第13話♢Side AKANE②♢

 お父さんの立ち上げた会社の経営が波に乗って、私たちは小さなアパートから引っ越すことになった。

 新しい家は今までの倍ぐらい大きくて、ほんのりと木の匂いが残ってて、私と優紀はいつもはしゃいでいた。

 お風呂場も大きくなって、優紀ゆうきと一緒にお風呂に入るのが毎日楽しみで仕方がなかった。


「痒いところはないですか~?」

「……!」

「優紀? 痛かった?」

「ちょっと、だけ」

「ごめんごめん! 痛いの痛いの飛んでいけー!」

 私はよく、そうやって優紀の小さな頭を撫でていた。

 サラサラの髪の毛は絹みたいで、おもちゃ屋さんに売ってるどんな人形よりも奇麗に見えた。

「……あっつい、出る!」

 お風呂に入ってすぐ、優紀はいつもそう言って逃げようとする。

 理由はよくわからないけど、優紀は湯船に浸かるのが嫌いな子だった。

「だめだよ優紀! ちゃんと十数えるの! お母さんとの約束だよ!」

「……いやっ!」

「あ! わがまま言う子は、もう一緒にお風呂入ってあげないよ?」

「……や」

「じゃぁ一緒に十数えよう? そしたら、明日もお姉ちゃんが優紀の髪、洗ってあげる!」

「……!」

 私は自分が姉であることが嬉しかったし、それは優紀も一緒だった。

 どこへ行くにも、何をするにも、優紀はいつだって私のそばを離れなかった。

 血は繋がっていないし、性格だって正反対だけど、まるで本当の双子みたいに仲良しだった。

「じゃぁいくよ? せーのっ……」


「「いーちっ、にーいっ、さーんっ——」」


 こんなに幸せな毎日が、これから先もずっと続いていくんだろうって。

 まだ小さかった私たちは、そう思っていた。


 最初に異変に気付いたのは、六歳になった頃だった。

『クッソ、いい加減お前も働いてくれよ! こっちは毎日毎日忙しいし、余裕だってないんだよ! お前がそうやって過保護すぎるから、優紀が幼稚園に行かないんだよ! もう今年で六歳だろ! 来年小学校入るんだぞ? お金だってかかるし、優紀だってそのままってわけにはいかねーだろ!』

『私が全部悪いっていうの⁉ 第一、貴方が変に拘ったせいで会社だって潰れたんでしょう⁉ 優紀は今は関係ないじゃない! 今まで何も面倒見てこなかったくせに、私にばっかり責任押し付けないでよ!』

 それはいつも、私と優紀が布団に入って少ししてから聞こえてきた。

 お父さんとお母さんの口喧嘩は、日に日に激しさを増していき、やがて恐れていた事態は起きてしまった。


 ——バチィン!

『きゃっ! 何するのよ!』

『うるせぇな! お前は黙ってガキの面倒見てろよ! 今度俺の仕事に口答えしたらぶっ殺すからな!』

 ——バチィン! 


「……っ! おねえ、ちゃん、怖い」

「優紀、大丈夫、大丈夫よ。お姉ちゃんが優紀のこと守ってあげるからね!」

 二人で頭から布団を被って、私と優紀は毎晩震える手を握り合っていた。

 優紀はいつになっても、私以外の人と話すのが苦手だった。だから幼稚園に行くのも毎日のように嫌がって、お母さんはずっとその面倒を見ていた。

 奇麗な新築に住んだのは結局たった一年くらいで、いつの間にかまた小さなアパートでの細々とした暮らしに戻っていた。

 そうして今度はお父さんが仕事をしなくなって、小さなアパートは毎日お酒とたばこの匂いがひどくなって、毎日くらくらした。

 大きくて強そうだった、大好きだったお父さんの背中はどんどん丸く小さくなって、私はそんなお父さんを見るのが辛かった。

 でも、一番辛かったのは私じゃなくて、お母さんだったと思う。

『クソがよぉ! 酒ぐらいすぐ買ってこれるだろうが! あぁ⁉ ガキなんか放っといたらいいだろ! 俺とガキ二人、どっちが大事なんだよ! おい!』

 ——バシィン! バシィン!

 お父さんは平気で私たちの前でも、お母さんに暴力を振るうようになった。

 お母さんはいつも顔中傷だらけで、しわもたくさん増えていて、手もカサカサで。

紅音あかねはいっつも偉いわねぇ。ちゃんと優紀を守ってくれて、ありがとうね。紅音は立派なお姉ちゃんね』

 傷だらけの笑顔で、カサカサの手で、お母さんはいつも私の頭を撫でて褒めてくれた。

「……うん! 私お姉ちゃんだから、お母さんのことも守ってあげるよ!」

『ふふっ。ありがとう紅音。紅音も優紀も、私の自慢の娘だわ』

 強がりなんかじゃなかった。我慢もしていなかった。

 お母さんも優紀のことも私が守って、お父さんだって、私が頑張ればまた前みたいにかっこよくなってくれると信じていた。

 だから、私がもっと頑張らないと。しっかりしないと。毎日そうやって言い聞かせていた。


 ——だって私は、お姉ちゃんなんだもの。


 ある日の夜。私はいつも通り優紀とお風呂に入っていた。

「優紀、痒いところはなーい?」

「い、痛い……」

「ごめんごめん! お姉ちゃんだから、私の方が力が強いのかな?」

 言いながら、私はいつもみたいに優紀の頭を何度か撫でた。

 すると、珍しく優紀が自分から何かを話そうとしていることに気が付いた。

「……」

「優紀? どうしたの?」

「……背中、痛いの」

「背中? 何もしてないよ?」

「……おとう、さん」

「……え?」

 優紀の長い髪の毛をそっとずらすと、背中には大きな痣が二つ、できていた。

 嫌な胸騒ぎがして、全身が震えた。

「お父さんにされたの?」

「うん。足で、ドンッって」

 ——悪い予感が、的中してしまった。

 それは多分、私が幼稚園に言っている間に起きていたことだと思う。

 やっぱり私が、お母さんと優紀を守らなくちゃいけないんだ。

 小さな拳を握り直して、「私はお姉ちゃんだから」と何度も自分に言い聞かせて、私はお父さんを説得することにした。


 でもこれは、不幸のどん底への入り口だった。


 良かれと思ってしたことは、あっけなく裏目に出てしまった。

「お父さん!、あ、あのね! ちゃんとお仕事して! お母さんのことも優紀のことも、いじめちゃダメ! みんなで仲良くしないと、ダメなんだから!」

 お風呂から上がってすぐ、私はお父さんに強く言った。

 お父さんは顔が赤くて、少し眠そうで、いつも酔っ払っていた。

『あぁ? 紅音、父親に向かって何様のつもりだ? 随分と生意気になったなぁ!』

 お酒に酔っているお父さんはいつもに増して短期で、吸っていた煙草を思い切りテーブルに擦り付けた。

 そしてそのまま私に向かって、目の前にあったガラスの灰皿を大きく振り上げた。自分も痛い思いをするんだと、私は瞬時に悟って目をつぶった。

 ——ゴツンッ!

 目の前で鈍い音が鳴り響いて、重くて温かい何かが私にのしかかった。

 それは落ち着くいい匂いで、カサカサの肌で、すぐにお母さんだとわかった。

「……お母さん? お母さん! お母さん‼」

 お母さんはぐったり倒れていて、左のこめかみからはすごい量の血が流れ出ていた。

「お、お母さん! 待っててね! 今救急車呼ぶから! 助けてあげるから!」

 私がすぐに電話のところまで駆け寄ろうとすると、お母さんが不意に私の手を掴んだ。 

『……いいのよ紅音、私はいいの。だからお願い、紅音が優紀のことを守ってあげて? お母さんが居なくても、紅音ならきっと大丈夫。紅音は強くて優しくて、優紀にとって世界で一人だけのお姉ちゃんなの。だから、早く逃げなさい。お母さんとの約束、守れる?』

 大量の血を流しながら、お母さんは私にそう語りかけた。

 その疲れきった優しい瞳にうっすらと涙を滲ませながら、お母さんの手はゆっくりと脱力していった。

 ——その瞬間、「もうだめだ」、と私は子供ながらに察せしまった。


「……私、お姉ちゃん、だから! お姉ちゃんだから‼」


 そのまま優紀の手を引いて、私は助けを求めて夜の住宅街を走り回った。

 すぐに巡回中のおまわりさんに出会えたのは、とても運が良かったと思う。

 お父さんはそのまま現行犯逮捕。後に下された判決は無期懲役というものだった。


 全てを失った私と優紀は、それからおばあちゃんの家に引き取られることになった。

 と言っても、私にとっては全然他人とも言えた。

 向こうから見ても、本当の孫は優紀だけで、私はついてきたおまけ程度に過ぎなかったのだと思う。

『ったく、人殺しの娘に買ってあげるものなんか無いよ! 欲しいものがあるなら自分で働きな!』

 おじいちゃんもおばあちゃんも、私に対してそう怒鳴りつけるのは日常茶飯事だった。

「……はい、わかりました」

 私は二つ返事で、身の回りのことは全て自分でやるようになった。

 家事、洗濯、その他諸々、一通りこなせるようになるまでかなり時間はかかったし、当然失敗することもあった。

 ある日のこと。初めておじいちゃんの部屋の掃除を命じられ、慣れない手つきで探り探りで掃除をしていたところ。うっかり祖父が大切にしていた盆栽の鉢を割ってしまった。

 ——パリィン!

『お前! なんてことをしてくれたんだ! この役たたずが! こっちにこい! 罰を与えてやる!』

 怒り狂ったおじいちゃんは、私を庭の物置小屋に閉じ込めた。

 反省するまでここにいろ、私が何か失敗するたびにおじいちゃんはそう言って、いつも私を真っ暗でかび臭い物置小屋に閉じ込めるようになった。

 解放してもらえるのはその日の気分次第で、酷い時は朝から次の日の朝まで出してもらえなかった。

 でも、一番大きな問題はもっと別にあった。


「お姉ちゃん、お母さん、どこ?」


 ——お母さんが死んだあの日から、それが優紀の口癖になっていた。


「お母さんはもういないの。でも大丈夫、お姉ちゃんがついてるから」

「お母さんは?」

「だから、お母さんはもう死んじゃったの! 優紀もちゃんとしないと!」


「いや、いやぁ! 嫌ぁ‼ お母さん‼ お母さん‼ 嫌ぁああああ‼」


 優紀はお母さんの死が受け入れられないまま、どんどん心をむしばまれていった。


『またあんたかい! うちの可愛い優紀に余計なこと吹き込むんじゃないよ! いっつもいっつも、人殺しの娘には心ってもんが無いのかい! あんたは黙って小屋に入ってればいいんだよ! ほら! 来なさい!』

 優紀が取り乱すたびに、私はあの暗がりに放り込まれた。

 しばらく経って、私と優紀は小学校に入学することになった。

 でも優紀が学校に行くことは無かった。それどころか、もう昔みたいに笑ってくれることも無くなった。

 その原因は全て私にあると、おじいちゃんとおばあちゃんはいつもそう言って頭を抱えていた。

 そしてついに見ねたらしく、私の面倒までは見切れないと言い出した。


 小学校に入学してから間もなくして、私だけが近くの施設に預けられることになった。


 優紀はいつの間にか学校に来るようになっていて、気付けば普通に友達とも話すようになっていた。

 そんな様子をいつも遠目に、やっぱり私のせいだったんだと、そう思うようになった。

 名字も私は鬼塚のままで、優紀は剣崎に戻って、私たちの繋がりはあっけなく切れ解けていった。

 でも、別にどうってことは無かった。

 厳しい環境にいたおかげで、私は誰よりも勉強もスポーツもできたし、小学生なのに家事炊事だって完璧にこなせた。

 私は誰よりもなんだってできる。だから例え一人でだって、ちゃんと生きていける。

 いつからかずっと、そう思い込むようになった。

 みんなも私と同じぐらいに完璧になれば、きっと誰も苦労しないし、傷つくことは無いと思った。

 みんなが完璧に生きることができれば、争いも事件も、なにも起こらない。

 お父さんがもっと努力していたら、今でもみんなで大きな奇麗なお家で、仲良く暮らしていたに違いない。お母さんももっと努力していたら、優紀はちゃんと幼稚園に行くようになったはず。

 そうしたら誰も傷つかなかった。お父さんはおかしくならなかった。お母さんは死ななかった。結局皆、怠けているからそうなるんだ。みんながもっと真面目に、真剣になれば、もっともっと幸せな人が増えるんだ。

 そんな歪んだ考え方に感情を支配され、私は周りの人間を受け入れることができなくなった。

 特に、ルールを守らない人たちを見るのがものすごく嫌だった。

 廊下を走るなと言われているのに、平気で走り回る男子。

 関係ないものを持ってくるなと言われているのに、友達とのプリクラを持ってくる女子。

 平気で宿題を忘れて来る男子。

 他の子の悪口を言いふらす女子。

 見ているだけで、腹が立った。

 だって私は完璧だったから。

 テストは全部百点。もし間違ったら、先生にお願いしてもう一度百点を取るまでやり直しさせてもらった。運動会も、一番になるまで練習した。学芸会も、みんなが真面目に練習できるように、私がいつも先頭に立った。

 ルールを守らない子には、罰を与えた。

 学校のルールも守れない人が、立派な大人になんかなれるわけがない。

 立派な大人になれなかったら、どうなる?

 平気で人を殴ったり、殺したりするようになる。

 そうしたら、たくさんの人が不幸になる。


 私が完璧にこなせば、先生は褒めてくれる。みんながすごいって言ってくれる。

 だからきっと、これが正解なんだ。正義なんだ。


 ——ずっと、そう思って生きてきた。

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