11 remember your essence
「相変わらず、だな、ウルフ……」
背の曲がった陰気な老人が、アーチを見上げてぼそぼそと言った。
アーチは思考を切り上げてにっこりと笑った。
「クィルター先生もお変わりなさそうで」
「この歳で、変わることなど、ろくにありはせん……」
油っ気のない黒い髭を長く伸ばし、
クィルター先生は腫れぼったい瞼を億劫そうに持ち上げた。猫柳の色によく似た瞳がアーチを見て、それからアーネストを見て、面白がるように弧を描いた。
「ふん……ここまで波長が近しいことが、あるものかよ……面白い……一時的な接近だろうが……それにしても、面白い……これほど近しければ、感情も、夢も、じき筒抜けになるだろうな……」
「何の話です?」
首を傾げたアーチに向かって、クィルター先生はにやりと笑った。
「……お前は鈍感だからな……すべてを知るのは、こっちの坊主だ……」
顎で示されたアーネストは、少し怯えたように半身を引いた。
「彼に、何か?」
「敏感なガキほど、厄介なものはあるまいて……せいぜい、気を付けてやるといい……いいか、正しい知識を身に付けろ、そして思い出せ……常にな……」
それだけ言うと、クィルター先生は後ろ歩きでアーチたちから遠ざかっていく。追いすがったところで何も話してはくれないだろう。そう判断したアーチは「ではまた。失礼します」と軽く頭を下げて踵を返した。
少年たちはアーチに付いていきながら、何度も振り返ってはクィルター先生が壁伝いに後ろ歩きしていくのを不審そうに眺めていた。
ある程度離れたところで、我慢ならなくなったようにダニエルが呟いた。
「なんでクィルター先生は後ろ歩きしてんだろう」
「ハゲ魔法を掛けられて以来、私に背中を向けるのが恐ろしいそうですよ」
「……師匠ってなんで先生にハゲ魔法を掛けたの?」
「ちょっとしたいたずらです。こっそり掛けて、いつ気が付くかで賭けをしてました。案外長らく気付かれなかったんですよね」
まったく悪びれていないアーチを見上げて、ダニエルが「僕らって実は問題児じゃないんじゃない?」と真剣な顔で言った。
「下を見て安心するのは三流の行ないですよ」
とアーチが咎めるように言うと、少年たちは言葉の調子にまんまと騙されて口を閉じた。
魔法庁の玄関をくぐった後になって、ようやくヴィンセントが、
「……なぁ。さっきの師匠の言葉って、自分の悪さを認めてないか?」
と言ったが、もう遅い。アーチは涼やかな微笑みで「さっきっていつのことですか? 思ったことはすぐに言わなければだめですよ」と白々しく答えて、ヴィンセントの指摘を躱したのだった。
バッキンガム宮殿の北側にある、小さなフラットの二階がアーチの住処だ。
ただし、子どもを三人も追加するにはさすがに狭いが。
借り始めた当時から内装はほとんど変えていない。変わったところと言えば、仕事用のデスクを追加したことと、本棚のラインナップが魔法書やそれに準じるものになったことぐらいだ。白い壁紙とオークの床は、一部に不可思議な変色があること以外、非常に綺麗だった。
「そこのデスクと戸棚には触らないでください。魔法薬が入っているので。本棚の本は好きに読んでくださって結構ですが――」
一番上の段には危険なものがあるので読まないように、と言いかけて、やめた。
「――もし、危険を感じることがあったら、すぐに読むのをやめてください」
「「はーい!」」
アーネストとダニエルは素直に返事をしたが、ヴィンセントは黙っていた。彼は間違いなく危険を承知で読むタイプだ。むしろ“危険だからこそ読む”タイプだろうと踏んで、アーチは言葉を変えたのだが、どうやらその判断は正しかったようだ。
寝室に入ってから、アーチは彼らの寝床をどうするべきか考えていなかったことをはたと思い出した。備え付けのベッドは比較的大きいタイプだが、それでも、三人で共用するには小さすぎる。
アーチは慌てて考え始めた。が、バロウッズ先生はそうなることを見透かしていたらしい。ヴィンセントが自分の荷物の中から、ミニチュアのベッドを出して、
「師匠に渡せ、ってバロウッズ先生に言われたんだけど」
彼はこの意味を理解していなかったが、理解できたアーチは思わずにっこりとしていた。
「これはこれは。助かりました。ちょっとそこのランプをこっちに持ってきてください。それで、三人とも少し退いて――『
唱え終えると同時、ミニチュアに息を吹きかけて放り投げる。と、その姿がみるみるうちに膨らんで、隣のベッドとほとんど同じ大きさにまでなり、どすん、と床に落ちた。三人が歓声を上げた。
「ぴったりくっつければ、三人でもどうにかなりますね」
アーチがホッと息をついた瞬間、
「あああああああっ!」
アーネストが財布をひったくられたかのような引き攣った叫び声を上げた。
全員が彼の方を振り向いた。
彼は顔面を蒼白にして、ぽっかりと口を開けて固まっていた。
「……どうしたんですか?」
アーチが恐る恐る尋ねると、アーネストはのろのろと口を閉じて、それから、
「宿題……全部地下水道に落としてきちゃった……」
ポツリと言うと、がっくりと肩を落とした。
その肩をダニエルとヴィンセントが「アーネストって意外と真面目だよねぇ」「不可抗力でなくしてラッキー、ぐらいに思っとけばいいだろ。俺ならそうする」などと言いながら撫でた。
アーチは慰めるような調子で、「後で先生に電話して、事情を話しておきますから」と呟いた。
やはり疲れていたのだろう。昼間の小競り合いのことなどすっかり忘れたようにわいわいと話していた少年たちは、アーチが思っていたよりもずっと早く静かになった。
それを見計らって、アーチはスマートフォンにバロウッズ先生の番号を呼び出した。
『ハロー、ウルフ。調子はどうだい?』
電波の悪いところにいるらしく、ガサガサした声が返ってきた。
アーチは今日起きたことを簡潔に話した。
するとバロウッズ先生は大きな声で笑って、今度はその音量のせいで音が割れた。
『あっははははははははは! 早速死にかけたのか! それはそれは。アーネストには安心するように言っておいてくれ。落とし物はすぐ、新品が届くように手配してあげるから』
「よろしくお願いします。ところで、先生」
『なんだい?』
「少しお聞きしたいことがあるのですが」
『どうぞ』
「彼らがなぜ魔法を撃ったのか、先生はご存知でしたか?」
『もちろん。本人たちの口から聞いたよ。だが証拠がない。何より、校則違反のスリーコンボが圧倒的に不利に働いた。ミル先生がどんな風に彼らを責めたてたか、君なら容易く想像できるだろう?』
アーチは苦笑した。残念なことだが非常に鮮烈なイメージが出来てしまう。
『そこをどうにか押しとどめて執行猶予をもぎ取った僕の手腕を褒めてほしいね!』
「さすが先生、正論と詭弁をごちゃまぜにして煙に巻く手際はお見事という他ありませんね」
『ありがとうウルフ! 君のその煽りスレスレの褒め言葉も久々に聞くと嬉しいものだ』
「そう言ってくださるのは先生だけですよ」
『だろうね。それで、他に質問は?』
アーチは少しだけ考えてから尋ねた。
「彼らが、一般人に向かって魔法を撃ったと通報したのは誰ですか?」
『……』
いい質問だねウルフ、と、その沈黙が言っていた。
『通報は魔法庁にされた。で、そこから学校の方に連絡されたから、最初に誰が通報したのかは分からないんだ。魔法庁にも守秘義務があるからね、聞いても“近隣住民”としか教えてくれなかったよ』
「そうですか」
『詳しく聞きたいなら、違法魔法課のプレイステッドを訪ねるといい。彼が通報を受けたらしいからね』
「わかりました。ありがとうございます」
『ふっふふ、それにしてもウルフ。仲良くやれているようで何よりだ。その調子で頑張りたまえ』
何だか含みのある笑い声を残して、先生は電話を切った。
アーチはスマートフォンをデスクの上に置くと、ソファに寝転がった。
隣の部屋とはいえ他人の気配が近くにあるのは妙な気分だったが、思ったほど寝苦しくはなさそうだった。
思い返せば、寮生活をしていた頃はこれが普通だったのだ。
意図せず学生時代の空気感が脳裏によみがえってきた。一つの部屋を共有して、同じ食事を一斉にとって、くだらないことで笑って泣いて喧嘩をして――
――どこにいようと必ず誰かの目があった。それが気に障る時もあれば、それに救われる時もあった。油断はし切れないのにリラックスできる、家族とは少しずれた不思議な感覚。
(懐かしいな)
とは思うが、あの頃はよかったなどという無駄な感傷に浸ることはしない。しいて言うなら、あの頃
今ある自分を否定するつもりはさらさらない。
たとえそれが、父の死があった結果辿り着いた場所だとしても。
そう思った瞬間、“もし父が殺されなかったらどうなっていただろう”という幻想が浮かんできた。
(もし父が殺されていなかったら……僕はフリーランスになっていただろうか? ……なっていなかったような気がする。それなら、何をしていただろう。魔法庁に入っていたかな……いや、さすがにそれはないな。なら……なら、僕は……何になりたかったんだろう……)
無益な幻想を打ち切って、アーチはソファの上に丸くなった。
毛布が、悲しみとよく似た二月の寒さをふわりと押し返して遠ざけてくれる。
そのままぎゅっと目を閉じると、暗闇が素早くアーチを眠りへと連れ去っていった。
夢の中で、十一歳のアーチは校歌を歌っていた。迷い避けの呪文を兼ねた歌。隣にはフィルがいたし、同じ寮の生徒たちもいたし、他の寮の生徒たちもギルバートたちも笑顔で歌っていた。
『
僕らは火 僕らは水 僕らは風 僕らは木
まだどんな音も出ない空っぽの鈴 歌を知らない小鳥たち
だからどうかお導きを 花の咲く庭へ続く道を
教えてくれたら走っていくから 脇目もふらずに真っ直ぐに』
歌い終わって、子どもたちは一斉に走り出した。
花咲く道を真っ直ぐに走っていった。
だが、アーチがふと気が付いた時には、辺りは真っ暗だった。教えてもらったはずなのに、必死になって走っている内に居場所も目的地も見失ってしまった。
周りには誰もいない。
これならこれでいいか、とアーチは自嘲気味に思った。独りなら気が楽だ。僕にはこれが似合っているのだ――
夢の中でアーチの体は少しずつ暗闇に溶けていった。完全に溶け切った後は、朝まで夢を見なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます