ある生物学者の手記 #3

あのウィルスを作ったマッドサイエンティストはどういう人物なのか。

そんな疑問に答えるために自己紹介をしておこう。

私の名前は宮澤智子≪トモコ≫。日本人だ。

日本の大学で博士号をとった後、四年ほどある会社の研究部門に勤めてからアメリカの大学へと渡った。

会社を辞めた理由は閉塞感だ。研究をするにも上の顔色を伺わないと仕事が進まない。上司が自分よりも有能であればそれでも納得できたが、上にいるのは年齢という理由だけで、その地位にいるような人間ばかりだった。尊敬すべきスキルは何もない。

私は上級研究員として人並み以上の給料をもらっていたが、その多くは税金として持っていかれる。高齢化社会を維持するために、多くのお金が必要なことは理解していたが、会社と同じく社会でも、年齢だけで優劣がつけられている気がした。若者のやる気が失われていくのも無理はないと思ったし、イノベーションが生まれないのも当然だと思った。

そんな停滞し、衰退した環境に飼い殺される将来を想像して恐怖を覚えた私は、自由と成長を求めてアメリカへと飛び出した。

けれど、そんな希望を抱いて向かったアメリカも、私の理想とはほど遠かった。

メディアに盛んに取り上げられるのは黒人への差別だが、アジア人に対する差別もそう変わらない。COVID-19以降、風当たりはますます強くなっており、アジア人はすべてウィルスの宿主というような目で見られた。中国人であろうと、韓国人であろうと、日本人であろうと、白人には区別がつかない。

まして私は女性だ。ガラスの天井にぶつかるほどの高みに登ったつもりはないけれど、自分の発言がまともに受け止められていないと感じることはよくあった。


極めつけは私が再び海を渡るきっかけになった出来事だ。

そのころ私は自己抗原の発現と制御に関する研究をしていた。人間の免疫システムが正常な細胞を抗原として認識し始めると、自らの身体を傷つけ始め、リウマチなどの自己免疫疾患を引き起こす。当時はそういった病気に対する解決策になればという動機で研究をしていたが、今ではその成果はあのウィルスの原型にっている。

我ながら着眼点は良かったし、データも満足のいくものが揃っていた。けれど、どの学術誌に出してもリジェクトの嵐。自分の評価との差に納得はいかなかったけれど、それが世間の客観的な評価であるならば納得はできた。

私に子どもはいないが、親の子どもに対する評価が甘くなるように、手塩にかけた研究に対する自らの評価が高すぎるのかもしれない。そう自分を説得し、その研究テーマにあきらめをつけかけたところで、他の論文が発表された。

私と同じような着眼点、同じようなデータを揃えた論文が、私がリジェクトされた有名誌に掲載されたのだ。著者は私のボスと懇意にしていたヨーロッパのチームで、ほとんどが白人だった。私のボスはヨーロッパのチームメンバーに挟まれて、ちゃっかりと共著者におさまっていた。

偶然で片付けられるほど私はお人好しではなかった。彼らの間でどんな取引があったのかは知らないが、明らかに研究の盗用だった。私はボスに抗議をした。最初はしらばっくれていた彼も、私のしつこさに根負けし、君の名前では無理だったんだと口を

開いた。

アジア人、しかも女性の名前では、どうしても研究に対してバイアスがかかる。一方で、君が示した研究成果は素晴らしく、公表されなければ人類の損失だった。

まるで、人類にとっての損失を回避するためならば、研究の盗用は正当化されるとでもいうように、彼は言った。その倫理を彼が何の疑いもなく信じているようにみえたので、私は憤り以上にやるせなさを覚え、すべてがどうでも良くなった。

この国が私に近づいてきたのはその頃だ。後から聞いたところによると、私は次点だったらしい。彼らは最初、ヨーロッパのチームに近づいた。けれど、すげなく断られた。仕方がなく、彼らはどこかから聞いた、同じような論文をアジア人も投稿していたという噂を頼りに、私の元へ辿りついたらしい。

結果的に、彼らは正しいところに落ち着いたわけだ。本来の発見者は私なのだから。

彼らは法外な報酬と研究費を私に提示し、この国へ渡るよう言ってきた。

日本にも、アメリカにも幻滅した私はそのオファーを快諾し、再び海を渡った。


潤沢な資金のもとで研究は滞りなく進んだ。

ワクチンの存在しない生物兵器。

一歩間違えば味方をも犠牲にしかねない兵器の開発に、私は倫理的な抵抗をほとんどな感じなかった。そもそも私はこの国の人間ではないので、帰属意識というものがない。日本の閉塞感と、欧米の差別に仇なすことが目的で、味方がどうなるかは気にしていなかった。

そういった意味でも、私を見いだしたこの国の人選は間違っていなかったのだろう。


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