第二話 優勢


 前回の生田との対戦まで、増戸は右構えオーソドックスのボクサースタイルだった。


 確か前回は、不用意なジャブを躱され踏み込まダックインされて、左の肝臓撃ちレバーブローから右のショートアッパー、そして返しの左フックまで貰ってマットに沈んだのだった。最後に放たれた、駄目押しの右ストレートを食らうまでもなく。


 


 これは間違いなく、生田対策だろう。

 今日この日まで、増戸が左構えサウスポーで戦ったことは一度もないのだから。


「京のヤロウ、舐めやがって。そんな付け焼刃が俺に通じるとでも思ってンのか?」


 そう言いながら生田は口の端を笑みの形に歪めていた。

 増戸は全く表情を変えていない。



 右構えオーソドックスのインファイター生田を左構えサウスポーを取ったボクサースタイル増戸という構図になった。



 生田は小刻みに体を揺らし、細かなフェイントを入れながら隙を探る。

 対する増戸は、右足を前に半身の態勢で、左拳で顔を隠すようにしていた。そして右拳はだらりと下げてほぼノーガード。右腕をゆらゆら動かしている以外は、殆ど棒立ちと形容してもいいほどだ。


「サウスポーでオマケにデトロイトスタイルだァ? おちょくるのも大概にしろや京ォ!!」


 キレた生田が勢いよく踏み込んだステップイン

 生田の長所はこの思いきりの良さと、踏み込みの速さにある。



 だが。



 パァン!

 と何かが弾けるような音がして生田の突進は止められた。


「ンだァ!?」

「……」


 生田にブロックされはしたものの、増戸の右ジャブが生田に待ったをかけたのだ。

 しかもそのジャブは――


「フリッカーかよッ!」


 ――そう。フリッカージャブだった。

 フリッカージャブとは通常のジャブ――ジャブとは牽制やコンビネーションの始動に使われる、ボクシングの基本とも言えるパンチのことだ――とは大きく異なった軌道を描く。

 通常のジャブが肩口からまっすぐに突き出される直線軌道なのに対し、フリッカージャブはあらゆる方向からムチがしなるような曲線的な軌道で襲い掛かってくる。


「…………言ったろ。今日こそ僕が勝つ、って」

「そーゆーのは勝ってから言えやァ!」


 その威勢の良さとは裏腹に、生田は劣勢だった。

 踏み込む度に、増戸のフリッカージャブに邪魔をされ後退を余儀なくされてしまっている。


 右構えオーソドックスは左足を前に出し左ジャブ、右ストレートで戦う。逆に左構えサウスポーは右足を前に出し右ジャブ、左ストレートで戦う。つまり両者が向かい合えば、それぞれ前に出した足とジャブがぶつかり合う格好になるのだ。


 そうなった場合、モノを言うのが腕の長さリーチだ。短躯たんくの生田と長身の増戸では身長は10センチ以上違う。それはつまり、腕の長さに最低でも5センチの差が出る、ということだ。


 左構えサウスポーから繰り出される長射程のフリッカージャブ。

 初見でこれを攻略するのはいかな生田といえど、決して楽な作業ではない。


 絶え間なくステップを踏み、頭を振って増戸の狙いを散らしつつ、左ジャブ。リーチ差があり過ぎて絶対に届かない。だがそれでいい。一瞬でも気を取られてくれるだけで生田には十分だった。


 一気呵成に踏み込んだ。


 だがそこに待っていたのは、増田のもうひとつの罠だった。

 右ジャブ。

 フリッカーではない、ジャブだ。


 ただし、長い腕という特性を生かした槍のような直線のジャブは、斜め上から生田の頭部をカウンター気味のタイミングで打ち抜いていた。


 生田のブロックは辛うじて間に合ったものの、足元がふらつくほどの衝撃を受けた。ダウンすることはなかったがダメージがあるのは明白。


 にもかかわらず、増戸は追い打ちをかけず距離を取ってアウトレンジからフリッカージャブで生田を小突き回すにとどめていた。不用意に生田の得意な近接戦クロスレンジで勝負をしたりしない。



「クソがッ、そんなに俺が怖いンかョ?」

「何度も言わせるなよ、生田。今日勝つのは――僕だ」

「上等だァ!」



 生田は再び動き出し、増戸は右腕を揺らしながらフリッカージャブを放つ準備をした。こうして二人の攻防は加速していく。

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