第9話「そして、事件は起きる」
ピピッ——ガコンッ。
「ん……き、昨日のお返し!」
翌朝。自販機からいちごミルクと思しき小さな缶が取り出され、俺に向かって差し出される。
「お、さんきゅ
今日は反省文なんか書かないからな。
「わ、わかってるわよ。仕方なく見逃してあげる」
うむ、今日も程よいツンツン具合だ。
差し込んだ朝日に照らされ、鬼塚の赤いロングヘアが眩しく反射する。
小さな頭が動くたびにふんわりと甘い匂いがして、俺はなんだか安心した気分になる。
プシュッ——、ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ……。
「……後でトイレ行きたくなっても知らないわよ?」
受け取ってすぐにいちごミルクを一気飲みした俺を見て、鬼塚が心配そうに言う。
「そん時は授業すっぽかしてトイレで時間潰すよ」
なんて冗談で返すと、すかさず鬼塚が。
「こ、校則違反!」
ムッとした表情で、俺の胸倉に掴みかかってくる。
鬼塚監禁事件からまだ一週間が経つか経たないかというぐらいだが、自然とこういうやり取りが交わせるぐらいに親しくなれたのは、それはそれで嬉しい気がして。
「はは、ごめんって」
「な、なによ。笑ってんじゃないわよ、ふんっ」
ツンと口を尖らせながらも、その表情はどこか和らげで、
そうこうしているうちに、次第に自販機エリアを行き交う生徒の数が増えていることに気づく。
俺はポケットからスマホを取り出し、暗転した画面に浮かび上がる時刻を確認する。
——8時ジャスト。そろそろ
スマホをしまおうとしたその時、一通のメッセージが画面に表示された。
——ピロリンッ。『おーい、遅刻か?(笑)』
差出人は
どうやら教室に俺の姿が無いのが気になったらしい。
——ピピピッ。『鬼塚と自販機』
フリック入力でそう打ち込み、メッセージを送信しようとすると。
「じーっ」
「……? どうした?」
壁によりかかっていた鬼塚がいつの間にかすぐ近くにいて、まじまじと俺のスマホを見つめている。
自分の名前を入力されているのが気になったのだろうか。
「あぁ、海斗からメッセージ来てたから返しただけだよ。『今鬼塚と自販機にいる』って伝えたんだ」
また変な被害妄想を膨らまされキーキー
しかしながら、鬼塚が気になっていたのはそんなことではなかったらしく。
「……そこを押すと
文章を打ちこむ白枠の横に表示された、紙飛行機のマークをを指しながら鬼塚が聞いてくる。
「……そうだけど。もしかしてお前はこのアプリ使わない派なのか? メールアドレス派?」
今時滅多にいないな、と思いながらも、俺が聞き返すと。
「アプリも何も、私スマホ持ってないもん」
「は?」
「だって使わないし。そもそも勉強には不必要じゃない、そんなもの。みんなこれで写真を撮ったりゲームしたりするだけでしょ? 家だって近いから一人で帰れるし、私は特にいらないわね」
「……まじか」
なんと鬼塚はそもそもスマホを持っていないらしい。
鬼塚らしいと言えばそうなのだが、普通高校生にもなれば、みんな当たり前のように所持しているものじゃないだろうか。
親御さんは心配しないのか?
唖然としたままの俺を見て、鬼塚が眉を
「なによ。文句ある?」
「いや無いけど……」
そんなこんなで、俺たちは教室に戻った。
鬼塚がキョドらずに俺と話せるようになり、一カ月程が経ったある日の昼休み。
二年棟の廊下には中間考査の順位が張り出され、各々がその結果を見納めようと人だかりができていた。
テストは赤点じゃなければいいや、というぐらいの意識しかない俺と海斗は、遠目から確認しようとする程度でその場を通過する。
「赤点はなかったし、どうせ今回も中の下ぐらいだろ。
「俺も同じぐらいだと思うぜ。少なくともこの人混みを押しのけてわざわざ見に行くような順位ではないな」
俺と海斗は全ての教科が半分ぐらいの点数を取れればそれでいいという認識なので、テスト期間中であろうが時間を見つけてはアニメを漁るしゲームもする。日々の課題は一応ちゃんとこなすし、その辺の評価も特段良くもなく悪くもなくといった塩梅だ。
「じゃぁいっか」、と案の定興味が無さそうに吐き捨てる海斗だったが、突然ぴたりとその足を止めた。
「……どうした?」
「樹、あれ見てみろ。『総合順位一位、
言われた通り、俺は鬼塚の名前の下、つまり総合順位第二位の欄を見上げる。
「え⁉ ……これは飛んだ大どんでん返しだな……」
何かの間違いじゃないかと思った。
一学期中間考査、総合順位第二位——、そこに書かれていた名前は「
最近あの鬼塚もお熱な「
「剣崎って普段あんなだけど、めちゃくちゃ頭良いんだな……」
意外も意外で、俺の口から出た感想はそんなものだった。
「そりゃぁあの『
鬼塚が入学以来万年成績トップなのは知っていたが、まさかそれと張り合っていたのがあの剣崎だったとは。
考えていることが同じなのか、海斗はどこか楽しそうな表情を浮かべながら俺に言う。
「ギャルVS優等生、これはより一層面白味が出て来るな……」
「いやいや面白がってどうする」
最近は剣崎達も鬼塚の目を盗むのが上手くなってきたようで、以前のような机蹴っ飛ばし事件は起きていない。
普通に心臓に悪いし、あの空気の中で食う昼飯なんかは
教室に入ると、いつも通り窓際の席でたまごサンドを
——ぷいっ。
といった感じで、俺が海斗といるときは絶対に近づいてこようとしないのはまぁ相変わらずなのだが。
顔が小さいせいなのか、食事中の鬼塚は一口が小さいために、たった一パックのたまごサンドを食べ終わるまでにやけに時間がかかる。
だからだいたい昼休みは自分の席から動かないのだ。
食事中と言えど、やっぱりその顔立ちは
——ギロリッ。ジリッ。
さり気なくガン見していたつもりだったが、どうやらバレていたらしい。
鋭い目つきを俺の方に向けながら、
これは「こっち見んな、キモイ、死ね」、という意味である。
俺が苦笑いしていると、海斗がさっきの話の続きを始める。
「長いこといがみあってるわけだし、一周回って卒業するころにはめっちゃ仲良くなってたりしたら激アツだよな、あの二人」
そんな少年漫画みたいな展開、果たしてあり得るんだろうか。
「たかだか高校三年間の付き合いだろ? 二年の今でアレなんだから、ないない。去年はどうだったのか知らないけど」
諦めた口調で俺がそう返すと、海斗の口から思いもよらない事実が告げられる。
「あれ、樹知らねーの? 俺も噂で聞いた話なんだけどさ、あの二人、紅鬼と剣崎って腐れ縁らしいぞ。言うなれば俺らみたいな。理由はよくわからんが、小中高ずっと一緒らしい。——どうだ? 燃えるだろ?」
……初耳なんだが。
「まじかそれは……めちゃくちゃ燃えるな!」
少し興奮気味に、俺は小さくガッツポーズを決める。
あの二人がまさかそこまで長い付き合いだったなんて。ミリも知らなかった。
ということは中学も変わらずだったのか。そう考えると、ついため息が出てしまった。
でもまぁそういうことなら、鬼塚に直接聞いてみよう。
放課後。俺は鬼塚と一緒に、中庭の花壇に咲く花たちに水をやっていた。どうやらこれも風紀員としての仕事らしい。
最近はこうやって容赦なくこき使われることも多いのだ。
俺が話しかけに行くと「ちょうどいいから来なさい」、と前より幾分かソフトに胸倉を掴まれ、その日の仕事がある現場まで連行されることが少なくない。
こうして一緒にいる相手が鬼塚でなければ、「あの二人付き合ってるのかな?」みたいな噂がひそかに立ち始めるのが学園生活の
しかし相手はあの風紀委員長「紅鬼」こと鬼塚紅音。毎度俺が一緒にいるたびに、「あいつまた何かやらかしたのか」、だの「
「
他人に頼んでおいてなんだその言い方は。と今日も心の中で反抗する。
「うっす。以後、気を付けます」
謝罪した後で、俺は鬼塚に昼間知った事実について聞いてみる。
「そういえばさ、噂で聞いたんだけど、鬼塚と剣崎って付き合い長いだろ? 腐れ縁的な」
鬼塚の不快指数を上げかねないのでは、となんとなく心配していたが、意外にもあっさりとした返答が来る。
「そうね。だから何?」
普通の人間であればこの切り返しがけんか腰だと感じるのだと思うが、鬼塚の場合これは平常運転なので、俺は特に気にもせず続ける。
「中学の時も仲悪かったのか? というか仲いい時期とかあったのか?」
鬼塚はその場にしゃがみ、奇麗に咲き並んだツツジをぼんやりと眺めながら、一言だけ。
「……うん」
それは俺が聞いたどっちの質問に対しても、なのか。
それともどちらかは聞いていなかったことにして、片方にだけ答えた「うん」なのか。
ツツジの花弁に一匹の小さなミツバチが止まり、鬼塚はそれをじっと見つめたまま、それ以上なにも言おうとしない。
……これは地雷を踏んでしまったパターンだろうか。
空へ飛び立っていくミツバチをぼうっと見送ったあと、ゆっくりと立ち上がり。
「……私が間違ってるんだよね、やっぱり」
そう口にした鬼塚の表情は、俺がまだ見たことのないものだった。
——「そんなことない」?
——「なにがだ」?
どう返したらいいのか、俺が思考を巡らせていると。
「なんてねっ——。今日もありがとね、影山君」
そう言って、鬼塚は最後に小さく笑って見せた。
それから何日か経ったある日の朝。
珍しく寝坊してしまい、俺はネクタイも締めずに家を飛び出した。
鬼塚監禁事件の時と同じぐらいの立ちこぎ全開モードで、自転車を走らせていたところだった。
——ヴー、ヴー、ヴー、ヴー……。
ポケットに入れたスマホのバイブレーションが、今日は異様に長かった。
いつもはこの時間には学校にいるわけだし、心配した海斗が電話でもくれているんだろうか。
そんな予想をしながら、スマホを取り出して画面を確認した。
——海斗だ。スライドし、渋々電話に出るなり言い訳を試みる。
「あーわりぃ。昨日教えてもらった動画が思いのほかおもしろくて——」
「何やってんだよ樹! 早く来てくれ! 紅鬼がヤバいんだ!」
珍しく取り乱した様子で、海斗が俺の言い分を遮った。
——ただ事じゃない何かが起きている。それを何となく察した俺が、聞き返す。
「……鬼塚がどうしたって?」
すると海斗は、やっぱり慌てた様子で。
「い、いいから早く来い! ……俺も何が何だかわからん! わからんけど!」
それじゃぁ俺だってわからん。
でもまぁ、どのみち急がないとなのは確かだ。
ペダルにかけた足に全体重を乗せ、俺は学校へと急いだ。
学校に着いてすぐ。教室に入るまでしなくても、今とんでもない事態が起きているということだけは容易に見て取れた。
二年A組の入り口には無数の人だかりができていて、俺はその人だかりを強引に押しのけて中へと入る。
真っ先に目に入ったのは、黒板の前で
「な、なんだよ……これ」
鬼塚が見つめていたのは、黒板いっぱいに書かれた無数の言葉だった。
『死ね』、『消えろ』、『調子乗んな』、『風紀委員なんかいらない』、などなど。
そして真ん中に一番大きく書かれていた文字に、俺は思わず目を疑った。
【鬼塚紅音は、人殺しの娘】
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