第3話 英雄の誕生 3

 魔境が揺れた。




 そうとしか言いようがない、それは恐ろしい光景であった。


 深い、より恐ろしい魔物が眠る層から、高位の魔物が溢れ出し、弱々しくも数だけはある、そして粗暴な魔物たちを追いたてた。

 それはガラハド軍の右翼の脇腹を突いた。

 戦場の理外からの現象に、立ち番の兵士は笛を鳴らしたが、魔物の群れは人の軍の何倍も速く、その陣地に襲い掛かる。


 野営のために最低限の防御力は持たせた陣地であったが、大型の魔物の突進の前には、まさに木っ端微塵となる以外にない。

 兵の士気の乱れを感じたゴルゴーン将軍は、何が起こったのか覚醒してすぐに判断をつけた。

「まさかこのタイミングで、スタンピードか!……」

 スタンピード。なんらかの要因により魔境の生態バランスが崩れ、普段なら魔境に縄張りを持つ魔物たちが、その外へと暴走する現象である。

 右翼が魔境に近いことを考えて、多少は厚い守りをしておいたが、しょせん連れているのは、人間相手を想定した兵士である。


 前線指揮官は既に、右翼の兵を起こしていた。しかし魔物たちの暴走は、人間を想定した野営陣地では通常止められるものではない。

 簡単な堀と木製の柵を作っていた陣だが、その守りは大型の魔物の前にはなんの役にも立たない。

 そして飛行型の魔物にとっては、まさになんの障害にもならず、指揮官達は適切な命令を出すことも出来ず、ガラハド軍の右翼野営地は崩壊した。


 ゴルゴーン将軍は、左翼部隊へ撤退の命令を下した。最悪でも一万の兵は、無事に国に帰さなければいけない。

 魔物の暴走は、いかなる人間の兵の突進よりも恐ろしいものである。なぜならそこには、死への恐怖というものがない。対人間相手の戦法が通用しない。

 本能すらなくしてひたすら突き進む魔物を前に、右翼部隊はそのまま戦闘態勢も取れず崩壊。中央部隊もどうにか陣形を整えられるか、というところである。

 軍人であっても魔物の暴走の前には、まともに指揮出来ない者がほとんどだろう。その中で名将と呼ばれるゴルゴーン将軍は、統率を失っていなかった。


 彼個人に忠誠を捧げ、いかなる時でも命を捨てる屈強の部隊が複数。国境で編成された部隊はともかく、その最精鋭は迫る魔物の群れにも臆することなく、武器を持って陣を組んだ。

 魔物の奔流の中に、わずかに岩のように動かない部隊。それを頼りに逃げようとしていた兵たちも、最低限の武器を構えて防戦しようとする。

 しかし奔流を断ち切ったために、部隊に至る澱みが生まれた。




 前線指揮官というのは、教育による知識だけで務まるものではない。

 敵の大部隊へ突入する度胸を持つのは必然であり、部下を統率する人望が必須であり、何より生き残るための直感が必要である。

 アーリアには人望こそ限られた者たち以外にはまだないが、それは辺境伯家の威名と、騎兵達のプライドをくすぐることで補うことが出来た。

「命知らずの勇者だけついてこい!」

 こう言われて臆するようなら、騎兵は務まらない。

 ガラハド軍が奮闘することによって生じた、魔物の暴走の間隙を縫って、アーリアの騎兵は突撃する。


 ガラハドの軍はかなり混乱していたが、中央部はしっかりと陣形を整えていた。

 魔物の暴走などという、想定のしようがない事態に対しても、迅速に対応する。その統率力に思わず感心するアーリアである。

 出来ることなら自分の部下か副将にほしいぐらいのものであったが、国家への忠誠を違えぬことでも武人として高潔なゴルゴーン将軍である。

 ここは初陣の手柄首となってもらうとしよう。


 ガラハドの兵が陣形を取って確実に対処したと言っても、それは魔物に対する一方向だけである。

 槍と盾で武装した歩兵は、通常一方向だけへの攻撃を想定した陣形を取る。

 精々が左右までで、背後にまで配慮した陣形は、かなり特殊である。

 結果的に言えば、ガラハド軍は最善を尽くしたとは言えない。ただそれは神の視点を持つ、未来から見た場合である。

 この時点では ガラハドの将も兵も、魔物という不確定要素に対して、最善の選択を行っていたと言える。

 だがアーリアたちに対しては、最善ではなかった。


 アーリアたちの姿を見て、それが敵と認識できた者が、どれほどいただろうか。

 騎兵の突撃。この突破力を、槍も盾も前方に向けていた歩兵が、防ぐことなど不可能であった。

 布を裂くようにたやすく、精鋭のはずの兵たちが屍をさらしていく。

 無理もない。精鋭というのはその役割を十全に果たすものであっても、不確定要素に柔軟に対処するものではないのだ。人間の想像力には限界というものがある。

 何より後方からの攻撃に備えよなど、命令もされていない。ゴルゴーン将軍でさえ、その視点は持たない。

 不敗の名将と呼ばれたゴルゴーン将軍であったが、それでもそこが、彼の軍人としての限界だったのだろう。


 アーリア旗下の300の騎兵は、5000の精鋭に守られたゴルゴーン将軍の本陣へ、突入した。

 指揮系統を復活させようとしていたゴルゴーン将軍は、鎧こそ身にまとっていたが、兜を外し、武器も従者に渡したままであった。

 魔法で各軍からの連絡はあるが、場当たり的な対処を命令するしかない。

 天幕から出て、少しでも確実に状況を確認しようとする。火をふんだんに焚き、視界を確保する。

 そんな目立つ位置に、ネーベイアの騎兵は突撃した。

 ゴルゴーン将軍は、訳が分からなかっただろう。

 むしろ味方の騎兵が、己を救うために急行してきたのだと考えたかもしれない。

 歴戦の名将は、それでも人間の限界か、魔物の暴走がこれほど都合よく起こることを、ネーベイア辺境伯軍が利用するとは思っていなかった。敵軍も魔物に対して、応戦するか退却すると考えていたのだ。

 いや、そもそも高所の陣を得ていた敵は、ガラハド軍よりも早く退却できたと思っていた。


 蹄鉄の音に振り向いたゴルゴーン将軍が見たのは、己に向かって投げられた槍。

 とっさにそれは手甲で跳ね飛ばしたものの、次に長剣で襲い掛かったアーリアの攻撃は、その利き腕を切断した。

「うおぉっ!」

 魔剣が切り裂いた腕。何があったのか、将軍はそこで初めて気付く。

 魔物の暴走を利用した奇襲。普通であれば自らも魔物の暴走に巻き込まれるため、逃げるのが道理である。

 そう、頭の隅でゴルゴーンは、この暴走によって自軍が全面撤退せざるをえないとまでは考えていた。

 しかしそれを利用して、乾坤一擲の勝負をかけてくるとは。

 ゴルゴーン将軍は正しく、己の敗北を自覚した。


 あらゆる宝物よりも貴重な、彼の優れた幕僚達も、アーリアの後をついてきた騎兵によって、多くが命を落としていく。騎兵の突撃力は凄まじい。

 しかしここで逃げても、果たして逃げられるかどうか。敵は騎兵であり、さらに周囲は魔物にあふれている。


 旋回して目の前に戻ってきたアーリアが、ゴルゴーンに名乗りを挙げる。

「ネーベイア辺境伯が長女、アーリアである。名乗りを挙げられよ」

 馬上から見下ろす敵が若い少女であることに、ゴルゴーンは驚きを隠せなかった。

「ガラハド王国が大将軍、ゴルゴーンである。討ち取って、名誉とされるがよい」

 己の命と、それと等しいほどに大切な部下が失われていくにも拘わらず、ゴルゴーンは苦笑していた。

 不敗の名をもって、生前より既に吟遊詩人に謳われる英雄。その最期がこれかと思うと、なんとも現実は厳しいものだと思う。


「一つ尋ねたい。魔物の氾濫は、もしや人為的なものか?」

 出血から薄れゆく意識の中で、ゴルゴーンは目の前の少女の将器に思いを巡らす。

「魔境は私の庭。一度しか使えない策ではあったが、獲物が名高いゴルゴーン将軍であれば、切り札を切った甲斐があったというもの」

 アーリアの目に見える覇気に、ゴルゴーンは頷いた。

 なるほど、戦場の理を極めることは難しい。そして理外からくる策には、あらゆることが覆されるということか。

(ウェルズ、出来るだけ逃がしてくれよ……)

 沈黙したゴルゴーンの首へと、アーリアは剣を振り下ろした。




「敵将”不敗の”ゴルゴーン! 討ち取ったり!」

 アーリアの声は大きく、戦場に響いた。

 声の大きさは指揮官として、大切なことの一つである。事実この宣言の後、かろうじて保たれていたガラハドの陣形は、完全に崩れ去った。

「さあ、私たちも逃げるぞ!」

 オイゲンに声をかけ、アーリアはゴルゴーンの首級を布で包むと、馬頭を返した。


 かくしてガラハドの誇る不敗の名将は破れ、新たな英雄の萌芽への肥料となった。

 後の世にゴルゴーンの敗北と称される戦の決着は、この時点でついていた。

 そして残りは、戦果の拡大へとつながる。


 戦争においてもっとも戦果が得られるのは、追撃戦によるものだという。

 逃げる兵を背後から襲うのだ。当然ながら危険は少なく、得られるものは大きい。

 アーリアと旗下の騎兵は、ガラハドの兵の逃げ出す濁流に乗り、その先頭を過ぎてようやく進路を変え、本軍へと合流した。


 本軍においては副将のマルードが、状況の把握に勤めながらも、追撃の機会を窺っていた。

 魔物の暴走はほぼ一方向のものであるので、高地に陣を敷きその進路になかったネーベイア軍は、被害を負っていない。

 追撃とは言えまだ朝には時間がある。ここで下手に追撃して、無駄な被害を出すのは下策である。

 マルードの意見におおよそアーリアは同意したが、追撃を行うこと自体に対しては拘った。


 なにしろ相手は総司令官だけでなく、上位の指揮官がほとんど失われた兵である。

 これはもう軍とは言えず、せいぜいが兵士の集団だ。

 ここで更なる痛撃を与えてガラハドの戦力を削る意味を、マルードも正しく理解していた。

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