第2章
12 はじめてのご依頼
小さな足音がパタパタと頭の脇を横切った。
少しして二つ目の足音が近付いてきて、また通り過ぎていった。
寝起きのアーチの頭は非常に混乱した。いつの間に子どものゴーストに憑りつかれたのだろう? 最近、そんな依頼を受けただろうか? と一瞬本気で考えて、それからようやく思考がまともになる。
そうだった、
引き取ったのはゴーストではなく
アーチが目を開けてのそのそと起き上がると、キッチンからダニエルが顔を出した。
「あっ、
「……おはようございます」
朝からたいへん元気で、結構なことだ――こちらの体力が吸い取られてしまいそうなほどに。
アーチは欠伸をかみ殺してキッチンの方へ向かった。ひょいと中を覗くと、ヴィンセントがくるりと振り返った。
「おはよう、
髪をざっくりとひとまとめにして、やけに慣れた様子でキッチンに立っている。
「ポリッジがあったから人数分作っておいたけど、いいよな?」
「……ありがとうございます」
「着替えに行くだろ。アーネストはまだ寝てるけど、叩き起こしていいよ。というか、叩き起こさないと起きないから」
「……わかりました」
アーチはもう一度欠伸をかみ殺した。
「君はしっかりしていますね。兄弟が多かったのですか?」
ヴィンセントは「まぁ、そんなようなところ」と微妙に濁った返事をした。
アーチが背を向けてキッチンから離れると、「師匠って朝弱いんだね」とダニエルが言うのが聞こえた。
事実なので腹も立たないし、理解して動いてくれるならむしろありがたいものである。
寝室を――定義としては自分の部屋なのだが、形式的にノックをして――開ける。
カーテンが開け放たれていて、朝の光が燦々と射し込んでいた。
それから逃げるように、奇妙な形の布団の塊がベッドの中央に転がっている。間違いなくアーネストだとは思うが、どこが頭かも分からない。
アーチは手早く着替えると、布団の塊を軽く叩いた。
「朝ですよ」
返事はない。まだ寝ているようだ。
アーチはベッドの縁に腰掛けて考え込んだ。彼は子どもの正しい起こし方を知らなかった。正しいも何もない、ということすら理解の外だ。理由は単純、朝弱いがゆえに、生まれてこの方起こされることばかりで、起こすことがなかったからである。
(姉さんは問答無用で布団をはぎ取ってきた。フィルは……声を掛けてくるだけで、それで起きなかったら放置されたな)
おかげで一限に間に合わなかったことが何度あったか。自業自得といえばそれまでだが、一度、逆恨みして悪戯を仕掛けたことがある。
その復讐に、フィルは翌日声を掛けることすらやめた。それに対してアーチがさらなる報復をして、フィルはついに眠り魔法まで掛けてくるようになり……寮の部屋が半壊した頃、ようやく二人は和平条約を結んだ。
懐かしい記憶だ。フィルと喧嘩らしい喧嘩をしたのはあれぐらいだったような気がする。
アーチはもう一度、さっきより気持ち強めに布団の塊を叩いた。
「アーネスト。起きなさい」
「っ!」
布団がびくりと飛び跳ねて、それからもそもそと、本来の向きとは逆の位置から頭が出てきた。
その顔を見てアーチは目を丸くした。
「……どうしたんですか」
「……え?」
まだ寝ぼけているのか、ゆっくりと上体を起こしたアーネストの両目から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちている。
当の本人は何も気にしていない。ともすれば涙が出ていることにすら気付いていない様子で、肩に布団を乗せたままぼーっとしている。
「何か、よくない夢でも見ましたか?」
「……よく、なくは、ない……すごく、幸せだった……だから、逆に、かなしいんだ……」
などともごもごと言いながら、アーネストはふらぁっとベッドに倒れ込んだ。
アーチは一瞬びくりとした。何かよくないことが起きているのだろうかと思ったのだ。
が、アーネストはそんな心配を嘲笑うかのように、再び安らかな寝息を立て始める。
アーチは、これは絶対に起きないやつだと理解して、投げ出された手に触れた。
「『
「っいっっっだぁ!」
今度こそアーネストはバッチリ飛び起きた。
しばらくの間アーネストは「体罰だ。虐待だ」などと不満を垂れ流していたが、アーネスト以外の全員が「起きなかったお前が悪い」という顔をしていたために、やがて諦めた。
小さな正方形の食卓にはちょうど四人分の席があった。どうせ使わないからと捨てようとする度に、なんだかんだあってタイミングを逃していたことを、アーチは初めて感謝した。まさかこんな風に使われるとは夢にも思わなかったが。
「今日は何すんの?」
自分の分の食器を洗い終えたヴィンセントが聞いてきた。
「今日は特に何も――」
無い、と言おうとした時、アーチの携帯が鳴り出した。知らない番号だ。
「はい、ウルフ」
『魔法使いかねっ?』
出た瞬間、こちらの鼓膜を破ることが目的だと言わんばかりの大声に襲われて、アーチは反射的に耳を離した。
相手は、酒やけしたようなガラガラ声の女性。おそらく、かなりご年配である。
気難しそうなババアだ、とアーチは直感的に思った。
『魔法使いのアーチボルト・ウルフ? 頼めば何でもやってくれる? それは本当かね?』
アーチは携帯の音量を限界まで下げて、ようやく応答した。
「はい。法律に反さない限りは、お手伝いいたします」
『ふぅん。じゃ、ウチの裏の方から変な音が聞こえる、とか言っても、見に来てくれんのかね? ええ?』
「はい、伺います。ちょうど本日は他の依頼もありませんので――」
『じゃ、あんた、今すぐおいで! こっちはもう何日も何日も困ってんだ! 魔法庁だかなんだかはまったく何にもしちゃくれないし……いいかい、リーチェバラの“
ガチャンッ! と叩き付けるように切られ、後には痛みを訴える鼓膜と謎の依頼だけが残された。
「……依頼ですよ、ボーイズ。リーチェバラへ行きます」
少年たちの明るい返事が、この時だけは救いのように思えた。
リーチェバラは非常に小さな村だ。ロンドンの北西に位置し、人口は約三百人余り。自動車で行けば一時間四十分くらいで着けるが、公共交通機関は通っていない。自転車なら七時間ほどで着くが、行っただけで終わってしまう。つまり、車を使うしかない。
それが
アーチ一人なら箒でさっさと行ってしまうのだが、少年たちはまだ二年生であり、箒を使ってはならないことになっている。たとえ勝手に練習していてきちんと乗れると主張してきても、停学期間中に校則上禁止されていることをやらせるわけにはいかない。
「というわけですので、箒は無しです」
「「ええー」」
少年たちは不満げに抗議したが、アーチは黙殺した。
そもそも勝手に箒を扱うことすら校則は禁止しているはずなのだが、という突っ込みはブーメランになるので飲み込む。飛べると知ったら飛びたくなるのが人情というものだろう。
「こちらの方法も大概スリリングですから」
「何すんの?」
「ハイドパークから“裏道”に入ります」
部屋に鍵をかけ、魔法の守護をかけ、それからアーチたちは家のすぐ西側にあるハイドパークへ向かった。
午前中のこの時間は、まだ観光客も少ない。ましてこのどんよりとした天気では、散歩するロンドン市民もちらほらとしかいない。これは魔法使いにとって(アーチのような比較的人目を気にしないタイプにとっても)非常に都合の良いことである。
「“裏道”は基本的に、
「基本的に?」
「使
即座に言葉尻を捕らえたアーネストとヴィンセントに、アーチは微笑みかけた。
「危険を伴いますけどね」
「使ってたの?」
「まぁ、それなりに」
アーネストの質問に簡潔に答え、アーチは話を続けた。
「入り口はいろんなところにあります。交通局によって一般人が落ちないように管理されていますが、稀に落ちることもあって、その人はもれなく行方不明者リストの仲間入りになります。魔法使いであっても迂闊に入れば帰ってこれなくなるようです。詳しくは知りませんが。……ここですね」
何の変哲もない外灯の脇で、アーチは立ち止まった。その後ろを、サイクリングを楽しんでいた人が不審がる目を向けながら通っていった。(傍から見れば、真っ赤なコートの男と揃いのローブを着た三人の子どもの一団は、非常に怪しいものに映っている。)
アーチは周りをざっと確認すると、三人に外灯に触れるよう指示した。それから、
「『不都合は腹の中、不法は手の上、不公平は足の下』」
と呟いた。
瞬間、スコンッ、と
実際には地面
「ひえええぇぇぇぇぇ……っ!」
ダニエルが引き攣った声を上げている。
辺りは地下らしく真っ暗で、ただ指先に触れる鉄の感触と風の抵抗だけが、自分たちがぐんぐん下へ下へと潜っていっていることを教えてくれていた。
少しして、下の方に淡い緑の光が見えてきた。
「着地しますよ」
アーチの言葉が終わるか終わらないかという内に、トン、と足が地面に着いた。
「ひぎゃっ!」
「うわっ!」
「いってぇ!」
バランスを崩したダニエルが足をもつれさせてアーネストの方に転び、アーネストがそれを支えきれなかったせいでヴィンセントをも巻き込み、三人は折り重なって倒れた。
「何やってるんですか」
「だってダニエルが!」
「ごめんってー」
「いいから二人とも早くどけよ……!」
「急ぎなさい。万一次の人が来ていたら大惨事になりますよ」
アーチが手を貸して、ようやく三人は立ち上がった。
エレベーターホールのような穴の外には、うねうねと曲がりくねった細い坑道が前後左右に伸びている。幅は大人二人がかろうじてすれ違える程度しかない。
「この場所の危険な点は、迷いやすいことと、一部に悪霊が巣食っていることです。それから、外部の光の持ち込みは禁じられています。破れば一生出ることが出来なくなるといわれているので、気を付けてください」
酔っぱらった蜘蛛の巣のように何度も何度も分岐している道を、アーチは迷わず進んでいく。目的地に行くにはコツがあるのだが、それを教えるつもりはなかった。
光源は壁に刺さっているたいまつだけだ。不可思議な緑色に燃える炎。
しかしそれだって等間隔には並んでおらず、その光は時折途切れ、完全な闇に閉ざされるところがあった。
――不意にアーチは、コートが何かに引っ掛かったような感じを覚えた。
だが歩く分には不自由しない。
ちらりと視線だけをやると、ダニエルにコートを掴まれていた。彼は完全に腰が引けていて、不安そうにきょろきょろしている。
意図せず、アーチの口元に柔らかな苦笑が浮かんだ。初めて来た時のことを思い出していた。そう、あんまりにも怖くて、一歩進むことも難しかった――。
彼の歩みが少しだけゆっくりになったのは、無意識の内のことだった。
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