第14話♢Side AKANE③♢
ポチャン——。冷め切った雫が私の髪の毛を伝って落ちる。湯船に浮かんだ私の顔を静かに揺らした。
いつから私はこんなに泣きそうな顔をするようになったんだろう。
施設に預けられたあの日から、いつだって独りで強く生きてきた。
ちっとも寂しくなんかなかった。嘘じゃない、強がりなんかじゃない。
「……っうぅ、うっ」
それなのに、どうしてこんなに苦しくなるのか。
古い記憶の、深く暗い海の中で溺れているみたいに、息ができない。
ぽつり、ぽつり。冷たい何かが、私の頬を伝っていく。
久しい感覚だ、と。そう思った。
「一人で抱え込ませて、ごめん」
呟き、私の手を握る
「……しら、ないっ! からぁ!」
私の声にならない声と流れ落ちる涙が、温かな水面を静かに叩きつける。
「ずっと、見ててくれたんだよね? うちのこと」
今度はそっと、優紀が私の肩を抱きよせる。
その瞬間、私よりも全然大きな手から、懐かしい体温が伝わってくる。
逃れようにも逃れられないほどに、強く優しく、温かく抱き寄せられる。
優紀のことなんて、どうでもよかった。
「べ、つに、知らない、ってばぁ! あんた、なんか‼ 優紀、なんかぁ‼」
——子供みたいだ、私は。こんなに泣きじゃくって。鼻水まで垂らして。
「うち、今まで何回
「知らないっ! 知らないっ!」
「小学校一年生から、六年生まで。何枚プリクラ没収されたっけ」
「覚えてる、わけ、ないじゃないっ!」
「木登り禁止って、何回怒られたっけ」
「……知らない! わかんない! 覚えてないっ!」
「中学入ってからもさ、うちがそっこー制服改造したよね」
「知らないって、言ってんじゃん……!」
「去年の入学式もさ、紅音そっこーうちんとこ飛んできたじゃん?」
「あれは、優紀が、また制服、改造してたからぁ!」
「……ははっ、覚えてんじゃん」
全部全部、覚えている。忘れるわけがない。
優紀のことなんてどうでもよかった。心の底からそう思えたら、そう割り切れたら、どんなに楽だっただろう。だけど、
——「私お姉ちゃんだから!」
いつだってあの言葉が、呪いのように私を苦しめた。
優紀ともっと一緒にいたかった。もっと双子でいたかった。
どうしても捨てられなかった。どうしても忘れられなかった。
私は優紀にとって世界でたった一人の姉だから。
お母さんのあの言葉だけは、どうしても裏切れなかったんだ。
だから私は、
「ありがとう。お姉ちゃん」
優紀のそばを、離れなかった。
「ずっと見ててくれて、ありがとう」
どんなに不器用でも、優紀の近くにいたかった。
「うわぁああああああああああああ!」
「鬼の風紀委員長、大号泣」
「っさい! うっさいぃ!」
「はは、冗談冗談。ごめんって」
「うっさいったら、うっさい!」
こんなに泣いたのは生まれて初めてだと思う。
いや、生まれた瞬間と同じぐらい? それ以上? まぁ、なんでもいいか。
私がみっともなく泣き喚いている間も、優紀はずっと抱きしめていてくれた。
柔らかくて、真っ白で、いい匂いで、胸も私より全然大きくて、あったかくて、懐かしくて。
口には出せないけど、嬉しかった。
その日の夜。優紀と同じ布団に入るのは十年ぶりだった。
「優紀、狭い。もっとそっち行って」
「なんそれー。おねーちゃんがそんなでっかいぬいぐるみ抱いてるからじゃん」
「う、うっさい! べ、別にこれは、その、寂しいから買ったとか、そんなんじゃ!」
「いや聞いてないし。にしてもデカ過ぎっしょ、そのクジラ」
「なっ! サメだし! メガロドンだし!」
「はいはい、寂しかったねー」
そんなやり取りが終わって、優紀はそっと私の後頭部を撫でてくる。
別に、嬉しいなんて思ってない。
「そういえばさ、おねーちゃん一人暮らしなんだね」
布団から顔を出して部屋中をキョロキョロと見渡した後、優紀が言った。
恐らくそれは今初めて思ったことではなくて、朝この部屋に来た時点から抱いていた疑惑なのだろう。
「あの施設、中学生までしかいれないから。どっかの誰かさんの祖父母に追い出された時点でこうなるのは決まってたわね」
あえて刺々しい言い方で、目を合わせずに言ってみた。
「もう容赦ないね、おねーちゃん。
「優紀にしては難しい言葉使うじゃない」
どこのギャルモデルなのよってぐらいにギラギラしてる見た目の癖に、しれっと私と張り合っちゃって。
「こーみえて学年二位だから」
「二位で自慢すんな」
「譲ってよ、一位」
「嫌よ。力づくで奪ってみせなさい」
——くすり、自然と笑みが
辛かったことなんて何もかも忘れてしまうぐらいに、心地が良い。
それでも不安というものは、ふと押し寄せてくるもので。
「……私、もう学校いけないよね。てかなんで知ってたんだろ、あいつら」
『
「まぁ今の時代、調べようと思えば何でも調べられちゃうからねー」
そう言って優紀は枕元からスマホを手に取り、ウェブの検索画面を表示してからお父さんの名前を入力してみせる。
「——ほらね」
「……ほんとだ」
よく知った名前と並ぶのは「
一人でこんな真似をしていたら、きっと今頃は呼び起された記憶達に自我を壊されていたかもしれない。そんな存在したかもしれないifが脳裏をよぎっては、たちまち不安に押しつぶされそうになる。
「よしよし」
「……」
顔に出ていたのだろう、優紀がまた、私の後頭部を包むように撫でてくれた。
「まぁでも、うちに任しといてよ。なんとかすっからさ」
小さく微笑んだ後、優紀はそう言って寝返りを打った。
……少し寂しい。言わないけど。
「できるの?」
半信半疑で、私は
「うちの影響力やばいから、なめんなって」
「ただの悪目立ちしてる不良じゃない」
「あー、やっぱ気変わったかも」
「うぅ、ごめんー!」
優紀は優しそうな顔をしてるくせに、結構意地悪だったりする。
これも今日知った、私の知らなかった優紀だ。
「てきとーにさ、ドッキリでしたとか言っとくよ。信じるっしょ、みんなうちよりアホだし頭悪いし」
「そんな単純な話じゃ……、写真だって撮られてたし」
「消せって脅しとくよ。男子なんかみんなサルだし乳でも揉ませとけば黙るっしょ」
「も、揉ませるって! あんたなに馬鹿な事っ!」
確かに優紀のは大きいけど……。私と違って。
「はは、最終手段だって。まぁでも、大丈夫だから、今度はうちがおねーちゃんを守る番、助ける番だから」
「優紀……」
あんなに弱弱しかったくせに、いつの間にかこんなにたくましくなっちゃって。
でも「たくましい」なんて、女の子には誉め言葉にはならないか。
すると優紀が、もう一度寝返りを打った。奇麗な二重の大きな瞳が、暗闇の中で宝石みたいに光って見えた。
「それにさ、学校行けなくなったらおねーちゃん辛いっしょ」
不意に、優紀が
中学の時はよくこんな顔で先生たちに反抗してた気がする。優紀はかなり知的だから、いつもしたり顔で大人を言いくるめていたのを思い出す。
「べ、別に、私は勉強できるならどこだっていいし。頭もいいからどこだって編入できるし」
何も思い当たる節はない。そういうことにしておいて、私は言い返す。
「オタク君と、会えなくても?」
「……なっ! なっ!」
オタク君——、というのは恐らく最近よく私にちょっかいを出してくるクラスメイトの、
「わっかりやすー。顔、真っ赤じゃん」
「くくく、暗いから見えないでしょうが!」
「息遣いと、声色と、そういうので全部わかる」
「た、探偵か! あんたは!」
自分でもわかる。顔が火照って熱いことぐらい。
でも別にそれは、影山君の名前を聞いたからとかでは、絶対にない。絶対、決して、断じてそんなことは、ない!
「てかあいつら二人さ、この間うちのパンツ見ようとしてたんだけど、マジウケるよね」
「最低ね。生徒指導室行き。反省文二万字」
「……二万字って、短編小説書けるじゃん」
「短編小説って二万字で書けるの? ってか優紀って本とか読むの?」
「え? あ、あー、なんか噂で聞いた。本はたまに読むぐらい」
言いながら、また寝返りを打つ優紀。落ち着きがないなぁ、この子は。
「ま、ぜーんぶうちが何とかするからさ。おねーちゃんは今週は休んでな?」
「……うん、そうする。ありがと」
「わかればよし。じゃ、今日はもう遅いし、寝よっか」
「うん、おやすみ。ほんとありがと、優紀」
「どいたまー。おやすみ、おねーちゃんっ」
目を閉じれば、すぐ近くで優紀の吐息が聞こえる。
懐かしい温もりが感じられる。愛しかった匂いに包まれる。
——なんだか信じられないぐらい幸せだ。
これが夢なら、永遠に
少し強く、唇を嚙んでみた。——痛い。夢じゃない。だったら……。
こんな日々がずっと続きますように。
沈みゆく意識の中で、強く強くそう願った。
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