第46話 逃げずに向き合います
「……失礼します」
準備室の中はカーテンが閉められているせいで薄暗く、パソコンの明かりだけが彼の顔を照らしていた。
眼鏡をかけているけど視力は悪くないはずなので、パソコン用なのだろう。
「どうした? なにか相談したいことがあるのか?」
カタカタとキーボードを叩きながら、こちらには一切視線を向けずに口を開く。
こちらを見てくれないことに拒絶を感じたけど、俺は勇気を振り絞った。
「……相談があります」
「あまり時間が無いが、少しだけなら聞ける。仕事しながらでもいいのであれば、話をしてくれるか」
忙しいのは本当なのだろう。
眼鏡の奥の目には隈が浮かんでいて、机の上も彼にしては散らかっている。
タイミングが悪かったか、反省しかけたけど、俺も話をしないと待っているのは罰ゲームなので、忙しさを見て見ぬふりした。
「ありがとうございます。話というのは……最近、避けていたことについてなんですけど……」
キーボードを叩く音が止まった。
それでも視線は画面に向いたまま、ほどなくしてまた音が鳴る。
「……避けられていたのか。全く気が付かなかった。そのぐらいの歳の生徒は、教師という存在自体を苦手にしている方が多い。別に気になるほどじゃなかったな」
嘘だ。
直感的に俺は、そう感じた。
表面上は普通だし、焦った様子もない。
でも彼の言葉は嘘だと確信する。
「そうでしたか? 気づかれていないとは思いませんでした。だって、先生も俺のことを避けていたでしょう?」
今度はキーボードが止まると同時に、視線がこちらを向いた。
驚いた様子の彼は、俺が避けられているのに気づいているとは思わなかったらしい。
そんなに、彼の中の俺は冷たい人間なのだろうか。
あんなにも一緒にいたのに、俺達はお互いのことを、あまり理解していない。
「……さ、けてなんかいない」
「それは無理ないいわけですよ。どう考えたって、前までと比べたら接触を控えていたでしょう。鈍感な人だったら、気づかないかもしれませんけどね」
「……でもこれが、教師と生徒の普通の距離感だ。今までの方がおかしかった」
「そうかもしれませんね。前までは恋人だったわけですから」
恋人だったことを話題にするのは、最近避けていた。
でもこの機会に、もう一度俺達は話し合うべきである。
これを逃したら、今度は徹底的に避けられるかもしれない。
「……もう終わった話だ。それとも俺に罰を受けて欲しいのか? だったら、公表すればいい」
「どうしてそんな話になるんですか。俺、一言もバラすなんて言ってないですよね」
何でバラすバラさないの話に飛んでしまうのか。
思い込みが激しい彼は、俺が否定すると不思議そうな表情で首を傾げた。
「それなら、何の用があってここにきたんだ?」
もう他に話はないだろう。
そう言いたげな様子に、俺は少し眉間にしわが寄ってしまった。
「……俺、恭弥と別れたんですよ」
「そ、そうか。それは残念だ。お似合いだったのに、何かあったのか?」
本当はここまで話すつもりはなかった。
でも彼とのやりとりで、少し意地悪をしてやろうと、そう考えた。
「恭弥は全く悪くないんですよ。俺が全部悪いんです。俺の考えが全部間違っていて、恭弥と別れることになってしまった。死ぬまで償うつもりです」
「死ぬまでって……随分と物騒な話だな。そこまでなるほど、何をしたんだ?」
「……他に好きな人が出来たんです。その人のことしか考えられなくなって。それは恭弥に対する裏切りだから、別れることにしたんです」
「好きな人……誰だ?」
それを言うのは、絶対に無理だ。
この世界のどこに、好きな人本人に対して言える人がいるのか。
聞かれたところで答えられなくて、俺は口を結んで顔を何度も振った。
「……教えられないのか。まあ、無理には聞かないさ。しかし俺にこの話をしてどうするつもりなんだ。慰めてほしいっていうわけじゃないんだろう」
「……俺は……」
彼の視線がパソコンに向いてしまった。
話は終わったとばかりに、キーボードを叩き出す。
会話はしたのだから、もう恭弥の罰ゲームを受けなくて済む。
このまま話を終わらせても、誰も文句は言わないはずだ。
それでも俺は、まだ帰る気にはならなかった。
「……俺の好きな人、そんなに知りたいですか?」
俺の問いかけに返ってきたのは無言だった。
それでも音が止んだから、声は届いたはずだ。
「俺の好きな人は、本当に酷い人なんです。俺の心をめちゃめちゃに荒らして、考え方を百八十度変えて。1人では生きていけなくしたくせに、満足に呼吸も出来なくなったのに。簡単に捨てたんですよ。本当に酷い人」
この話だけで、誰のことを言っているのか分かってくれたのだろうか。
またこちらに視線を向けられたけど、今度は俺が無視した。
「最初は忘れてやろうと思っていたんですよ。向こうが勝手に捨ててきたんだから、俺も捨ててやるって。……でも無理でした。恭弥のことを好きになろうとしたのに。彼のことばかり考えるようになって」
彼の視線は心地いい。
ポカポカと気持ちになるのを感じながら、俺は彼に向かって微笑んだ。
「好きです。ずっとずっと。あなたのことだけが」
それは俺の心からの言葉だった。
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