第2話:名も無きシスターとカミサマ
カミサマの下にしか咲かない花があるのよ。その花の名前は、カミサマと同じ名前をしているの。
シスターが今日語ったお話だ。カミサマの肖像画とともに描かれる花のことを指している。赤と白と紫がコントラストを成した、小さな花。真ん中に描かれる人間は、真っ白な肌に赤い目をしている。私たち人間とは全く違う顔をしている。まるで彼そのものが、その花のようだった。
私はその花の名前を知らないし、知っていたとしても口に出すことは許されない。皆はその花のことを、「カミサマの花」と呼ぶ。学名は明らかになっていても、その花の固有名は存在しないことになっている。
だとしたら、私が見つけた、この小さな花畑は何なんだろう?
「カミサマの花だ……」
見上げた空は、もう紺碧に染まっていた。
大人の人の目から逃れて、私は一人、山奥へ。今日目を覚ました場所は、あまりにも窮屈だった。大人の人はずっとカミサマの話をしていて、他の皆はずっとお祈りをしている。暗い部屋の中、ステンドグラスがきらきらと光る。キャンドルがゆらゆらと揺れる。その狭苦しい空間にいたら気が狂いそうだ。
昨日も私はそこにいたのだろうし、昨日の私はお祈りをしていたのかもしれないけれど、今日の私はそれをしない。一日中を使って、行けるところまで歩いてみる。明日の私が困るかもしれないけれど、そこは明日の私に任せよう。それに、そこら中同じ顔だらけなんだから、一人くらいいなくなったって大人は困らないはずだ。
修道院と呼ばれるそこを抜けて、森の奥へと入り込んだ。ただひたすらに歩いた。黒い服が泥で汚れた。木々で腕を擦った。それでも、歩いていくのは楽しかった。明日になったら忘れてしまう。だったら、今日一日を楽しみたい。今日の私は、そういう気分だった。まるで獣みたいになったようだった。
喉が乾いて立ち止まって、水筒に手を伸ばしたときに、私はその花を見つけた。今日見た、「カミサマの花」と呼ばれるものにそっくりだった。いや、でも少し違ったかもしれない。だって真っ白な花と真っ青な花が混じっているから。
ぼんやりとその花を見つめてしゃがんでいると、足音が近づいてきた。シスターたちが気がついたんだーー私は慌てて立ち上がって走り出した。よくよく聞けば、その音は前方からしていたはずなのに、私は獣ではないから、そんなことは分からなかった。
走って奥へと進むほど、花畑は広がっていく。「カミサマの花」だけでなく、もっと色とりどりな花々が広がっている。私がそれらに目を奪われていると、どん、と何か固いものにぶつかった。尻餅をつく私を、何かがじっと見ている。
人間の形をしていた。でも、人間ではありえないほどに真っ白な肌をしていた。両目があるところには、ルビーのような目がある。そして頬には、金属が貼られている。
私は思わず、わっ、と声を上げた。声を上げたときには、もう気がついていた。自分の部屋に貼られたカミサマの絵が、そこにあった。
「カミサマ……!」
「人間……貴様、何故此処ニ?」
カミサマは確かに口を動かした。見た目からは想像がつかない、低い声だった。私の周りに、こんなに低い声をした人はいなかった。それだけじゃない、この人は、何もかもが違った。
同じ顔、同じ声、同じ体つき。他の動物と違って、全てが一緒が当たり前なのが、私たち人間。だからこの人は、やはり人間ではないのだ。
私は立ち上がって、見様見真似のお祈りを捧げた。それしかできなかった。いざ、全く同じ二足歩行動物なのに、顔だけが違うものを見ると、化け物のようにさえ見えた。そうして私が頭を下げていると、カミサマはあからさまに嫌そうな顔をしたーーあからさまに、嫌そうな顔?
思わず面を上げて、カミサマをじっと見つめる。私の知ってる顔じゃない。肖像画のカミサマは、凛とした表情をしている。唇には微かな笑みを浮かべている、とても優しそうな顔だった。しかし、目の前の彼は、そんな顔はしなかった。
「不愉快。何故此処ニ迷イ込ンダ?」
「え、カミサマ……カミサマ?」
「翌日マデニ人里ヘ帰ル可能性……五パーセント。森ノ中デ困窮スル可能性、九十パーセントヲ越エル……然シ、今スグ此処ヲ立チ去レ」
「わ、分かんないわ……か、帰らないわ、そんなの、明日の私がどうするかだわ!」
私がそう答えると、カミサマは大きな溜め息を吐いた。首を横に振って、座り込んだ私を冷たい目で見下ろす。血なんて通ってないみたいな、無機質な目だ。
「貴様ハ、僕ヲ神様トシテ崇メル教団員カ」
「カミサマは、カミサマよ。あなたは、カミサマなのでしょう?」
「否定。僕ハ神デハナイ。然シ人間デモナイ」
「いいえ、あなたはカミサマよ。だって、人間の顔をしていないもの!」
不愉快そうに見つめる顔だって、私の顔とは同じじゃない。私の顔と違うということは、人間の顔と違うということ。私たちの世界に、私たちと同じ形をして違う顔をしている人がいるとしたら、それはカミサマだ。
目の前にすると、急に胸が縮こまったみたいに怖くなる。畏れ多くて、顔を見ていられない。私は自覚したことは無いけれど、きっと昨日もその前も、このカミサマを崇めていたのだ。今日の私が違っただけだ。
カミサマは、すっ、としゃがみ込むと、私の方に近寄ってきた。それから、瞬きもしないで私の顔を穴が空くほど見つめる。反射的に顔を逸らしてしまった。
「要注意人物トシテ記録スル。貴様ノ個体名ハ?」
「こたいめい……? 名前のこと? そんなものは無いわ」
「存在シナイ? 不可解。理由ノ説明ヲ求メル」
「だって、修道院では皆同じ顔をして同じ服を着ているのよ? だから、皆がシスター。カミサマは、私たちのことを知らないの?」
私の言葉に、カミサマは目を細めて眉を寄せた。私を疑っているみたいだ。けれども、合理的だ、と言うと、彼は立ち上がってフードを被り直した。
「修道院トイウ機構ハ非常ニ合理的。然レドモ、人間ニハ個体名ガ在ルモノダ」
「私には分からないわ……他の人間がどう生きているかなんて、知らないもの」
「知的生命体ハ、一方ノモノヲ他方ノモノト区別スル為ニ、命名トイウ行為ヲ行ウ。然シ貴様等ハソレヲ必要トシナイ、トイウコトカ。理解可能。
デハ。人間ヨ、今スグ此処ヲ立チ去レ。此処ハ僕ノ家ダ」
そう言ってカミサマは、手をひらひらと振って何かのジェスチャーをした。たぶん、「立ち去れ」ということなんだろう。
カミサマが嫌がることをするのは、背信だ。そんなのは、記憶が無い今日の私にも分かる。きっと明日の私が困るはずだ。まぁ、明日になったら、カミサマと会ったことも忘れてしまうのだろうけど。
嗚呼、でも、カミサマは「森の中で困窮する」と警告してくれたはずだ。明日の私はきっと森の中で目を覚ましてパニックになるだろう。それは可哀想だ。
立ち上がって、カミサマに再び頭を下げる。そして、カミサマにお願いを捧げた。
「カミサマ、どうか私を一日、ここに置いてくださいな。明日、私があなたを見る前に、ここから追い出してくださいな」
「不可。何故僕ニソレガ必要デアルカ?」
「お願いよ、一晩で良いの。明日の私が困らないように」
何度も何度も頭を下げた。人にこんなに頭を下げたのは、もしかしたら今日が初めてかもしれない。私が頭を下げるたびに、カミサマの顔が嫌そうに歪んでいった。
だが、何度目だっただろう、カミサマは、許可する、と静かに答えた。顔が熱くなって、思わずカミサマの手を取る。ひんやりとして冷たい、金属のような手だった。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「寝室ノ貸出、食事ノ提供。ソレ以上ハ行ワナイ」
そう言って、カミサマは私を小さな家へと連れていく。人間が住むような家には、たくさんの本棚と、たくさんの花瓶が置いてあった。火を灯すランプが、暗い家の中を仄かに照らしている。
カミサマは私をベッドのある部屋へ置くと、決して動くな、と言って扉を閉めた。私は布団を羽織って、ぽかんと窓から空を眺める。ダイヤモンドを散りばめたような、目を見張る美しさだ。
私は今、カミサマの住まう聖域にいる。シスターたちに伝えたら、きっと大騒ぎだ。でも、そのことは明日になれば忘れてしまう。それが、カミサマからの恩寵だからだ。
しばらくして、扉がノックされる。カミサマが入ってきて、私へスープを差し出した。湯気がたっていて、口に含むとしょっぱくて美味しい。野菜がたくさん入っていて、体にも良さそうなまろやかな味だった。空腹だった私にとって、それは世界で一番美味しい物だったーー少なくとも、今日のうちは。
「ソレヲ食シタナラバ寝ロ。睡眠ハ人間ニトッテ不可欠」
「ありがとうございます、カミサマ。ごちそうさまでした」
木のお椀を返して、布団に包まる。体がぽかぽかと温まって、まぶたが重い。今日の私は頑張りすぎたみたいだ。明日の私はきっと苦労するだろうーー疲労だけは「忘れない」からだ。
きっと、人生で一度しか味わえないような一日は、私が目を閉じて眠りに就いている間に、全て消え去ってしまう。森の奥へと駆け巡った、獣のような一日だった。肖像画が形をもって現れた、神話のような一日だった。今日という日を、最高に楽しめた一日だった。
私はふと、カミサマへ一つ質問をする。それは、朝起きた私がシスターから聞かされた、一つの話を確かめるものだった。
「カミサマ、一つ教えてくださる?」
「用件ヲ聞イテ判断スル。質問セヨ」
「カミサマの庭に咲いていたお花は、なんて名前なのかしら?」
カミサマは顔をしかめて、また嫌悪感を示した。この人は、最後まで肖像画のような凛々しい顔はしなかった。
「……神様ハ、アノ花ヲ区別スル為ニ、名前ヲ付けた。
名前ハ、
キンポウゲ属イチリンソウ属ノ多年草ヲ意味スル名前ダ」
「あねもね……素敵な名前ね」
彼は暫時黙り込んで、私を見つめる。その目が、言葉にならない何かを語っていたかのようだった。私の質問に答えると、カミサマは扉を閉めて部屋を出ていってしまった。
あねもね、と何度も口に出して繰り返す。そのたびに、この旅のことを考えては笑いが溢れる。明日も忘れませんように、と祈るようにして、カミサマへのお祈りではなく、カミサマ自身の名前を繰り返した。そうしているうちにまぶたが降りてきてしまって、今日の私は死んだ。
明日の私が、あの花の名前を覚えているかは、私には分からないことだ。
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