第一章 誘い

胎動

空には暗雲が立ち込めている。


かつてこの地、日本には『梅雨』と呼ばれた季節があったという。


暦の上ではあとひと月もすれば、『梅雨入り』と言われた季節ではあるが、この言葉が使われなくなって半世紀以上が経っている。


激しい雨が叩きつけるように降っては止むスコール。亜熱帯の北限はやや北上したものの、かろうじて温帯気候にとどまっていた本州でも、かつての梅雨は亜熱帯性の雨期に近い様相を見せている。


PSI利用推進には、温室効果ガスの排出が極めて少ないという理屈が一役買っていた。深刻化した温暖化対策の一環という『錦の御旗』の元、PSIエネルギープラントや物質精製施設が次々と建造されたが、温暖化の進行を食い止める決定打には至らなかったのである。


日本列島のほぼ全域を覆うように発達した雨雲は、出羽富士とも称される霊峰・鳥海山の麓に位置する学園・研究都市『鳥海まほろば市』とその中枢をなす国際PSI災害研究機関(通称IN−PSID:Institute of PSI Disaster)の施設群にも激しく降り注ぐ。時折、日本海の沖合いでは稲光が走り、波は高く沿岸に打ち付けている。


日本海を臨む高台に聳える六角推台とその台の中央より天に向かって伸びる六角柱の塔。稲光はそのIN−PSID中枢施設のモノリスをモノクロの陰影の中に浮かび上がらせる。IMC:Inner Mission Control Center(インナーミッション管制室)はこの六角柱状のタワーに位置する。


その眼下。激しい波に洗われる沿岸から沖の方へ長く突き出た突堤の先には、高波に抗いながら灯を灯し続ける灯台がある。この海底地下で<アマテラス>の試験は粛々と進められていた。


閃光を放つ光球。光り輝く繭は<アマテラス>を包み込み、その変容を優しく促す。


「現在、PSIバリアへの時空転送データLV2。機体、乗員とも異常認めず」管制オペレーターの一人、アイリーン・クーパーは淡々と経過を報告する。


「LV2……個体表層無意識……まだ脳とインナースペースの接合領域ですね」東が確認するように藤川へ向かって呟く。


「うむ……ここからが本番だ。いよいよ、深層無意識域に突入だ」「はい!」東は返事と共にモニター越しに<アマテラス>ブリッジを呼び出した。


「<アマテラス>、状況はどうだ?」


「は、今のところ特に変化は感じられません」カミラが答える。


「余裕~余裕~」サニが軽口を叩く。


「そうか……だが、ここまでは序の口だ。これよりインナーミッション活動領域レベルに移行する」東の表情はますます生硬だ。


「PSIバリアで負荷は軽減されるが、キミたちの個体無意識も通常空間以上に影響を受ける。最悪の場合、PSIシンドロームを発症する恐れもあるので、充分気をつけるように」「はい!」


「では行くぞ。アイリーン!テストパラメータLV3セット!」


「LV3セット!」


「パラメータ転送!現象境界反転開始!」


アイリーンが端末を操作し、テストパラメータ情報が<アマテラス>を覆うPSIバリアに転送されてくる。PSIバリアは様々な干渉縞を明滅させながら、その彩りを変化させている。


<アマテラス>ブリッジの正面、左右のモニターに映し出されていた先程までの試験場の風景が様々に入り混じり、PSIバリアの放つ光彩の渦の中へ溶け込んでいく。それと同時に自分の感覚が周囲と同化していくような感覚がインナーノーツを襲う。


「わぁ……なに、これ……」ブルネットのウェーブがかった髪を両手で搔き上げるようにしながら、サニが思わず声を上げた。


直人の耳元には、囁くような声が聞こえてくる。


「サニ?ティム?……隊長?」声の出所を探すように見回す直人。


「何も言ってねぇよ!」直人と目があったティムも、同じ感覚にとらわれていた。


「サニ、直人、ティム!意識を集中!呑まれるわよ!」


「PSI-Linkシステム自動ハーモナイズ補正!PSIバリア出力20%アップ」副長のアランは冷静に訓練どおりの対処する。すると、ブリッジを覆っていた異様感が引いていく。


「ふぅ……各員、PSI-Linkとの同調強度再調整。シミュレータとはケタ違いね……」


カミラの指示で各自、システムとの同調強度を再設定していく。(各席のコンソールにある半球状のモジュールが<アマテラス>の基幹制御システムであるPSI-Linkシステムのインターフェースとなっており、これに軽く手を載せ、精神統一を図ることで、各クルーとの感応バランス調整から機体制御、各装備の操作を行うことができる)


「現在、余剰次元LV3 ……個体深層無意識領域相当へ到達」アランは淡々と状況報告する。


「LV3でもこのプレッシャー……テストLVは最高6段階まで設定されている。各自Link変動監視を厳とせよ!」「了解!」


「うぇ……まだ半分……」不快感が思わず口から漏れるサニ。「まだ余裕よね?サニ?」カミラの厳しいツッコミに頬を膨らます。


「船内時空誤差修正。現象界とリンク回復。クルーの生体モニターに微変動確認」IMCでは、アイリーンが逐一状況をモニターしながら報告を挙げていた。


「PSI-Linkの自動ハーモナイズは再調整が必要だな。少しでも彼らへの負荷は軽減したい」藤川は的確に改善点を把握していた。藤川が視線を落とすモニターは、様々な光彩に彩られた光の渦のみを映し出す<アマテラス>の船影は影も形もない。「ですね」東は手早くテスト項目を表示したタブレットにチェックを入れていく。


「では次。LV4」「LV4へ移行!」


<アマテラス>のPSIバリアに再度テストパラメータが転送される。再びインナーノーツを時空間のプレッシャーが襲う。PSI-Linkシステムとのハーモナイズを調整しながらインナーノーツはテストに耐え続ける。



PSI文明が隆盛を誇る一方で、文明の闇ともいうべきPSID(PSI DISASTER)、PSI シンドロームもまたその脅威を増していた。人類は未だこの脅威に対処する有効な手段を持たない。IN−PSIDは、この脅威に対処すべく、20年の歳月をかけ、余剰次元有人探索活動艇PSI クラフト<アマテラス>を開発。インナーノーツは、そのクルーとして<アマテラス>を駆り、インナースペースに潜航し、脅威の解消に臨む。その『インナーミッション(INNER MISSION)』を擬似再現した有人稼働試験も最終局面に入る。



「LV6!パラメータ転送完了!」


「<アマテラス>活動限界領域……『集合無意識』界面ですね」


「うむ……『神仏』の領域の入り口じゃ……はたして御仏は我らに微笑みをくださるかの……」静かな微笑みの中で発せられた藤川の言葉の意味するところ……20年来、彼の元で片腕を務めてきた東には良くわかる。それが心に重石のようにのしかかる。「信じましょう……あの船と彼らを……」東は自身に言い聞かせるようにつぶやいていた。


「時空間LV6へ到達!現在PSIバリア出力最大!」ブリッジを揺さぶる激しい振動が、インナーノーツを弄ぶ。


「ティム!機体制御!機関最大!」


「やってます!が、舵が安定しません!」


悲鳴のような軋みをあげる船体。


「直人!ブラスター1番から3番のエネルギー供給カット。スラスタ制御に回す!」「は……はい!」


「ナオ!すまん!早く頼む!」


「PSI Link コントロール!ブラスター1番から3番供給カット!……いいよ!ティム!」


「両舷スラスタ全開!」スラスタの反動でさらに大きく揺れるブリッジ。サニの目の前の時空間モニターは空間表示曲線が蛇のようにうねっていた。


「あたしゃ酔ってきたよぉ~」サニは既に根をあげた。


しばらくすると、船体の振動が徐々におちついてくる。


「なんとか、うまくいったようね。直人、ティム。引き続き船体維持を優先!」乱れたブロンドの髪を整えながら、指示を出すカミラ。


「試験終了まで船内時間であと10分。それまで二人で持たせてちょうだい。アラン!データの方は?」


「レコーディング機能に支障は出ていない」アランは冷静に答える。


「くっそ、エネルギー供給バランス滅茶苦茶。戻ったらたんまり文句言ってやろーぜ」微妙なコントロールを続けながら悪態を吐くティムに苦笑するしかない直人。


「何事も初めて尽くし。想定しきれないこともあるわ」「それを明らかにするためのテストだ」カミラとアランの『釘さし』に「冗談っすよ」とばかり、ティムが手振で答えたその時……


ブリッジが再度ガクンと揺れたかと思うと、けたたましい警告音が鳴り響き、ブリッジの各モニターをいくつもの真紅のアラート表示が埋め尽くしていった。


「な……なんなのよぉ~今度は⁉︎」


『船酔い』に自席のコンソールに打っ伏していたサニは驚きのあまりシートへ仰け反り返る。そこにシート両肩部のホールドアームが下がり、サニの身体をガッチリと固定した。(緊急時の対ショックホールド機能が作動)


「アラン!」カミラの指示より先に状況解析に取り掛かっているアラン。


「時空間計測がオーバーフローしている……まずいぞ!」


「IMCへ連絡!至急、テストの中断を要……」


船体がさらに大きく揺れたかと思うと、クルーらの意識に強力な衝撃が走った。


「<アマテラス>応答せよ!<アマテラス>!カミラ!」IMCも同様のアラートに包まれている。先程まで<アマテラス>のブリッジを映していたモニターのウィドンドウには


--NO SIGNAL--


とだけ表示され、東の呼びかけに応答はない。


「緊急停止コード送信!急げ!」東がアイリーンへ口早に命ずる。


「コード送信!……ダメです!受け付けません!!」


何も映らないモニターを黙って見つめていた藤川が口を開く。


「エントリーポートへの全エネルギー供給を物理遮断」「……そ……それではデータが……」


「構わん!」


「はっ!……メカニック!!」東は緊急時に待機していた技術員の回線をつなぎ呼びかける。


「落とすぞ!せぇーの!!」東の呼びかけに、それが意味するところを即座に理解した技術員らは、6つのエネルギー供給大元を同時に落とした。


「擬似時空間エネルギー量降下します!」


<アマテラス>を包む光球は徐々に光の偏光を失っていくが、<アマテラス>の船影は確認できない。


「<アマテラス>は!?」東が状況確認を求める。


「依然、反応捕捉できません!」アイリーンも動揺を隠しきれない。


藤川と東は<アマテラス>をそのうちに抱え込んだまま、生き物のように蠢く光球を固唾を飲んで見守る他なかった。

   

       

雷鳴が轟き、激しい嵐が巻き起こっている。


渦巻く波の中に呑み込まれている……いや、自分がその波の一部なのか……

ここは……どこ……

皆は……

死ぬのか……そうか……死ぬんだ……

……………………

……きたい  ……生きたい……

貴方と……

……!!……誰!?



何者かの姿が波間にフラッシュバックしたように現れたのも束の間、次々と襲いくる波間にかき消されていく。その瞬間、直人の左手に激しい痛みが走った。


「つっっ!」思わず左手を跳ね上げ、目を開ける直人。掌側の手袋の表面が焼け焦げている。先程までエネルギー供給バランスの制御の為、しきりに操作していたPSI Linkモジュールが強烈に発光し、見た目でも高熱になっているのがわかる。オーバーヒートしているようだ……


軽く火傷を負った左手を庇いながらブリッジを見回すと、他のクルーらは皆気を失っている。モニターは、依然としてアラートの明滅を繰り返していた。


身体の中枢から湧き上がってくる自分の身体が自分のものではないような不快感が、また襲ってくる。直人は左手の痛みを頼りに、なんとか自己の身体の意識を保つ。


コンソール奥で赤い灯火を静かに守り続けていたemergencyトリガーが目に止まる。直人は、残った気力でコンソールに這いつくばると、その透明カバーの上から拳を縦にして叩きつけた。カバーの割れる鈍い音に続いて、トリガーのスイッチが押される手応えを感じると、機関の動作音が収束に向かうように切り替わり、それにともないモニターの映像もめまぐるしく変化していく。


薄れゆく意識の中、直人はモニターに映し出された映像に一瞬、目を奪われた。


巻き上がり、まぐわう蛇のような無数のエネルギーの奔流の渦。


その中心で卵のような球体の像が何重にも折り重なって振動している。


……あれは……


……地球……?

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