タヒチからの手紙

嶋丘てん

タヒチからの手紙

今年もまた、いわし雲の季節が来た。

この時期になると毎年決まって、タヒチから一通のエアメールが届く。封を切ると、そこには写真が一葉。これもいつもと変わらない。青い海、どこまでも続く白い砂浜。真っ赤な原色の鳥が、海上を優雅に羽ばたく。そして、写真の脇に書かれている言葉。


―― タヒチの風を届けるよ S ――


あいつからの手紙。どうやら私には、まだ記憶の奥にしまうことは許されないようだ。

私は最近、それが彼――坂下義則の、嘲笑であるかのようにも思えてならない。


坂下は会社の同僚で、仕事はおろか人付き合いもよく、よくできた奴だった。

不景気の風が吹きすさぶ零細企業で、昼間は営業に飛び回り、夜は夜で残業をこなす。私たちは共に、小さな営業所で日がな一日仕事に追われる毎日を送っていた。

「なあ、新見。タヒチっていいと思わないか?」

終電が終わる頃になると、狭い所内は私たちのほかは誰1人として残っていない。坂下はうまそうに紫煙をくゆらせながら一息つくと、決まってタヒチを夢想した。

「おいおい、またかよ」

「だってさ、こう毎日残業ばかりだと、どっかへふらっと行ってみたいなって思ってな」

坂下の瞳が、紫煙の奥を漂う。

「だからって、またタヒチ?」

私も書類から目を離すと、ポケットの煙草に手を着けた。

「ああ、燦々と照りつける太陽。真っ白な珊瑚の砂浜。真っ赤な鳥が群れなして飛び交う楽園だぜ。きっと心も晴れるんだろうな」

「うん、いいねぇ、…でも、なんだってまたタヒチなんだよ」

私は幾度となくそう問いかけたものだったが、彼がなぜタヒチにこだわり続けていたのか、結局教えてはくれなかった。

時計はすでに0時を回っている。このところの残業は、厳しさを増していた。そんな折り、いつもならタヒチの話題に終始する坂下が、いつもより饒舌に話し出した。

「実はさ、彼女ができてね。これがまたいい子なんだ。でね、彼女とタヒチに旅行に行こうと思ってるんだ。新婚旅行…なーんて、いいだろうなぁ。そうだ、今度おまえにも紹介するよ」

「おっ、やるなぁ。ぜひ紹介してくれよ」

「俺、今までいろいろと遊んできたけどな、今回ばっかりは本気だぜ。2人してタヒチへ行って…、そうだな、そのまま永住したっていいと思ってる。もちろん彼女も了承してくれているさ。そしたら新見も遊びに来るといいよ。タヒチの風はきっと気持ちいいぜ。こんな日本の湿った空とは全然違うんだ」

それは、仕事の合間のほんのひとときの休息だった。他愛もない会話が、張りつめた空気を和ませているかのように。そして、私たちはまた黙々と仕事に戻るのだった。


坂下の彼女との出逢いは、五月晴れの喫茶店が最初だった。

テーブルの向こうに2人して並んで座っている姿は、およそ坂下とは不釣り合いなくらい美しい。危険な女のフェロモンが、テーブル越しの私のもとにまで伝わって来るようだった。

3人で過ごした時間。喫茶店で坂下はよくしゃべっていたように思う。彼女との関係もとてもうまくいっているように思えた。楽しいひとときが過ぎていく。時間の経つことさえ私たちは忘れていた。

その日の晩、私はほんの遊び心から、同方面へと帰る彼女を送ることを提案し、その美しい躰に思いを馳せ、彼女を誘惑した。

そして、奴の彼女――紛れもない坂下義則の女――は、私の腕の中で朝を迎えた。

三角関係はその日から続いた。はじめのうち、私にとって彼女はただの性のはけ口でしかなかった。いや、坂下に対する優越感という思いが、心のどこかに見え隠れしていたのかもしれない。いずれにせよ、私の意識の的は彼女自身ではなく、負けたくないと思う坂下へのライバル心にあったことだけは確かなようだった。


いつもと変わらぬはずの残業。その日以来、私は坂下を異常なまでに意識するようになった。妙な緊張感が漂う所内。その重圧から逃れるかのように、私は早めに帰るようになっていった。

「…悪いな、坂下。今日はちょっとお先に失礼するよ」

「おっ? いい子でもできたか?」

「……ばか、いえよ。そんなんじゃないって」

まるですべてお見通しとでも言いたげな言葉に肝をつぶしながら、私は答えた。

「ま、いいよいいよ。楽しんでこいよ」

今にして思うと、あのときの坂下の表情には、どこかに陰りのようなものがあったのかもしれない。ただ、私には坂下の目から逃れたいという思いに駆られ、彼のそんな表情を見いだす余裕などなかった。

「あ、ああ…すまん。それじゃ、お先」

親友を裏切る罪の意識に駆られながら、同時に親友に対する優越感に浸りながら、私は彼女を抱いた。その魅力的な肌と美貌、そしてとりわけ、親友の女を略奪するという背徳の関係が、私を異常なほど滾らせ、そしていつしか、彼女の存在を私の中に植え付けていった。


真実を知らない、坂下という名の道化。道化師はそのメイクと身にまとった衣装を脱いだとき、自身の姿に戻る。

坂下が2人の関係に気づくのに、そう時間はかからなかった。

梅雨の長雨が窓の外を濡らす。2匹の獣がまぐわう音をかき消すように。夜の闇に隠れて抱き合う2つの影を、メイクを落とした鋭い眼光がそっと睨め付ける。

その電話が坂下のものであるということを、私は予想していたのかもしれない。

激しく濡れる2人の間を裂くように、電話は絶え間なく鳴り響いた。

「なあ、新見。彼女の味はどうだ?」

坂下の声は受話器越しにそれだけいうと、フツリと切れた。


――そして、その日を境に坂下は、蒸発した。


職場はおろか、自宅にも家族の者にもその消息を知るすべはなかった。

警察が何度か所内に来たが、これという手がかりもないままに、彼の行方を突き止めることはできなかった。

あの日以来、坂下を見たというものは誰1人として現れなかった。

私は、彼はタヒチに行ったんじゃないだろうかと思えてならなかった。ひどいことをした。

後になって後悔の念が沸々とわいてきたが、それも日毎に薄れていった。

そして私は彼女との結婚を約束する間柄になった。季節は、いつの間にかいわし雲の頃になっていた。


そんなある夜、1本の電話が入った。

「……新見、元気か」

それは紛れもない坂下の声だった。

「坂下、坂下なのか! 今どこにいるんだ。みんな心配してるんだぞ」

「……おまえは違うだろぅ」

坂下は私をあざ笑っているかのように思えた。

「何いってるんだ、俺だって心配してるんじゃないか」

「……ふへぇ。新見、タヒチの風を届けてやるよ」

それだけを言い残して、電話は切れた。

3日後、海から1台の乗用車が引き上げられ、1人の白骨化した死体が発見された。死後約2ヶ月。所持品と歯のレントゲン結果から、死体は坂下であると断定された。カーブを曲がり損ねて海へ突っ込んだが、道路に状況証拠がほとんど残されていなかったことと、目撃者が1人もいなかったことために発見されずにいたとの警察の発表だった。

むろん、私は彼からの電話があったことは一言も話さなかった。あの夜の電話はいったい何だったのか。私自身、気が動転し恐ろしくなっていたということもあったが、彼がタヒチにいるかもしれないなどということを言ったところで、信用されるはずもなかっただろう。

それに、よけいな詮索をされて私たちの三角関係のことが明るみに出て、あらぬ疑いをかけられるのも迷惑な話だったから。


あれから早10年。タヒチからの手紙は、毎年私のもとに送られてくる。死体が引き上げられたあの日と同じ日に。空一面のいわし雲に乗って届けられるかのように。

そして、10通の手紙は何も語ろうとはしない。


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