#2

 案内された廃ビルの一室は薄暗く、剥き出しの壁面には水滴が伝っていた。ぽたぽたと天井から雨が滴り、割れたタイル床の溝をしとどに濡らす。辛うじて風雨を凌げるだけの、簡素な穴蔵である。

 フィリップは湿った埃の匂いに眉根を寄せ、それなりに広い部屋の様子をまじまじと観察する。

 ベランダに繫がる大きな窓はガラスが外されており、厚い雲の下で輝く街の風景を鮮明に視界へ届けていた。電気は辛うじて通っているようで、周辺の建物から養分を吸い取るようにケーブルが床を這っている。


「アンタの部屋だ。手持ちの金は礼金にするとして、それでも数ヶ月くらいはタダで貸してやるよ。メシは、そうだな……。今日は奢ってやるよ、待ってな」


 老人は何度か咳き込むと、咥えていたシケモクをゴミ箱へ投げ入れる。愛煙家なのか、歯はあまり綺麗とは言えなかった。

 フィリップは何も言わず、なるべく濡れていないタイル床へ腰掛けた。想像以上に雨に濡れた疲労が大きく、断る気が起きない。それに、今はとても空腹だった。


『あの、ラン様……? やっぱり、貴方はこんな場所に住むべきじゃないですよ。ちゃんとした住居を探して、もっと良い生活をするべき人なのに……』

「うるさいよ、ソルグ。どこにどう住むかは僕が決めることだ……。それに、どっちにしろ一時的な間借りだし」


 少なくとも、あの家よりはマシだ。彼はそう考え、壁に取り付けられたスイッチを無作為に押した。吊り下げられたタングステン灯が点き、部屋の中央を照らす。どこにも監視がないというのは、それだけで幸せなことなのだと実感していた。


「できたぞ。冷めないうちに食えよ」


 湯気を放つプラスチックの容器を片手に、例の家主の老人が部屋に入ってくる。彼はなるべく濡れていない床にフィリップの分の食事を置き、同じものを自らの近くに置いた。タバスコの小瓶を振り、舌を鳴らす。


「廃棄寸前だったから、足が早いんだ。早めに食っちまうぞ」


 それは、チーズとサラミが乗った小さなビザだった。加熱調理で溶けたチーズに臭みはなく、フィリップは健康に害がないと判断する。


「手でちぎって食うんだよ。熱くても我慢して、な!」


 テーブルマナーに気を遣わずに食事をする経験など、フィリップにはなかった。そわそわと生地を掴み、ちぎり取る。それは指先でじわりと温かく、今にも滴り落ちそうなチーズが食欲を刺激する。

 暴力的な味だった。濃厚なチーズも、肉厚なサラミも、彼が今まで食してきたような繊細さはない。本能に直接訴えかけてくるようなジャンク・フードの味わいに気圧されそうになりながら、彼はゆっくりと咀嚼を続ける。背徳的で、自由を感じる食事は初めてだった。


「美味いか? 最近の冷凍食品は凄いよなぁ。特にタマテ社が出してるやつは安くて良いんだよ……。貧民の味方だよ、まったく」


 老人は生地にタバスコを染み込ませ、一口で口内に押し込んだ。その様子をフィリップが呆然と眺めているのに気付くと、彼に小瓶を投げ渡す。


「試してみるか? これも新しい刺激ってやつだ」


 フィリップは言われた通りにタバスコを振りかけ、一気に口に運ぶ。丁寧な動きだと舐められると思い、あえて豪快なやり方を選んだのだ。

 舌の上で広がる刺激は、かえって心地よかった。汗を掻くことはなかったが、目が醒めるような辛味と特有の酸味が口内に広がる。癖になる味だ。

 黙々とピザを咀嚼するフィリップを眺め、老人はニヤニヤと笑った。


「お前がどういう事情でここに来たかは聞かない。裏路地の奴らなんて全員やましい事やってんだ。わざわざ掘り返すなんて事しねぇよ。だから、勝手に住め!」

「……他の階に人は住んでるの?」

「まぁ、俺が知ってる限りだと十何人かは住んでるな。別に挨拶とかはしなくていいだろ。勝手に住んで、勝手に出ていくからな」

「……そんな適当でいいの?」

「問題ないさ。俺も適当に住んでる身だ!」


 老人は豪快に笑った。聞けば、彼はこの一角の管理を委任されているエリア長的な存在だが、トップは他にいるというのだ。


「ガラクタ街、知ってるか?」


 この街における再開発の網を逃れた廃ビルや廃墟の中には、路上生活をしていた人々が隠れ住む地域があるという。表の法律は通用せず、犯罪の温床になっているとも噂されている“ガラクタ街”。その一角であるこのビルも、管理者が放置したのをいい事に勝手に住み着いたらしい。


「表通りの喧騒、見ただろ? 広告だらけの街が守るのは、金がある消費者だけだ。俺らみたいなゴミは最初から勘定に入れられてないんだよ。だから、俺らは自分で自分を守るんだ」


 フィリップは俯き、思考を加速させた。他者の干渉を受けずに独りで生きるには、ここは最適かもしれない。金を稼がなくても生活でき、誰も干渉することがない。彼の思う“自由”がそこにあった。


「住むよ、ここに。独りで生きていきたいんだ。だから、ちょうど良い」

「……そうか。アンタは若いんだ。好きにしな」


 老人は静かに息を吐き、目を閉じた。浅黒い肌に刻まれた皺は深く、生きてきた年季の長さを感じさせる。


「人間、くたばる時は誰しも独りだがな……」


 しみじみと語る男の言葉の意味を、その時のフィリップが理解することはなかった。

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