約束

尾八原ジュージ

約束

 あたしが高校の技術室の電動糸ノコを使って、左手の小指を切り落とした理由なんて、誰にも教えなくていい。


 あたしの友達の亜美は変なものを欲しがる子だった。

 ある日の朝、登校してきたばかりのあたしをつかまえると、彼女は突然こんなことを言った。

「ひとみの左手の小指、きれーい。ちょうだい?」

 って。

 もちろんびっくりした。何言ってんのこの子と思ったけれど、軽い口調とは裏腹に、亜美の目つきは真剣そのものだった。冗談でも「いいよ」なんて言えなくて、あたしは普通に断った。

「ちぇー」

 亜美は唇を尖らせてそう言うと、何事もなかったかのように、昨日見た近所の犬の話を始めた。

 それで諦めたのかと思ったけど、そうじゃなかった。それから毎日、亜美はあたしに「左手の小指ちょうだい?」とねだるようになった。

 断ると「ちぇー」っと言ってその日はそれでおしまい。でも次の日に会うとまた「ちょうだい?」と来る。

「お願い! 大事にするから!」

「駄目だってば」

「ちぇー」

 これの繰り返し。まるで無限ループだ。

 そういえば中学のときにも、同じようなことがあった。あたしの部屋に遊びに来たとき、箪笥の上で埃をかぶっていた人形が、何かの弾みで落ちてきた。それを見た亜美が「これかわいい! ちょうだい?」と言ったのだ。

 念のため言っておくけど、亜美は他人のものを何でも欲しがるような子じゃないし、そうだったらあたしはとっくに友達をやめていただろう。しかもその人形は、あたしが小さいときに誰かにもらった、古くて安っぽい布の人形で、なぜ今まで捨てずにとっておいたのかわからないような代物だった。どうしてこんなものが欲しいんだろうと、あたしは不思議に思った。

「ほんとにこんなものが欲しいの?」

「欲しい! 絶対大事にするから!」

 眼をキラキラさせてそう言うから、あげた。

 亜美は本当に感激したみたいに何度も何度もお礼を言うと、その人形を抱っこして帰った。それからきれいに洗って、自分の部屋の枕元に置いた。亜美の家に遊びに行ったときに、きちんと飾られている人形を見つけたあたしは、(うわ、マジで大事にしてる)と、ちょっと引いてしまった。

 あの時と同じだな、と思った。何の変哲もないように見えるあたしの左手の小指に、どうして亜美があんなに執着するのかはわからない。でも、もしもあたしが小指をあげたら、あの子はきっと人形のときみたいに、大事にするだろう(どうやって切り取った指を保管するのかはわからないけど)。

 とにかく亜美は嘘の吐けない子だから、「大事にする」と約束したら絶対その通りにする。それはあたしがよく知っている。


 でも。

 だからといって、左手の小指なんか、そうそうあげるわけにはいかない。

 だけど毎日のように「ちょうだい?」と言われ続けていると、あたしはなんだか気持ちがグラグラしてきた。このままでは本当にあげてしまいそう……そんな気がしてきた。

 でもマズい。ボロの人形と違って、左手の小指は現役で使っているものだ。あげるときにすっごく痛いだろうし。

 そこで、あたしはためしにこう言ってみた。

「じゃあ、亜美の左手首くれる? そしたら交換したげる」

 左手の小指と左の手首では、全然等価交換じゃないし、もちろん本当に欲しかったわけでもない。ただ、亜美があたしの小指を諦めてくれたらそれでよかった。

「ええー? 手首から先ぜんぶ?」

 亜美は大げさなほど眉をしかめた。

「そう、全部」

「えー、困るなぁ」

 亜美はブツブツ言いながら去っていった。そして翌日からはもう、「ちょーだい」を聞くことはなかった。

 亜美が死んだのだ。

 放課後、人がいなくなる時間帯を見計らって、技術室にこっそり忍び込んだ亜美は、電動糸ノコで自分の左手首を切断した。そして、大量の出血のために命を落とした。

 うっかり者のあの子のことだから、きっと後のことなんか、何も考えずに切ったのだろう。そりゃ死ぬわ。

 皆は、亜美が自殺したと思ったみたいだけど、あたしはそれが違うことを知っていた。あの子は死にたかったんじゃなくて、ただあたしに、本当に左手首をくれようとしただけなんだ。

 だから自殺じゃなくて、あれは事故だ。

 いや、あたしが死なせたと言っていい。


 亜美が死んでから、あたしは何だかボンヤリしていた。

 ボンヤリしたまま亜美のお葬式に行って、ボンヤリしたままお焼香をした。

 ボンヤリのまま、何日かが過ぎた。

 あたしは毎日、家で中学校の卒業アルバムをめくって、亜美とあたしが写っている写真を探した。寄せ書きには「高校でも仲良くしてね! ずっと友達でいようね。亜美」と書いてあった。

 ずっと友達。

 普通、こんなにまごころのこもっていない言葉はめったにない。卒業式のときに「ずっと友達でいようね!」と言っていた子のほとんどは、違う高校に通い始めるとどんどん連絡を取り合わなくなって、今ではどうしているのかもわからないし、あたしもあえて知ろうとは思わない。でも亜美はああいう子だから、きっとあたしとは、ずっと友達でいるつもりだったんだろう。

 嘘の吐けない子だから。

 ボンヤリ寄せ書きを眺めていると、あたしのスマホが鳴った。電話だ。珍しいな、と思いながら画面を見て、あたしの心臓がぎくんと跳び跳ねた。

 亜美の名前が表示されている。まるで幽霊そのものを見たような気がしてぎょっとしたけれど、あたしはスマホを放り投げたい衝動を何とか堪えた。

 もしかしたら亜美の家族かもしれない。あたしに何か用事があって、彼女のスマホから電話をしているのかもしれない。

 誰であれ、出るしかない。

 あたしは「応答」をタップして、耳に当てた。

『……もしもし? ひとみ?』

 泣き出しそうな声が聞こえた。

「亜美?」と尋ねて、あたしは懸命に耳を凝らした。

『うん……』

 亜美の声だ、と思った。

 だったら本物の幽霊かな、とあたしは考えた。それでもよかった。

 亜美ならあたしに、恨み言をいう権利がある。あんたのせいで死んだんだって言われても仕方がない。

 でも違った。電話の向こうで亜美はぐすっと鼻をすすった。

『ごめん、ひとみ……あたしの左手首、燃やされちゃった……』

 あたしの全身から力が抜けた。そういえば、亜美って子はこういう子だった。

「火葬されちゃったってこと?」

『うん……あのね、ひとみにあげようと思ったんだよ。でもね、あげられなかったの』

「バカ。急いで切るからだよ」

『うん……ごめん……』

 本当にバカだ。あたしは亜美の左手首なんか、ちっとも欲しくなかったのに。亜美だったらあたしの小指も大事にするだろうって、わかってたのに。

 あたしはバカだ。

「いいよ。亜美、すごくがんばったから」

 あたしは青空みたいに穏やかな気持ちになって言った。「あたしの左手の小指、あげる」

『ほんと?』

 電話の向こうの声が、突然明るくなった。

『ひとみ、ありがとう! 大事にするね!』

 そう言って電話は切れた。あたしは時計を見た。まだ高校の下校時刻には間に合いそうだ。

 あたしは急いで支度をして、家を出た。


 根元に輪ゴムをぐるぐる巻いてから左手の小指を切ったけど、思った以上に血が出て、あたしは技術室で失神してしまった。

 目が覚めたら病院にいて、親とお医者さんと学校の先生に嫌というほど叱られた。

 どうしてこんなことをしたのか何度も聞かれたけれど、あたしは答えなかった。きっと誰も信じてくれないだろうと思って。

 それにそのことは、あたしと亜美だけがわかっていればいい、とも思って。


 あたしが左手の小指を切った理由も、その辺に転がってるはずの切断された小指が、どうしても見つからない理由も、だから誰にも教えなくていいのだ。

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