たちは我先にと飛び付いた。
一人の時なら二食分くらいは賄える量のビスケットがあっと言う間に食い尽くされていくのを、なんとなく空しい気持ちで眺めながら、アーチは口を開いた。
「エイブラハムは私の父親です」
三人は黙ってビスケットをもぐもぐした。まるで相槌の打ち方を知らないかのように。
「十二年前に殺されました。あまりに猟奇的な殺され方をしたのでマスコミには伏されましたが、体の一部、いえ、大部分を取られていました。その上、目撃者が言うには、犯人はその場から煙のように消え去ったということでしたので、おそらく魔法使いが犯人だったものと思われています」
「もしかして、
ヴィンセントが斬りこむように聞いてきた。
「可能性としては高いと思います。が、証拠はありませんし、彼らは決して捕まえられないということで有名ですから。……腹立たしいことに」
「でも本当に、師匠とそっくりだよね」
と、ダニエルが場を取りなすように言った。
「ん? 師匠
「そうですね」
「僕はやっぱ『ヴァルプルギス・ナイト』が一番好きだったなぁ。あれの最初のさ、主人公の子ども時代の子が『ようこそ、魔法の世界へ!』って言ってさ、絵の中に飛び込んでいくところ、あれにすっごく憧れてさぁ。姉さんたち、あ、僕、姉が三人いるんだけど、みんなカレッジにいるから、その姉さんたちにカレッジのこと聞きまくったもん」
アーチは意識的に口角を上げて、「そうですか」と頷いた。――その子役が自分だとは口が裂けても言いたくなかった。いろいろと訳あってやらされる羽目になったのを煤けた気持ちで思い出す。
ふと、アーネストがこちらを凝視していることに気が付いてそちらを向いた。
すると、彼の大きな瞳と目が合った。
彼はぱちぱちと瞬いた。それから目を伏せて「あの……えっと……」と言葉を濁す。
「なんですか? この際ですから、何を聞いてもいいですよ」
素っ気なく促すと、アーネストは決意したように顔を上げた。
「……師匠ってさ……お父さんのこと、好きじゃない?」
マグカップを持つ手がわずかに震えた。
「ごめん、あの……お父さんの話をする時の師匠、すごく、冷たい顔になる、から……」
「……敏感なんですね、君は」
顔に出ているとは思っていなかった。少なくとも、子どもに見抜かれることはないと思っていた。
アーチはホットミルクを少し口に含んでから、慎重に答えた。
「素晴らしい俳優であったことは事実として認めていますし、誇らしく思います。父親としては……どうなんでしょう。私が生まれた時にはもうすでに、俳優として有名で、ほとんど家にいませんでしたから。まともに話したことなど、数えるほどしかありませんし……その辺りはよく分かりません。ですが……だから……」
「……だから?」
「……嫌っているとしたら、
思いつくままに話してしまってから、アーチははたと我に返った。
子どもを相手に何をこんなに素直に話してしまっているのだろう? 学校からこちらに来る時もそうだったが、どうもアーネストが相手だと、乞われるままに話してしまうような傾向があった。
言ってしまった言葉はもう戻ってこない。
アーチは少し気恥ずかしさを感じながら、無意識のうちに組んでいた腕を解いて、誤魔化すようにビスケットを口に放り込んだ。
「……なんで、君がそんな顔をしているんですか」
「え?」
アーネストは、泣き出すギリギリのところを我慢しているような表情で、じっと腕を組んでいた。サファイアの瞳の縁に、室内灯の光がゆらゆらと揺れるのは、涙が溜まっているのだろう。
彼は、アーチに指摘されて初めて気が付いたように、目元を擦った。
「なんでだろう……なんか、すごく、悲しくなってきて……」
「……花の魔術師アンブローズ、学校を創立した人ですが、彼が言うには『悲しいときこそ、勉強をするべきである』だそうですよ」
宿題の山を指しながら冗談めかしてそう言うと、三人は揃って、げぇ、と顔を歪めた。
――その夜アーチは夢を見た。列車の中で見た
今回はいきなり霊安室にいて、自分はあの時とまったく同じように動いた。父の死体の状況を、目に焼き付けるように、脳に刻み込むように、じっくりと見ていた。
いろんな感情で胸がいっぱいになって、それが叫び声になり外に出る直前でアーチは目を覚ました。
夜はまだ明けていなかった。
(……一生、見るんだろうな……この夢……)
天井に向かって溜め息をついたその時、寝室の扉がそっと開かれる音がした。
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