第17話「鬼塚紅音は——」

 五月が終わり、あっという間に六月がやってきた。

 朝方は涼しいものの、昼間になると汗をかくくらいには暑くなって、季節はだいぶ夏に近づいた。そして、夏といえば。

 俺たちの通うなぎさ高校でも、衣替えが始まった。

「おっすいつき! って、お前まだ長袖にネクタイかよ。いい加減暑くないか?」

 朝教室に入ってくるなり、まだ冬服姿の俺を見て目を丸くするのは親友の海斗かいとだ。

「うーっす海斗。いやぁ、わざわざタンスの奥から引っ張り出すの面倒でさ。もうしばらくはこれでもいけるだろ。暑かったら腕まくりでもしとくよ」

 とは言ったものの、これは真っ赤な嘘だ。

 周りの生徒たちに目をやると、誰もがすっかり夏モードだった。

 約一名を除いては。

「ま、今日のところはいいだろ。仲良くペアルックって感じで、微笑ましい限りだよ」

 言いながら、ニヤリと笑った海斗は窓際の席を指さした。

「何がペアルックだよ。いい迷惑だわ」

 吐き捨てるようにそう言って、俺は海斗が指した方向を見る。

「……」

 そこにはいかにも暑そうに、苦悶の表情を浮かべながらパタパタと両手で自分の顔を仰ぐまだ冬服の風紀委員長の姿があった。

「にしても珍しいな。鬼塚おにづかさんのことだから、我先にと夏スタイルに切り替えて来ると思ったのに」

「確かにな。鬼の風紀委員長があれじゃぁダメだろ。もっと他の生徒たちの模範となるような姿勢でいてもらわないとな」

 そう、奴は鬼の風紀委員長「紅鬼あかおに」こと鬼塚紅音おにづかあかね

 これしきの社会のルールに則るのは当たり前の話であるはずなのだが。

「まぁそう意地の悪いことを言ってやるなよ樹。鬼塚さんなりにも何か理由があるんじゃないのか?」

 ポケットに手を突っ込みながら、どことなくいぶかしんだ表情を浮かべる海斗。

「理由……。そうだなぁ、あるのかもなぁ。今日という日に衣替えできなかったどうしようもない理由が」

「……樹、さてはお前、何か知ってるな?」

 したり顔を浮かべる俺に、海斗が身を乗り出して訊いてくる。

 ——そう、俺は知っているのだ。

 あの鬼塚紅音が、今日もしっかりと冬服を着こなさざる得なくなった理由を。


 ——これは昨晩の出来事。

 夕食と風呂を済ませ自分の部屋に戻り、俺はまずスマホを手に取った。

「……ん、なんかめっちゃ来てる」

 暗転した画面に光が戻り、そこに表示されるのは鬼塚紅音の名前が複数。

 一体何事かと、俺はパスワードを解いてメッセージアプリを起動した。すると。


『どうしよう。大変』

『明日衣替えなのに』

『夏服にコーヒーこぼしちゃった』

『(おやすみスタンプ)』


「……」

 鬼塚と連絡先を交換してからというもの、こういったことはよくある話で。

 一度の送信で事足りるような内容の文言をわざわざ三連投。そうして一方的に伝えた後、こちらからの返信を許してくれないかのようにスタンプで強制的に会話をシャットアウト。

 いくら友達がいないからと言っても、ここまでコミュニケーション能力が低いとなるともう救いようがないのでは。

「はぁ……」

 嘆息たんそくしつつ、俺は渋々鬼塚に返信してやる。

『ドンマイ』

 ——ピロリンッ♪

 すると、秒で返信が来た。最後のおやすみスタンプは一体なんだったのか。

『私一人だけ、冬服』

『(泣き顔スタンプ)』

 確かに、まだ六月に入ったばかりだというのに、今年はすでに結構暑い。

 そして明日からは例年通り衣替えが始まる。きっと大半の生徒は完全夏モードで登校してくるだろう。ましや鬼塚は皆から恐れられる風紀委員長。普段あれだけ校則に厳しい当人が衣替えの時期に一人だけ冬服というのは、想像すると異様な光景だ。

 なんて考えると、鬼塚の言いたいことが何となくわかった気がした。


影山樹:『ネクタイ緩めるのは校則違反?』

鬼塚紅音:『違反です。許さない』

影山樹:『ブレザー脱いで腕まくりは?』

鬼塚紅音:『よし』

影山樹:『じゃぁ俺も冬服で行くわ』

鬼塚紅音:『(おやすみスタンプ)』


「こいつ一生友達出来ないな」



「——で、樹もその恰好ってわけか」

「まぁそうなる」

 事の顛末てんまつを説明すると、海斗がニヤニヤしながら頷いていた。

 再び周囲を見渡せば、案の定まだ冬服なのは俺と鬼塚のみ。

 鬼塚はただでさえ周囲の目を引く存在だ。ましてやこの間の報復事件のこともある。冬服そのものが校則違反ということになるわけではないが、鬼塚だけが極力悪目立ちしないようにほんの少し協力してやったというまで。正直なところすでに暑いし、俺としてはそこそこいい迷惑なので、もちろん後でジュースの一本ぐらいは奢られてやるつもりだ。

 と、そこへ。今日もまた遅刻ギリギリで登校してきたのはイケイケ最強ギャルの剣崎けんざきだった。

 がしかし、そんな剣崎を一目見て、俺と海斗は強烈な違和感を覚え、顔を見合わせる。

「……っふー。ギリギリセーフ。てかあっつ。冬服しんど」

 いつも以上に制服を着崩しながら、自分の席に座るなりだらんと両足を投げ出す剣崎。

 そう、こいつも冬服だった。

 しかしこの気崩し具合、いつもに増して酷い。

 ワイシャツのボタン上二つが存在しないものと化しているのはいつものことだが、加えて今日は三つ目まで開いている。艶やかな谷間と派手な黒いブラジャーはもろ見え。スカートもいつもより数センチ短いと見た。横から見てもいろいろと危ない。

 こうなれば、いつかの恩人であり自分の双子の妹だとしても、鬼塚が見過ごしてくれるはずがない。と思っていたのだが……。

 ——なにやら様子がおかしい。

 鬼塚がとびかかるかと思いきや、さっきから自分の席から動こうとしない。

 強いて言えば、激しい貧乏ゆすりが始まって明らかに不機嫌そうな顔をしているぐらいで、剣崎にはなにも言おうとしない。

「え、なんかおかしくね?」

 俺が声に出すと、どうやら全てを察したらしい海斗がクスリと笑った。

「ぷっ——、樹と一緒だろ。きっと巻き込まれたんだな、剣崎さんも」

「あー、なるほど」

 言われて、納得せざるを得なかった。

 恐らく鬼塚は昨日の夜、剣崎にも相談していたんだろう。一時期は犬猿の仲だったくせに、なんて都合のいい奴なんだ。

 昼頃には今年初の気温三〇度越えを叩きだし、俺たち三人は死人の顔つきで授業を受けたのだった。


 迎えた昼休み、俺と海斗と鬼塚は中庭のベンチで並んで昼食をとっていた。

 小さな一口でもさもさとたまごサンドを頬張る鬼塚を横目に俺は言う。

「鬼塚、コーラ買ってこい。あとおにぎり」

 すると、逆サイドにいた海斗も便乗してくる。

「あ、じゃあ俺はサイダーと、焼きそばパン」

 未だしっかりと冬服のまま、小さな白い額に汗を浮かべた鬼塚がギロリとこちらを睨む。

「あ、あんたら、今度覚えてなさいよ……」

海斗はポケットから五〇〇円玉を取り出し鬼塚に投げ渡す。俺の分は当然鬼塚のおごりだ。

 そういえば、もう一人奢られてもいいはずのやつが昼休みに入ってから見当たらない。

「鬼塚、そういえば剣崎はどこに行ったんだ?」

「確かに、見かけないな」

 俺と海斗が怪訝けげんそうにしていると、呆れた口調の鬼塚が言う。

「優紀は生徒指導室よ。私が見逃しても、あそこまでやると先生たちが黙っちゃいないわね。お昼休みが始まってすぐに生徒指導部の先生に首根っこを掴まれて連行されたわ。ったく、いい気味よね」


 それは少なからず鬼塚にも責任があるのでは?


 あえて言葉をのみこみ、俺と海斗は鬼塚に白い眼を向ける。

「なによ」

「「なんでもないっす」」

「あっそ」

 立ち上がり、鬼塚はスタスタと購買へと向かった。


 赤いロングへアが見えなくなった頃、海斗がボソッと俺に言った。

「樹、俺誤解してたよ。鬼の風紀委員長も今になってみれば大したことないな」

「だろ? 怖がり過ぎなんだよ皆。あんな奴毎日でもパシってやるぜ」

 

 ——と、そこへ。もはや鬼神きしんと化した顔つきの鬼塚が戻ってきて……。

「聞こえてるから」

 そう言って、両手で俺たちの胸倉を掴みあげる。


 鬼塚紅音は、とんでもない地獄耳。


 こうしてまた一つ、俺と海斗は鬼塚の新たな一面を知ることとなった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る