人間界に舞い降りし悪魔1
オフィスの一席のスタンド照明が、書類の文字と精彩のない加藤信弘の顔を照らしている。
加藤はキーボードのエンターキーを押して、残業の疲労を抜くように長い息を吐いた。
「やっと終わった」
回転チェアの背にもたれて、覇気のない声を出す。
他の社員はすでに退社しており、オフィスには加藤一人しかいない。時間を確かめるため背広の袖をまくり、腕時計を見る。時刻は十時を超えていた。
「ブラックだな」
今日もまた帰宅して寝るだけの時間しかないことに会社を謗った。
とはいえ会社のパワハラ上司には直訴できないのが、現実である。
一人で悪態をついていても身体は休まらないので、机上の書類の束を鞄に詰めて彼は重い足取りで会社を出た。
夜でもネオンの光が煌々と明るい繁華街を精気のない面持ちで歩き、駅へと向かう。
前を向く気力も無くなっていて、ネオンの色によって変わる路面に目を落として歩く。
東京の町は様々な人間が狭い繋がりの中で生活を営んでいる。毎日の通勤列車で見かける禿げたオジサン、周囲に無関心で座席に座ってスマホを眺める学生、人波にもみくちゃにされた髪型を直す若い女性会社員などなど、すし詰めの電車の中でも他人に不干渉だ。
自分もその一人だと思うと加藤は切ない気持ちを感じ得ない。ただでさえ繋がりの少ない社会で、自分は孤立している。
遠く住んでいる両親以外に親類と呼べる人はいないし、三十八にもなって未だ独身だ。会社にも気の合う同僚がいない。
学生時代から自分は独りなのだと、加藤は痛感した。
もっと学生の時に周りと関わり合いを持つべきだった。そんな反省したところで、時間が戻ってくることはない。
疲れた頭が彼の思考を沈みがちにし、視野を一層狭くさせている。
そんな時に、彼は誰かと肩がぶつかってしまった。
暗い思考から現実に返ると、彼の目の前に十代後半のいかにも悪そうな金髪の青年が、忌まわしげに睨んできている。
「すみません」
加藤は馴染んだ動きで軽く頭を下げて立ち去ろうとした。
しかし青年が彼の胸倉を掴んで、ぐいと引き寄せた。
「おい、おっさん」
と恫喝して口元を野卑に歪ませる。
「痛いじゃねーか、慰謝料払えよ」
「そんな、突然……」
加藤が当惑して、周囲を見回す。繁華街を歩いていたと思っていたが、知らないうちに人気が少ない区画に入ってしまっていた。薄暗い駐車場や寂れた店舗ばかりが見られる。考え事をしているうちに道を誤ったらしい。
相手の意のままにされる焦りを感じて、加藤は両手を挙げて抵抗しない意を示したが、青年は加藤の弱腰を見てさらに気勢に乗る。
「慰謝料、払えよ」
「待ってください」
「金目の物、全部な」
「とりあえず離してください、お金ならあげますから」
加藤がそう言うと青年は引き寄せる力を緩めた。
少しだけ自由の戻った加藤は急いで鞄を開いた。
その瞬間、青年は再び加藤を強い力で引き寄せて横に押し倒した。
倒れる弾みで鞄が手から離れて、青年の足下に開いたまま落ちる。
「サンキューな、おっさん」
青年は鞄を拾うと鼻で笑った。
加藤が相手を睨みながら手をついて起き上がろうとすると、彼の喉を青年が蹴り上げる。
「不細工な目でこっち見んじゃねーよ!」
ゴホゴホと加藤は身を横たえながらむせんだ。
青年は鞄の中身をまさぐり財布を抜き出す。
竦んで横たわる加藤に唾を吐きかけ鞄を投げ返した。
加藤の表情が投げ返された鞄で隠れる。
「それじゃあな、おっさん」
強奪した財布をデニムパンツのポケットに入れて、残忍な青年は立ち去る。
悪童が立ち去った後、路地に倒れたままの加藤の暗い心に、ふとして諦めに似た想念が湧いてきた。
生きていても不幸を味わうだけだ。
自身の生涯に輝きを見いだせない。どこまでも暗闇が続く。
加藤は改めて自覚した。自分が社会の敗北者であることを。
冷たい路面に横たえている身体が冷えてきた。体温が下がるとともに抑制の利かない眠気が押し寄せてくる。
眠気に任せて加藤は目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます