第12話♢Side AKANE♢

「け、剣崎けんざきさん……! あなた一体どういう……」

 強引に私の右手を引いて教室を飛び出した彼女に、私は未だ困惑したままでいると。

「……あのさー、そろそろそれ、やめてくんない?」

 剣崎さんはそう言って、足を止めた。

 けれども、私の右手はしっかりと掴んだままで。

「……っ」

 剣崎さんの言う「それ」が何のことなのか、嫌でもわかってしまう。

 押し黙る私に、剣崎さんはもう一言。

「今は二人だからさ。昔みたいに、呼んでよ。まぁ嫌ならいいけどさ」

 ——別に、嫌だとか、そんなんじゃない。

 言われて、観念したように私は口を開く。

「……ゆ、優紀ゆうき

 少し間が空いて、優紀は静かに笑う。

 その小さな笑顔がなんだか懐かしくて、強引に引くその手をそっと握り返す。

紅音あかねの家、どっちだっけ?」

 突然、優紀が私に聞いてきた。

「え、駅とは逆のほう……。なんで?」

 普通に話すのがまだ何となく気恥ずかしくて、私は少し口ごもりながら答えた。

「行こっか。案内してくんない?」

「……は、はぁ⁉ な、なんでそうなんのよ!」

「着替えとか、シャワーとか。そんで今日は休みなって。ウチもついてるからさ」

「べ、別にこのままでいいし! ってかそれぐらい一人でできるから!」

 優紀は昔から何を考えてるのかよくわからない子だった。

 今だってそうだ。

「そーだ! 久しぶりにさ、一緒にお風呂入ろうよ。ねね、よくない?」

「ば、ばば! ばっかじゃないの! いい年こいて、い、一緒にお風呂とか、あんた頭おかしいんじゃないの⁉」

 想像したら懐かしくて、ちょっと楽しそうだったけど、そんな言葉が先に出て来るのはいつもの癖で。

「じゃ、決まりねー。 紅音ん家、いこっか」

「……んなっ! ちょ、優紀! 勝手に決めんなー!」

 でもそんなことは、この子にはお見通しで。


 ——バシャァッ!

「……っ!」

 気づけば、頭の上からちょうどいい温度のお湯をかけられている私。

 私よりも幾分か長い細くしなやかな指が、私の頭を荒っぽくごしごしと揉みはじめる。

「かゆいところはないっすか~」

「……痛い。優紀のへたくそ」

「はは、すんませーん」

 ——ゴシゴシゴシ。

 二人で入るには少し狭いお風呂場に、そんな子供じみたやり取りが木霊する。

「ガム、べったりじゃん。ちょっと引っ張るかもしれないから、痛いけど我慢してくんない?」

「……うん」

 言いながら、優紀は私の髪の毛を慎重に触り始める。

 あのガムはどうやらかなりべったりついているらしく、優紀は黙々と背後で手を動かしている。あいつら、今度校則違反したら殺してやるんだから。

 ——グイッ!

「いったっ……!」

 案の定、突然強く髪の毛を引っ張られた。

「ごめん! でももうとれたよ。紅音、大丈夫?」

 でもすぐに、らしくない心配そうな声色で言いながら、優紀は私の頭を優しくなでてくれた。

「だ、だい……じょぶ……だから」

 恥ずかしくて、気持ちよくて、温かくて、嬉しくて、もっとしてほしくて、いろんな感情に支配されてしまう。

「じゃ、流すねー」

「ん……」

 その後も丁寧に、優紀は私の体を洗い流してくれた。

 不思議な感覚だった。

 猫や犬がシャンプーされるときって、こんな感じなんだろうか。

 そんなことを一瞬考えてしまったけれど、瞬時に私のプライドが逆らった。

 だって嫌よ、飼われるなんて!


 湯船に浸かって少しした頃、先に口を開いたのは優紀だった。

「ほんと、久しぶりだね紅音。お風呂も、こうして話すのも。いつぶりだっけ?」

 顔を見るのが恥ずかしくて、膝を抱えた姿勢のまま、私は答える。

「たぶん、十年ぶり……」

「うっわー! もうそんなに経ったんだね。なんか、ウケんね」

「……何がよ、ったく」

 十年ぶり。自分で言っておいて、なんだか信じられなかった。

 私と優紀が、近いようで離れてしまったのは約十年前、7歳になる年のことだった。


「……ごめんね、おねーちゃん」


 そう言った優紀の声は、少し震えていた。


「……なんであんたが謝んのよ——、ばか優紀」


 気づけば、今度は私から優紀の手を握っていた。

 そのまま肩が触れ合って、優紀の肩は冷たかった。

 私よりも全然、女の子にしては背丈があるせいか、ちゃんと湯船に浸かりきれていない。

 そんな優紀の冷えた肩に、私はコツンと頭を寄りかからせてみる。


 これがもし本当の双子同士だったら、もっとちゃんと温まりあえていたんだろうか。


 そんなことを考えながら私は古い記憶を辿ってみた。


   ♢


 初めてこの子に逢ったのは、確かまだ3歳ぐらいの時だった。

「……お父さん、あの子だあれ?」

「今日から紅音の双子の妹になる、優紀ちゃんだよ。紅音の方がちょっとだけお誕生日が早いから、ちゃんと仲良くするんだよ?」

 小さなアパートの玄関に現れたのは、最近よくお父さんと一緒にいる若い女の人と、私より少し背が高い女の子だった。

 男の子みたいな名前なのに、優紀の見た目はお人形さんみたいに可愛かった。

「わたし、おねえちゃん? になるの? ふたごって、なあに?」

 お父さんの言ってることがちんぷんかんぷんで、私は終始首を傾げていた気がする。

「きょーこおねーさんは?」

 藪から棒に、今度はそんなことを聞いたのを何となく覚えている。

「京子さんは……今日から紅音と優紀のお母さんになるんだよ。ちゃんと言うこと聞くんだよ? いい?」

『紅音ちゃん、よろしくね』

 そう言って、京子さんは私と優紀を優しく抱きしめてくれた。

 優紀も京子さんも温かくて良い匂いがして、その瞬間、なんだかすごく幸せになった。

 あぁ、お母さんがいるってこういうことなんだって、そう思った。


 私は本当のお母さんを見たことがない。正確には、覚えていない。


 お父さんの話だと、私のお母さんは昔から病弱で、私を産んですぐに息を引き取ったらしい。私がお母さんのおなかの中にできてすぐ、お父さんとお母さんは医師から話をされていたのだとか。

 ——もしこの子を産めば、お母さんの身体は限界を迎える。

 子供が無事生まれ、お母さんも無事という可能性は極々わずかなものだと。それでも産みますかと。


 そうしてお母さんとお父さんは、私の命を選んだ。


 でもそれは、本望じゃない。

 本当は両方を望んだのだから。

 私が元気に生まれて、お母さんも無事で、これから三人で温かい家庭を気づいていく。そんなハッピーエンドに賭けた結果、お母さんは死んでしまった。


 突然新しい妹とお母さんができてしばらくが経ち、私は五歳を迎えた。

 そんなある日の夜のこと。

「ねぇ優紀、今日はお姉ちゃんと二人でお風呂に入ろ? いや?」

「……」

 優紀は全然喋らない子だったけど、私が話しかけるといつも小さく笑ってくれた。

「お母さん、今日は優紀と二人だけでお風呂に入りたい。だめ?」

『あら、急にどうしたの?』

 珍しくわがままを言う私に、京子さんは、お母さんは少し驚いていた。

「私お姉ちゃんだから、優紀の髪の毛洗ってあげるの」


 ——「私お姉ちゃんだから」、これを言うのはいつものことだった。


 妹ができたのが余程嬉しかったのか、いつからか口癖になっていたんだと思う。

『ふふ、紅音ってば双子なのにすっかりお姉ちゃんね! 良いけどちゃんと仲良くするのよ? 二人でちゃんと肩まで浸かって、十数えないとだめよ? できる?』

「うん! まかせて! 優紀、おねえちゃんとお風呂いこ!」

「……うん!」


 そうして私と優紀はその日から、よく二人でお風呂に入るようになった。

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