眠れる少女 1
柔らかな朝陽は、樹々に纏い付いた水の宝玉を照らす。
その宝石は、日差しに応えるかのように、枝を軽やかに転がり、葉の上で舞う。
天の荒御魂は静まり、地の和魂は再び微笑みを取り戻す。
朝靄の立ち込める高台に、IN-PSID中枢施設を彩る航空障害灯の赤い明滅が浮かび上がる以外、動くものはない。
昨夜と打って変わり静けさが辺りを包んでいた。
中枢施設の六角柱状の中央タワーは下部の六角推台のブロックを突き抜け、地下へと続いている。
その地階はPSI最重要管理区となっており、IN-PSIDのスタッフでも限られた権限保有者のみしか立ち入ることができない区画となっている。
上層のタワー部とは対象に六角形の縦穴状に地下に伸びる50mほどの空間。その中央は地底から伸びる巨大な構造柱であり、上層のタワーを支えている。(ここの最深部は<アマテラス>の格納庫となっている。上層タワーと行き来するエレベーターが設けられている。)
普段はほとんど人が訪れる事のないこのエリアの静けさをエレベーターの到着音が破る。
縦穴の中ほどの階層で止まったエレベーターからは、降りてくる人影がある。
物々しい防護服(対PSI現象化防護服。PSI が現象化する際に周辺物質、空間の変容を促すことがある。これに巻き込まれると身体や精神にダメージを負うことがある)をまとった3人。
迷う事なく、中央のエレベーターから六方向に分かれて伸びるブリッジのうちの一つを進んでいく。
厳重にロックされた扉が彼らの行く手を阻む。視覚化されたPSI 現象化抑止結界の青白い発光が扉の表面を覆っている。
扉の前で立ち止まると、監視カメラが3人を捉え、セキュリティ照合の処理が目まぐるしいスピードで走る。
『PSIパルス照合、藤川真世、如月重悟、齋藤舞。……臨時入室コード確認しました。このコードによる入室は1回のみです』
合成音声が入室の承認を告げると、結界の発光が消え、続いて重厚な扉が一度奥へ押しやられ、上方に引き込まれていく。
扉の奥から溢れ出る光の中に三人の人影は吸い込まれていった。
奥へ進む三人の後ろで、扉が重々しく閉まる音が聞こえる。
がらんどうのその部屋の壁面は、扉と同じく結界の青白い光に覆われ、異空間の様相を呈していた。
三人はその中央に安置されたオブジェにしばし目を奪われる。
巨大な球状水槽。その中に人形のような影が浮いている。
否、人形ではない。人だ。
三人はそのことを知らされているが、そうと知らなければ、生きている人間とは思わなかったであろう。
「あなたたち……」
水槽の手前のコンソールに向かっていた人物が背後の気配に気づき振り向き、静寂を破る。
「おばあちゃん……」
三人のうちの一人が声をかける。
『おばあちゃん』と呼び掛けられた老婦人も防護服姿であるが、ヘルメットは着用していない。
三人もそれに倣って、ヘルメットを脱ぎ、顔をのぞかせた。
「真世……そう、来たのね」
「ええ。おじいちゃんが……」
藤川真世。この老婦人、藤川貴美子とIN-PSID本部所長、藤川弘蔵の孫娘である。
まとめ上げられた絹糸のように艶のある黒髪とコントラストを成す色白の肌は、青白い結界の光に照らされ、より一層の白さを際立たせていた。
その短い真世の返答で、長年連れ添った夫の意図は理解した貴美子。
軽くため息をつくと、中断した作業に戻る。
貴美子のその様子に真世は閉口してしまう。
IN-PSIDに隣接するIN-PSID附属病院の院長を務める貴美子は、昨晩からこの最重要管理区のアラート発生を受け対応に当たっていた。藤川とほぼ同じく70を超しているが、気品のある顔立ちと立ち振る舞いは老いを感じさせない。
「IMS(INNER MISSION SAPORT)の如月です。こちらは部下の齋藤。……で、状況はどうなんです?」
真世と共に訪れた如月はがっしりした体格を持つ30代後半の男性。鬼瓦のような顔をさらにしかめている。
部下の齋藤は彼より幾分若い女性エンジニアといった風体。涼しい目元が知性を感じさせる顔立ちである。
齋藤は如月の紹介に呼応して、貴美子に軽く会釈を送った。
……わかっている。貴方達がここへ来たわけも……
再度、軽く振り向きながら齋藤の会釈に応じる貴美子の目はそう語っているようであった。
如月の問いかけには答えず、水槽に視線を戻す貴美子。
三人もその視線の先を追う。
水槽の中で、海底を漂う海藻の如く揺らめく、長く伸びた黒髪の間から、ゆっくり対流する水の流れに身を任せる、まだ幼さの残る少女が顔を覗かせる。
その瞳は硬く閉ざされ、何かに苦しんだのか、苦悶の表情を浮かべていた。
口元に取り付けられた、呼吸装置から溢れ出る気泡以外、彼女に動きはない。
「……眠り姫が……目覚める」
貴美子の静かな呟きは、真世ら三人が彼女の身に起こっている状況を理解するのに十分であった。
「よーし!いいぞ!ゆっくり回せ、ゆっくりとだ」
「はい!」
アマテラス機関部のメンテナンスハッチからエンジン下に潜り込みながら部下に指示を出しているのは、技術統括部長のアルベルト。
昨日の有人試験中のトラブルから、辛くも生還した<アマテラス>であったが、特に制御システム系統や機関部のダメージは大きく、復旧には丸々一晩を要した。
ようやく復旧作業が終わり、エンジンへの火入れへと漕ぎ着けている。
「おやっさん!上から電話!」
入り口が開け放たれたままのブリッジの方から呼び出しがかかり、アルベルトはモゾモゾと這い出てくる。
「あと見とけ。目離すなよ」
そう言いながら、エンジン出力を計測していたモニター端末をおもむろに側にいた部下に託し、ブリッジへと向かう。
「おやっさん!」
ブリッジのパイロット席から声がかかる。
メインパイロットのティムの姿がそこにあった。
昨日のトラブルから間もないが、何事もなかったかのように自分の持ち場の調整を行なっていた。
エンジンの出力調整を自席からモニターしながら操縦桿の体感調整をしていたティムは、アルベルトに向け親指を立て、彼の満足感を表した。
"ざっとこんなもんさ"とでも言わんばかりの澄ました顔で、ポケットから取り出した愛用の柄物のスカーフを首に巻き付けながら、アルベルトはティムに応えた。
可愛い気のないオヤジ……と内心苦笑するティム。いつもながらのやりとりだ。
その可愛い気のないオヤジ、アルベルトは可愛いらしい細身のリボンで結んだ長い顎髭を撫でるようにして整え、キャプテンシートでシステムチェックを進めていた部下にメインモニターへ通信を切り替えるよう指示。
変なスカーフにリボン……彼のファッションセンスは、やっぱり理解できないとティムは思う。
メインモニターには、アルベルトとは対照的な生真面目な男が現れた。
「部長、作業の進捗はいかがですか?」
相変わらず深刻そうな面持ちの東がモニター越しに問いかけてくる。
「あらかた終わったよ」
その言葉を聞くと東の表情は幾分和らいだ。
「あとはエンジンをしばらく回して、システムの最終チェックするくらいだ」
アルベルトは続けた。
「テストで報告された問題点は、できる限り解消したが……」
「やはりデータは……」
「うむ……船のレコーダーにいくらか残っていたがトラブルの起きた直後からはほとんど消失していた。そっちは?」
「復旧は試みましたが、こちらも……」
「……まぁ止むを得まい」
東は後ろから入り込んできた声に振り返る。
「あ、おはようございます、所長」
「おはよう、東くん」
「コーゾー!お早いお出ましだな」
「他に用があってな。アル、無理をさせてすまん」
藤川は長年の親友の労をねぎらう。
モニターに映るアルベルトは、左手で何かを欲している。
彼の部下が即座に対応し、コーヒーの入った彼のマグカップを差し出した。
それを受け取りながら、アルベルトは口を開く。
「完徹だったんだ。今日は早くあがらせてもらうぞ〜」
「うむ……」
藤川は、顔を曇らせ、その言葉に対しての返答を保留した。
長年の親友は、まだしばらく帰れなそうだと覚悟を決め、コーヒーを一口啜る。
「シフトの連中は帰すぞ、いいな」
「ああ、そうしてくれ」
アルベルトは静かにコーヒーを楽しんでいる。ブルーマウンテンをベースにしたオリジナルブレンドー温暖化が進行したこの時代、コーヒー豆も天然栽培が可能な地域はごく僅かであり、入手は極めて困難であった。絶滅した品種も多い。一般に普及している豆は、インナースペースに蓄積された過去の情報から復元され、人工環境で栽培されたものが殆どである。(コーヒー豆に限らず、こうした食品は数知れない)最近の復元豆の味は非常に良くなってきている。だが「揃いすぎている」とアルベルトは思う。若かりし頃、かろうじて味わうことのできた天然豆のコーヒーの個性豊かな風味……その再現を幾つかの豆をブレンドする事で再現しようとしていた。彼の好みは、若い彼の部下達に仕込まれ、作業場でもハンドドリップで準備させる。
彼曰く、技術の一手はコーヒーから。
アルベルトはブレンドレシピを作らない。弟子に伝えるのはざっくりした配分だけだった。
だが、その『彼好みのコーヒー』の味(しかも、それは日々彼の体調や気分で如何様にも変わるのだが)をレシピに頼らず、完全に再現できる感性を養うことは、技術者としての感を鍛える事につながると考えているらしい。
部下達が修行と称するこの習慣は、兄弟子から弟弟子へと着実に受け継がれている。
今日の担当は、配属後3ヶ月の新米。
コーヒーを啜るアルベルトの表情を不安気に見つめている。
味は……悪くない。
が、控えめだ……。一人前になるにはもう少し時間がかかることだろう。
アルベルトは不安気な彼に軽く微笑み、及第点である事を伝えると、ホッとした彼は自分の作業に戻った。
「部長……一体何があったんでしょう?」
やや痺れを切らした東が切り出す。
「わからん」
アルベルトは率直に答える。不確かな事をあれこれ語る性分ではない。だが、話のコシを折られた東は言葉が続かない。
アルベルトはカップに残ったコーヒーに視線を落とす。軽くカップを振るとその漆黒の液面が静かに波打つ……それを見ていたアルベルトは思い出したように静かに口を開く。
「……ただ……」
東と藤川はモニターに映るアルベルトに引きつけられる。側で会話を伺っていたティムもアルベルトの方へ顔を向ける。
「機体のレコーダーには、想定外の次元跳躍の記録が残っていた……」
「次元跳躍?」
「あぁ。ざっと7、8次元まで跳んでいた。ま、計器がイカれてたんで、記録ミスの可能性の方が高いが……」
アルベルトは間髪を入れず続ける。
「それともう一つ」
「ん?」
直人の席に設置されたemergency トリガーのカバーはまだ破られたままになっていた。
そこを撫でるように触りながらアルベルトは続けた。
「風間がトリガーを押す直前のレコードに、奇妙なPSIパルスが僅かにのっていた……」
「PSIパルス?」
「ああ。……ノイズみたいなもんだが……」
言いかけて、アルベルトは口をつぐむ。
試験中の外乱要因は徹底的に排除されていた……ノイズが入る余地は考えにくい。
あるとすれば……
「どうした、アル?」
怪訝そうに藤川が問いかける。
「……いや」
アルベルトは、頭によぎった懸念を振り払うように残りのコーヒーを一口で飲み干す。
「だがコーゾー。このテストで一つだけ実証できた事があるぞ」
深刻な二人の面持ちに気づき、アルベルトは明るさを取り繕った声で言う。
「PSI バリアの有効性だ。なにせ……」
ティムの肩にポンと手を置き続ける。
「コイツらが、無事、帰ってこれたんだからな」
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