#3

 重い雲が空を支配し、太陽は顔を見せない。雨はもう降っていないのに、灰色のアスファルトに溜まった雨水は履き潰したスニーカーの底を濡らしていた。ビルの日陰になる路地裏なら、尚更だ。

 少年は死角となるはずの廃棄物の山に身を潜め、息を止めた。そうしなければ、自らの命が危ういのだ。

 親の言いつけを破ってこんな場所に来た罰なのだろうか。少年は静かに涙を流し、自らの行動を後悔した。理由を付けなければ、押し付けられた理不尽を納得できないのだ。


 金切り音めいた咆哮が響き、少年は身を縮めた。近づいてきている“それ”は、確実に自らを追っている。見つかるのは時間の問題なのだ。

 逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ、死ぬ。頭ではわかっているのに、身体が恐怖で動かないのだ。


 大山が鳴動するように、廃棄物の山が吹き飛んだ。少年の視界に映る空の色は、やはり曇っている。

 終わりだ。少年は恐怖で目を見開き、追跡者の正体をその目で目撃した。


 それは、巨大な猛禽だった。アスファルトに鉤爪を突き刺し、翼を畳んで静止している。表情はくちばしと一体化した非生物的な仮面によって読み取れないが、決して穏やかなものではないだろう。防犯ブザーのように断続的なさえずりを繰り返し、しきりに首を動かしていた。

 動物のようだが、明らかな異物感もある。例えるなら、それは怪物ミュータントだった。

 “それ”は標的を見つけると、嘴をカチカチと鳴らした。歯車が噛み合うような機械的な音を聞き、少年は自らの末路を察した。今から、ついばまれるのだ。


 鋭利な嘴を槍のように伸ばし、“それ”は少年の心臓を貫かんとした!


『——ラン様、イーグルのディークノアです!』

「わかってるよ……!」


 数秒後、少年は自らの命が辛うじて繋ぎ止められた事に気付く。胸先数センチまで迫っていた嘴が、根元から切断されているのだ!

 バランスを崩し、怪物——ディークノアは嘴から瘴気を漏らしながら鉤爪でたたらを踏む。その頭上を跳躍する緑髪の青年は、携えた銀の長剣を閃かせた!


「早く逃げろ、これは僕の獲物だ……!!」


 少年は廃棄物の山を掻き分け、なんとか路地裏を抜ける。背後で響く喧騒には耳を塞ぎ、ただ元いた場所に戻るのだ。これは悪い夢だ、と繰り返し、日常へ帰っていくのだ。


 一方のフィリップは、非常階段の手摺りを足掛かりにして高所を目指していた。敵の追跡を掻い潜り、優位の取れる場所で打ち倒す。巨大な怪物に対処するには、それが最善手だった。

 赤銅色に錆びた非常階段の隙間を縫い、非生物的な眼光が彼を刺す。暴走状態のディークノアは、元が人間だとは思えないほど本能に基づいた行動を取る。“素質”のない者が軽率に契約を行えば、こうなるのだ。


 廃ビルの屋上は今にも崩れそうなほど脆く、鷲めいた怪物は滞空したまま眼下のフィリップを見据えていた。吹き荒れる風がその翼を撫で、抜け落ちた羽が季節外れの雪のようにはらりと舞う。


 その刹那、西部劇のガンマンが行う早撃ちめいて二者は静止していた。雲が流れる速度は緩やかになり、風が凪ぐ。その瞬間だった。


 先手を取ったのは怪物ディークノアだ。翼を靡かせ、高所から蹴撃を見舞う! 尖った鉤爪で獲物の身体を突き刺す、必殺技になりうる攻撃だ!

 蹴り抜いた。脚に掛かる感触を感知し、怪物はオーバーランする身体にブレーキを掛けた。あとは背後を確認し、悠然と飛び去るだけだ。


「……その程度?」


 白刃が煌めき、巨大な質量は崩れ落ちる。血の代わりに瘴気を漏らしながら、怪物は攻撃の正体を探った。捉えた、はずなのに。


 結論から言えば、攻撃は命中していた。フィリップの身体ではなく、彼が掲げている剣に。彼は剣を鉤爪に引っ掛け、攻撃をレールのように沿わせることで回避したのだ。


「弱いな、やっぱり」


 身動きが取れない怪物に介錯を行うように、フィリップはゆっくりと歩を進める。そのまま剣を構え、逆袈裟斬りの一閃と共に仮面を打ち砕いた!

 瘴気を噴出しながら、怪物はその身体を崩壊させつつあった。表層が剥がれ、核となった人間が露わになる。ボロボロの衣服から推察するに、この一帯に住む者だ。


 ディークノア。フィリップの従者であるソルグのように常人には見えない生物である“ディーク”がヒトと契約することによって生まれる生命体だ。彼らは宿主の願いを叶えることで自我や肉体の主導権を奪うのだ。

 そういった点では、フィリップと先程の怪物は同類である。ディークを視認することができれば彼らを御しきれるのだが、素質のない人間はあのように怪物と化すのだ。

 フィリップは、そういったディークノアを狩ることを趣味としていた。自らの強さを証明できる、最適な機会だからだ。それは弱かった自分を捨て、新天地で生き抜くための儀礼めいていた。


「……騒がしかったな。用事は終わったのか?」

「関係ないだろ……?」


 ビニールシートに座ったまま、家主である老人は笑う。ディークノアの正体は掴んでいないが、付近の喧騒に何かが関わっていることは把握しているのだ。それを解決しているのが、フィリップであることも。

 階下の広場は人でごった返しているので、フィリップはあまり口を開かない。ビニールシートに置かれた冷凍ピザを受け取ると、自らの部屋に戻ろうとした。


「待てよ。これもタダで買ってるわけじゃないんだ。そろそろ払ってもらうぞ、代金……」

「気が向いたら払うよ……」

「来て数週間で随分ふてぶてしくなったな。そんな理屈、ここでしか通用しねぇよ……」


 老人は何度か咳き込むと、喉を潤すようにカップ酒を呷った。眉根を寄せるフィリップを無視し、空き缶に入る小銭を確認して順番に食料を手渡す。

 彼は仕方なく懐を探るが、小銭の類はなかった。自発的に金を持とうとしないので、当然ではある。諦めてパッケージを手放そうとした彼に、家主が囁く。


「悪いが、ひとつ頼まれちゃくれねぇか? 簡単な使いだ。それさえ手伝ってくれれば、いくらでも分けてやるよ」

「……最初からそれが狙いだったの?」

「まぁな。アンタ、強いんだろ?」


    *    *    *


 それから数日が経った。月光が差す部屋は薄暗いが、天井の雨漏りは減っている。梅雨の時期を脱したこともあり、彼は開け放した窓から吹く風を浴びながら寝息を立てていた。彼の眠りを妨げる何かの存在を、肌身で感じながら。


「おい、起きろオラァ!!」


 ドアが蹴破られ、雪崩れ込んだのは体格の良い男だった。数人の取り巻きを連れ、高圧的な態度を隠そうともしない。

 フィリップは、その存在を見たことがあった。同じ廃ビルの別階に住んでいた、粗暴なホームレスの一人だ。あの老人が食料を売るときも態度が大きく、なるべく関わり合いになりたくない相手だと思っていた存在である。


「家賃徴収の時間だ。まだ払ってない奴リストにしっかり入ってんだよ。金を払うか、出ていくか、選べや……」

「そういうのはあの爺さんに一任してるんだけど。まだ家賃は払わなくていいってこの前言われたよ……?」

「……ジジイの頃はな。だが、ルールが変わった。あのジジイは今、行方不明だ。逃げたんだよ。だから、俺が代わってやる。こういうのは早い者勝ちなんだよ」

「……なるほど」


 老人の言った“使い”の意味を理解し、フィリップは気怠げに立ち上がった。


「もし、従わなかったら?」

「殴り倒して追い出す。住むやつが居なくなれば、更地にして売り払っちまえばいいからな」

「……シンプルでいいね。やってみなよ」


 粗暴な男は目配せをし、配下の屈強な男たちが臨戦態勢を取った。どれもフィリップより体格の優れた、どこで栄養摂取したのか疑問に思うほど筋骨隆々な肉体を有している。


「本当にホームレス?」

「……ビビってんのか? オイ、やれッ!!」


 彼らは金属バットや角材を構え、フィリップに向けて振りかぶった。


    *    *    *


 楽な相手だった。屋上で倒れている敵を見下ろし、フィリップは夜風を浴びる。

 その夜は月が綺麗だった。蒼い満月の光は眩しく、アザだらけの粗暴男の顔をサーチライトめいて照らしている。


『やりましたね、ラン様。あんな危害を加える連中には手痛い灸になったでしょう。当然の報いだ!』

「……まぁね」


 剣を使うつもりはなかった。拳だけでどうとでもなる相手だったのだ。フィリップはそう考えていた。

 それは慢心ではなく、事実である。素手で金属バットを折り、角材を砕いた。後は優位の取れる場所で戦うだけだ。彼にとっては事実でも問題なかったのだが、床を汚すのは避けたかったのだ。


 どれだけ格下の相手でも、戦えば空腹を感じるものだ。彼はバルコニーの隅に置いたままの冷凍ビザを開封し、黙々と咀嚼する。

 相変わらず、冷たいピザだ。初めて食べたときは家主が温めたものを食べていたが、それ以降は自然解凍したものをそのまま食べていたのである。タバスコを掛けて味を変え、黙々と食す。それは、既に栄養補給へ変わっていた。


『俺が居なくなったら、自由に暴れ回ってでも住居を勝ち取れ』


 家主と交わした最後の言葉は、一見するとフィリップにしかメリットが無いように思える依頼だった。だが、こうして家主が消えてすぐに主導権を握ろうとする者たちが現れたことで、彼に頼んだ理由も何となく察しがついたのだ。

 家主は、フィリップがここに住み続けることを望んでいたのだろう。


「じゃあ、なんで居なくなったんだよ……」


 孤独に生きるためなら、他者の存在はどうでも良いはずだった。それでも、今日食べるピザは妙に味気ないのだ。

 生地にタバスコを染み込ませ、黙々と食べ続ける。小さな円はカットされることのないまま彼の喉を通り、腹を満たしていった。


「くたばる時は独り、か」


 先に願いを叶えられたのかもしれない。ある種の共同体を抜け出し、老人は独りで西へ向かったのかも。だとすれば、勝ち逃げだ。彼は憮然とした表情を取る。


 満月に照らされ、摩天楼は落ち着いたムードを醸し出しているようだった。フィリップはコートを羽織り、食後の運動ができる対象を探す。


『ラン様、ディークノアの気配です!』

「……行こうか」

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