第4話 銀水亭
あいさつ回りも終わり、半助の指導の下、算盤や帳簿漬けも様になってきて、毎日が充実してきた彦六。だが、もう、さっそく半助おじさんは今日から軽業師と動物曲芸師をつれて地方興行だ。そのあとには力士を連れての地方巡業も控えている。
「悪いな、彦六、俺がいない間のことは、長屋のみんなと大家の福蔵さんによく頼んでおいたから」
「おじさんがいない間、ちょっと出かけてきていいですか?」
「ああ、もちろんだ。若いものがずーっと家にいてもいいことはねえ。でも、どこへ行く? あ、何なら、うまい店やいい店が載っている、[永福関東講]や[江戸買い物一人案内]って本が、大家さんの所にあるそうだぞ」
「いえ、その、この間、菊次郎親方にウナギを持っていきますって言ったので、ちょっとそれを算段しようかと思うんですけど」
「ああ、そうだったね。親方はずっと江戸にいるし、もし本当に持って行ったらそりゃ喜ぶだろうなあ。でもどうやって…」
すると彦六は考えながら言った。
「銀水亭の銀二兄さんのところに行ってみようかと思うんですけど…。あの人なら、この辺でウナギの穫れる場所も知っていると思うんです。私はウナギをとる仕掛けを作るのは得意なんですよ」
「あ、銀二さんの店があったな。銀二さんはいい人だから、きっと力になってくれるさね」
銀水亭の銀二さんは、遠縁のお兄さんで、彦六の一族で、江戸に出てきて成功している一人である。近くで魚料理の専門店をやっている。彦六も多摩川を川船で下り、鮎を届けに年に一回は顔をを出していた。
そして半助おじさんは長屋の人たちに見送られ、元気に旅に出て行った。
埋め立てが進んでいなかった江戸時代の海岸線は今よりずっと内側だった。今の東京駅のすぐそばにはもう海が迫っていた。彦六は長屋から海に向かって少し歩き、緑に囲まれた趣のある水路の脇を歩いて行った。やがて「銀水亭」という大きな看板が見えてくる。
「え、おい、彦六じゃあねえか。今日はどうした。え、半助おじさんと江戸に出たって? そりゃあよかった、まあ、中にへえりな!」
銀二兄さんは、すっかり垢抜けしたいなせな二枚目だった。すぐにおかみさんのお夕さんも出てきて、優しく迎えてくれた。
「まあ、彦六さんなの?、一年見ない間にすっかり大きくなったわねえ」
銀二兄さんが笑って話しかける
「おかげさまで、こっちもそろそろ景気が良くなってきてね。どうだい、半助おじさんの方は? へえそうかい、まずまずみたいだな」
店は開店前でまだ誰もいなかった。
ここは職人や使用人を何人か使っている、敷地もそこそこの広さの繁盛店だった。河口のハゼの天ぷらや手長エビのから揚げ、アナゴの天ぷら、シジミやアサリの汁やウナギのかば焼き、季節でアユやイワナなんかも出す、川魚中心の店だ。
「困ったり、おなかがすいたりしたらいつでもここにきていいのよ。調布のオジサンたちの鮎も、とても評判良くてね。お世話になっているから。それで、今日はどうしたの、さっそく何か困ったことでもあったのかしら」
実は、親方にウナギのかば焼きを食べてもらいたいのだが、ウナギがどこで獲っていいのかもわからないし、料理ができる場所もわからない、知恵を貸してくれと素直に言ってみた。
「はは、お前、ウナギを捕まえるところからやるつもりだったのかい? かば焼きねえ…、ところで、彦六、お前、かば焼き作れるのかい?」
銀二兄さんが訊いてきた。
「はい、見よう見まねですけれど。父や兄の穫ってきた魚を捌いたり、料理したりはよくやっていたんです」
「よし、江戸に出てきたお祝いだ。裏の井戸のところに泥を吐かせたウナギが何匹か桶に入れてある、その中の一番いいやつをお前にやるから、ここで捌いて作ってみな。その間に炭をおこしておいてやるよ」
「え? いいんですか、ちゃんとお金だって…」
「やるって言ったんだから、素直に受け取るもんだぜ。ほい、そこの包丁とまな板を使うといい」
「はい、ありがとうございます」
彦六は裏の井戸のところから、あっという間にウナギをつかみあげ、もう、すぐに店の中に戻ってきた。つかみあげたウナギは、腹の黄色い、文句なしの上物、しかも落としたりせずに、タンとまな板にとめて、すぐに背開きで捌き始めた。銀二は、魚の目利き、扱い、捌き方など、どれも実に見事なことに驚いた。
「調布の家は蒸し機がないもんでこのままひっくり返しながら焼くんですけどいいですか?」
「ああ、それは江戸では関西風って言ってな、かえって難しいんだよ。ほら、炭も赤くなってきたし、串とたれも出しといたから、それを使えばいい」
彦六は、さっと串をうつと、何度もひっくり返しながら、たれをつけ、手際よくかば焼きを仕上げた。
「ご迷惑でなかったら、半助おじさんが出かけてる間ひまなんで、大したことはできないけれど、何かお手伝いに来ますよ」
お夕さんは、その手際の良さがすっかり気に入って、銀二兄さんに言った。
「あら、魚のことは詳しいみたいだし、時々来てもらおうかね、お前さん」
だが、銀二兄さんは、その腕を認めたうえで、何か考えがあるみたいだった。
「残念だが、今うちは人手が足りててね。いざというときは彦六にきっと声をかけるよ。まあ、腹が減ったときは、毎日でも来ていいぜ。ほら、うちで使ってる出前用の入れ物を貸してやるから。ああ、入れ物を返すのはいつでもいい。早く親方のところに持って行ってやりな」
「なんとお礼を言ってよいか、本当にありがとうございました」
彦六はなかなか冷めないという、二重になった特別製の重箱にアツアツのご飯とウナギを詰めて、風呂敷に包むとぺこりとお辞儀をして、トコトコと走り出した。
「あんた、せっかく手伝いに来たいっていうんだから、暇だっていうし断ることはなかったんじゃないの?」
お夕の言葉に銀二は冷静に答えた。
「どうせまたすぐに重箱を返しに来る。もう少し様子を見て、口が堅いようなら…」
「あ、そういうこと? それなら、よっぽどの覚悟がないとね」
その日の夜には、彦六はまた銀水亭に戻ってきた。店の裏でまかないの夕食をご馳走してもらい、少しの間くつろいでいた。
「時間が早かったんで、菊次郎親方のお昼に間に合って、えらく喜んでもらえました。やっぱり銀水亭のウナギは、泥臭さがないし、生きがいい、タレも甘口で絶品だってほめられましたよ。」
「お前が目利きで、一番の上玉を持って行って、生きたまま捌いたんだから当たり前よ。そうか、喜んでくれてよかったよ」
「あの二重になった重箱もほめられましたよ、ウナギもご飯もまだあったかいって。本当に何から何までありがとうございました」
「いいってことよ。よろこんでくれりゃあ、それ以上の事はねえ。まあ、こんなまかないでよけりゃ、毎日でも食わしてやるから、よかったら、いつでも来な」
「ありがとうございます。今度は半助おじさんと、一緒に顔を出しますから」
彦六はお礼を言って、店を出た。だが、店を出たところで、お供を連れた侍が、なにやら頭巾をかぶり、籠から降りてきた。彦六はさっと店の影に隠れて頭を下げていた。侍はそのまま正面から店には入らず、裏の水路の方にある離れの方に歩いて行った。なんだ…離れで何かあるのか?
「え? あれって…?」
そこに一足遅れて別の人影が近付き、離れへと追いかけるように歩いて行った。日が暮れかかってよくわからなかったが、それは同じ長屋の浪人、藤巻のようであった…。ますますわからない、銀水亭の離れで何があるというのだろうか…。その頃、彦六が帰った後の銀水亭では銀二がお夕と話していた。
「重箱も当日に返しに来たし、きちんと親方の様子も話してくれた。しかも、お夕、見ろよ、重箱の外箱も中箱もピカピカに洗ってある。なんでもないことだが…」
「そうね、今度半助おじさんと顔を出しに来たら、ちょっと声かけてもいいかもね…」
彦六の知らないところで、何かが動き出していた。
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