人間界に舞い降りし悪魔2

 ――加藤――

 どこか遠くから名前を呼ばれている。

 ――加藤信弘――


 加藤は自分を呼ぶ声が誰のものなのか全くわからなかった。

 もしかすると黄泉の世界から死んだ祖父母が、自分を迎えに来たのかもしれない。彼は冷えた身体でそう思った。


 そこまで考えて加藤は謎の声に疑いを持った。祖父母が自分のことを苗字をつけて呼ぶだろうか?


 ――加藤信弘、起きなさい――

 声質もあの優しかった祖父母どちらのものでもない。

 ――加藤信弘、勝手に死んだりしたら許さないわよ――

 聞き覚えのない女の声だ。誰なんだ、誰なんだ。


「うわああああ」


 恐怖から逃れたい思いで叫んで加藤は跳ね起きた。


「あんた、ビビりすぎよ」


 傍らから先程と同じ女の声が聞こえ、恐々とした目を振り向けた。

 加藤の目に、座り込んで気怠そうに頬杖をつく少女の姿が映る。


「誰だ……」


 呆然と加藤が尋ねると、女は片頬を上げて笑った。


「悪魔よ」


 女の答えに開いた口が塞がらない。

 加藤が呆気に取られているのも構わず、女は自己紹介を続ける。


「メフィストフェレスの娘よ」

「メフィストフェレス?」

「知ってるでしょ?」


 加藤は状況を呑み込めないまま、女の言う名を記憶に探した。


「あれか、よくゲームとかで道化師の姿をしたやつだろ」

「道化師? ははは笑わせてくれるね」

「違うのか?」

「違うわよ」


 真面目な顔になって否定した。

 加藤にはなぜ女が唐突に自分に話しかけ、訳の分からない人物のことを質されているのか、理解に困った。

 女が人差し指を立てて講釈を垂れようとしていたので、機先を制して尋ねた。


「メフィストフェレスとかはどうでもいい。そもそもお前は何者なんだ?」

「私? 何者だと思う?」

「わからないから聞いたんだけどなあ」

「当てずっぽうでいいから答えてみなさい」

 ニヤリと質の悪い笑みを浮かべて、女は言った。

 回りくどいことをせずに教えろよ、と加藤は腹が立ったが、初対面相手に怒鳴るのは気が引けて瞬時に思いついた答えを言う。


「家出少女」

「凡俗な答えね」


 答えさせといて何が凡俗だ、と加藤はむっとする。

 加藤の反応を楽しむように女は笑う。


「答え、教えてあげるよ。悪魔」

「なんて言ってんだ?」


 彼女の言ったことが聞き取れず、加藤は尋ね返す。


「悪魔よ、悪魔」

「悪魔だとお」


 加藤は思わず失笑してしまう。彼女を思春期の厨二病と認識しなおした。

 自分が悪魔だと信じていない彼の笑いが癪に障って、女は表情を素に戻しておもむろに立ち上がった。


「信じてないわね」

「信じるわけないだろ。四十近いおじさんが非現実的な存在を確証なしで信じていたら、世間体が悪いだろ」


 加藤の憫笑に女は意外そうに目を見開く。


「あんたみたいな無気力な人間でも、世間体って気にするのね」

「……どういう意味だ?」


 女の嘲るような言い方に、加藤は怒気を含んで訊き返す。


「そのままの意味よ。女性との縁は皆無で独身、誇れる特技や生きがいにできる遊楽もない。それに会社と家を往復する毎日、会社は割に合わないブラック。無気力にならざるを得ないわよ、こんな過酷な生活じゃね」


 つらつらと加藤の境遇を吐露する。

 加藤には言い返す気も虚飾する気も起らなかった。女の言っていることは全て反論する余地のない事実なのである。ただし他に確認したいことが増えた。


「初めて会ったお前が、なんで俺の事をそんなに知ってるんだよ?」

「メフィストフェレスの娘メフィリアフェレス。人知を超えた存在の悪魔だからよ。悪魔は人類のあらゆる事柄を解している」


 仰々しい台詞を吐くと同時に女の肩甲骨辺りから、夜闇に同化するような黒い翼が生え出る。

 目の前の彼女の禍々しき姿に、加藤は脚が路面に突き立ったように動けない。


「あんたの死後の魂と引き換えに、救済を授けてあげるわ」

「なぜ得体の知れないお前に、魂を売るなんてできるか」


 加藤は強気に拒否する。

 メフィリアフェレスは不敵な笑みを刷き、片手を差し伸べる。


「所詮死後の魂よ。あんたみたいな無気力な人間の魂は浮かばれずにその場で果てるだけ。それならいっそのこと、悪魔に売ってでも人生やり直そうじゃないの」

「人生をやり直すだと、そんなことが出来るはずがないだろ」


 人生をやり直す。加藤にとって願ってもない交換条件である。だが人は重ねた星霜を取り払うことはできないのである。


「契約成立後の救済は保証するわ。私はあんたを人間界の成功者にだってしてあげられる」


 疑心たっぷりの加藤に、メフィリアフェレスは追い打ちをかける。

 加藤は迷っていた。目の前の悪魔の言っていることは嘘ではない、根拠はないが微かに信じる気持ちが湧いてきたのだ。

 加藤は信心が揺れながらも決断できないでいると、突然に悪魔は差し出していた手を頭の後ろに回してやる気なさそうに髪を撫でた。


「現代日本人っていうのは面倒ね」

「は?」


 脈絡のないことを言い出され、加藤は毒気を抜かれた。

 悪魔は友人と会しているように、愚痴を垂れる。


「だって現代日本人は牧師とか僧侶にさえ信仰心を示さないのに、神とか天使とか悪魔を崇める心なんてこれっぽっちもないのよ。それどことか露出度高の二次元キャラに成り下がらせる始末」

「おいおい、本筋から逸れてるぞ」

 加藤が話を戻そうとすると、きっと怒った目を向ける。


「あんただって腐敗した現代日本文化を享受してるクチでしょ」

「俺が若かった時はまだ……」

「言い訳するな。日本の男なら潔く認めなさい」


 反論すると押し問答になりかねないと察して、加藤は言われるに任せることにした。

 勢いに乗った悪魔の口は言いたい放題に加藤のネガティブ要素をあげつらう。 

 ボロクソ詰られた加藤は自分の惨めさを改めて痛感し、気を落とした。


「どう? 自分の魂に一片の価値もないことがわかったでしょ?」

「まあな」

「それなら私に魂売っちゃってよ」

「しかしだな、やっぱり悪魔に売るのは恐い」


 決心の固まらない加藤に、悪魔は業を煮やす。


「説得が面倒になってきたから、力ずくで奪ってもいいかな」

「なんだとっ」


 悩んでいる加藤は聞き捨てならない台詞にとっさに顔を上げ警戒する。

 だがすでに悪魔は彼の刃渡りの短い刃物でも突き刺せるほど近距離まで迫っていた。悪魔は加藤の背広の襟を掴んで細腕からは想像もできない膂力で引き寄せる。


「くそっ」


 加藤は不良青年に絡まれた時の既視感を覚えて、悪魔の腕から脱け出そうと身をよじったが時すでに遅く、前傾に体勢を崩す。

 倒れると思った刹那、彼より体躯の小さい悪魔の顔が接近する。

 次の瞬間、悪魔は彼と柔らかな唇を重ねた。

 加藤は満身が力を失うような欠乏感が襲われ、欠乏感を知覚する前に意識が遠のき、次には完全に魂を抜かれて、悪魔に抱きとめられた。


「まったく手間かけさせないでよ」


 悪魔は唇を離して加藤の亡骸を路面に放ると、誰になくぼやいた。

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