第10話「人を見た目で判断するのはよくないもので」
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それが事実なのか、嘘なのか、そんなことに思考を巡らせたのは本当に一瞬の話だった。
きっと一限目の数学が始まってしまえば、この世で最もと言っていいぐらいに興味もない数式たちにあっけなく埋もれてしまうような。
「なんでこんなこと……」
相当な悪意があるのだろう、チョークを何重にも走らせた形跡があり、奇麗さっぱり消すのは難しいような気がした。
それに、他のクラスや学年からもどんどん生徒が集まっては、入口付近で背伸びをしてまで黒板の内容を捉えようとしている。
——『前々から怖いと思ってたけど、やっぱり』
——『あんなに校則にうるさい癖に、自分が一番ヤバいやつじゃん』
——『あの噂、本当だったんだね』
——『お父さん、無期懲役らしいじゃん』
——『あいつもそのうち掴まりそうだよな。遺伝してるだろ』
——『目つきとか悪いし、犯罪者顔だよな』
聞こえて来るのは、どれも心無い残酷な言葉たち。
その言葉がどれだけ鋭利に研ぎ澄まされたナイフになり得るのか、わかった上で言っているんだろうか。
そして鬼塚の心が、そんな刃を通すことは無い鋼鉄製だとでも、思っているんだろうか。
それとも鬼塚にはその「心」自体、無いとでも言いたいんだろうか。
——違う、違う、違う、全部違う。
そんなのは幻想だ。なにもかも間違いだ。
鬼塚は、優しい女の子だ。
ちょっと不器用だけど、ちゃんとありがとうもごめんさないも言えるんだ。
お菓子作りが大得意で、話したこともない男子のためにクッキーを焼くんだ。
しかも最近、ラノベが好きになったんだ。
人気のないたまごサンドが大好きで、いつも購買部で残ってるそれを嬉しそうに買っていくんだ。
よく見なくても、アニメのメインヒロイン級の美人で、笑ってる時に見える八重歯がとてつもなく可愛んだ。
——何も、これっぽっちも知らないくせに。
腹の底から声を出してそう叫べたのなら、どんなにすっきりしただろう。
平然とスマホを掲げてる、ぱっと見俺なんかより全然イケてそうなあいつらをまとめてぶん殴れたら、どれだけ気持ちよかっただろう。
「……っ!」
結局俺は何もできないまま、こうして黙りこくっているのみで。
目の前で立ち尽くす鬼塚がどんな顔をしているのか、その事実を受け入れる勇気すらなくて。
俺がその場で俯いたままでいると。
「えへへ……ごめんねっ」
鬼塚が、確かに俺に向けてそう言った気がした。
周りに人がいるときは絶対に俺に話しかけてこない鬼塚が、今ここで、俺にそう言った気がした。
それは絶対に勘違いなんかじゃない気がして、俺は顔を上げた。
鬼塚の小さな八重歯が、いつもよりちゃんと見えた。
——違う。
お前はそんな風に笑わない。
笑いたくないときは笑わない。
そんな引き攣った笑顔が、世界で一番似合わない。
俺の知る鬼塚紅音は、そういう女の子なのに。
——ボフンッ! ボフンッ!
突然教室の後ろの方から何かが二つ投げ込まれ、どちらとも鬼塚の頭と背中に命中した。
「きゃっ……! げほっ、げほっ!」
赤や緑、様々な色が混じり合った、濁った色の粉塵が舞い、鬼塚が顔を抑えてせき込む。
投げつけられたそれらは四角い形をしていて、コトンと音を立てて床に転がる。
……黒板消しだ。
同時に、黒板消しが飛んできた方向から嘲笑気味の声が聞こえてくる。
『あれれー風紀委員長さーん、黒板が朝から汚いよー? これじゃウチら授業できなくなーい? ねぇ消してー? 早く消してー?』
見ると、この間鬼塚に胸倉を掴まれていたギャルだった。
机の上に座って足を組み、面白そうに笑っている。
するとその横にいた二人のギャルが、カーディガンのポケットに手を突っ込みながらゆっくりと鬼塚へと歩み寄り、鬼塚を挟み撃ちするように立つ。
ガムを噛んでいるんだろうか、口元は何かを
『ねぇ鬼塚さーん、風紀委員長なのにそんなに汚れてたらさー、ここの風紀乱れるくない? あ、そうだ! いっつも迷惑かけてるからさ、ウチらが奇麗にしてあげるよ!』
不敵な笑みを見せたギャル二人が、そう言って自分たちのバッグから水のような濁った液体の入ったペットボトルを取り出し、キャップを開け……。
——バシャバシャッ、バシャバシャッ!
「んっ……うっ!」
鬼塚の頭や顔、制服に勢いよくかけ始める。
——やめろ、やめろ、もうやめろ。
心の中では何度もそう叫んでいる。
それでも、いまだ俺の体は動いてくれず。
「っ……!」
何度も何度も拳を握り直す。そのたびに、自分の両手の爪が手のひらをえぐるように突き刺さる。
——カランッ。ギャルは空になっていたボトルを雑に投げ捨てる。
『あれー? これそこの川で汲んできた天然水なんだけど、なんかくさーい! ごめーん鬼塚さーん、悪気はなかったんだよー? 美味しいガムあげるから許してほしいなー?』
するとギャル二人は、あろうことか鬼塚に向かって噛んでいたガムを吐き捨てた。
「ひゃっ……!」
片方は制服に、もう片方は鬼塚の赤いロングヘアに絡みついて。
『ごっめーん! 髪の毛についちゃったー!』
言いながら、一人は鬼塚の髪の毛を強く引っ張り。
「きゃっ! 痛いっ!」
『何その声ー? いっつもそんな可愛い声出さないくせに、マジウケんだけど! ちょっと待っててねー、今取ったげるからねー?』
もう一人はバッグから、今度はハサミを取り出した。
「……や、やめて! 離してっ! 離しなさい! ——いやっ!」
——ガツンッ!
抵抗するも、鬼塚はそのまま後頭部を掴まれ、教卓に強く押し付けられる。
『動くなっつーの! ガムとってやるからさ! はは! はははっ!』
笑いながら、ギャルは鬼塚の髪の毛を引っ張り、ハサミの刃を大きく開いて近づける。
——やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ……やめろ‼
何よりも強く、そう願った——、その瞬間だった。
ドシンッ!
「——いってぇ!」
突然背後から強い力でなぎ倒され、俺はその場でみっともなく尻もちを着く。
一体何が起こったのかと、俺は顔を上げた。
騒ぎを聞きつけた教員が駆けつけたのかと、一瞬だけそう思った。
でもそれは、ほんの一瞬に過ぎなかった。
その人間が教師じゃないというのは、その場にいた誰もが一瞬で理解できた。
バシンッ! ドカンッ!
『きゃっ!』
『いった!』
今まさに鬼塚の髪の毛を切ろうとしていた二人のギャルを容赦なく蹴りとばし、殴り飛ばしたのは、その二人と同じような見た目の、金髪ポニーテールのギャルで。
「いや、やり過ぎっしょ。あんたら」
そう言い捨てるなり、足元に落ちていた黒板消しを拾い上げ、悠長に黒板の文字を消し始めたのは、二年A組の
「やっば、マジウケんだけど! ちょーボロボロじゃん。だいじょぶー?」
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