第十二章 「二人の衝突」

 †

 キリアが変わった。突然だった。姿だけでなく、価値観までがらりと変わったように感じる。まるで彼女がどこか遠くへ行くような……デュラハンはそんな気分を味わっていた。

 ここまでの対話でキリアの過去をたくさん共有した。十分に理解したと思う。そして、聖杯をひとつにする。その手応えを感じていた。これを続ければ、キリアとひとつになれる。そう思っていた。しかし、対話するほどキリアが変わっていく。追いつけない。

 デュラハンは、自分の焦りを悟られないように懸命に表情を整えて伝えた。

「辛い過去を乗り越えてきたキリアは、これからのことをどう考えているのか聴かせてくれ」

 キリアはすっと冷めたような目をする。

 彼女にとって「これから」といっても聖杯をひとつにするまでは、この聖杯の底で過ごすことに変わりはないからだろう。酷な話になるが、キリアの意志を確認しないわけにはいかない。

「今まで『ジュリアのために』がんばってきたので、はっきりと考えていません」

「では、その『これから』を今、ここで決めるというのは?」

 キリアは笑顔でうなずいた。

「いいですね。ぜひそうしたいです」

 デュラハンはキリアの言葉を引用して尋ねた。

「キリアは『ミレナ先生がいなくても、わたしだけで、わたしであることを感じられるようになりたい』と言っていたが……、これは、具体的どうなりたいということだ? 周囲にミレナ先生やマリアのような手本となるような人はいるのか?」

 キリアは少し考えたあと、はっきりと告げた。

「それはリンだと思います。『ザ・インダクション』で初めて彼女と対峙したとき、彼女は前だけを向いて進んでいるように見えました。自分のことを絶対的に肯定して、ゆるぎなく、迷いなく駆けていく。それを楽しみながらできているところが、マリアやミレナ先生みたいでした。

 誰かの承認を得ようとして失敗を恐れるのではなく、自分を信じて、失敗しながらでも、完璧じゃなくても、さわやかに前に進み続けることができる。そんなふうに生きたいです」

 楽しそうに語るキリアの視線をとらえるため、彼女の目をまっすぐ見る。

 ほおを紅潮させた彼女は、デュラハンを越えてどこか別のものを見ているようだった。

 だんだん表情が豊かになっていく彼女を愛おしく思うと同時に、自分の心からどんどん離れていく彼女に焦りといら立ちがつのっていく。

「……今のキリアにとって、リンはどんな存在に見えているんだ?」

「リンは……」キリアは真剣な表情で言った。「隣にいたら無視できない、常に背すじを伸ばして向き合いたいと思う存在です。ライバルという言葉がふさわしいかもしれません。……昔のわたしなら、前に進みつづける彼女に劣等感を覚えてしまいそうですね」

 キリアは、ふっと微笑む。

「リンと会って話がしてみたいです」

(キリアとリンが出会う……)

 ふと、記憶がよぎった。『ザ・インダクション』のときに対峙したリンの言葉。

 ――キリアさんは、わたしの闇を切り裂いて、絶望の底から引っ張り上げてくれました。このときわたしは、あなたに、そしてアイドルに憧れたんです

「おまえは、すでにリンと会っているぞ」

 デュラハンは、キリアがリンにとっての命の恩人であり、憧れの存在であることを伝えた。

 すると、キリアは目を丸くした。

 これ以上ないと思うほどうれしさに満ち足りた表情。それがわかった。デュラハンにとって心臓が跳ねるくらい鮮烈だった。しかし、こころが痛む。

「そう、ですか……そんなことがあったんですね。何だか不思議な気分です。わたしに憧れてアイドルになったなんて……今まで言われたことがありません。こんなに不完全で、至らない人間なのに憧れてもらえるなんて……」

 キリアは、切ない表情で遠くを見つめている。リンを探しているのだろうか。少なくともデュラハンを見てはいなかった。

(……もう、彼女の話を聴いていられない)

 手を伸ばしてもつかめないもどかしさ。手を伸ばすことさえも気おくれする孤独感。出口がなくて、いらいらがうずをまき、中心から怒りが噴きあがる。

 その勢いに抗えなかった。感情に任せて、いすから立ち上がる。

「もういい! もう話すな!」

 キリアが、おびえるような顔でデュラハンを見上げた。

「……どうしたんですか? 何を、そんなに怒って……」

 デュラハンは、キリアをにらみつけながら感情をぶちまけた。

「対話が進むほど、おまえがどんどん変わっていく。表情や身振り、声の調子、考え方、そして服装まで! 何が起こっているんだっ! まったく理解できない! おまえはいったい何者なんだ! キリアといっしょにいると、不安で心がざわざわして落ち着かない!」

 キリアにも怒りが伝わったようだ。悲痛な表情で彼女は反論した。

「そんなふうに言わないでくださいっ! わたしだって、自分に何が起こっているのかわからないんです! ……わたしの方こそ、デュラハンのことがわからなくなりました。あんなに親身になって話を聴いてくれたのに、何をそんなに怒っているんですか?」

(あたしは、キリアの何にいら立っているんだ?)

 自分の感情がよくわからない。デュラハンは何も反応ができなかった。

 キリアが続ける。

「わたしのことを知るための対話なんですよね? もっと話す必要がある、そういうことではないのですか?」

「そうじゃないっ! もうキリアのことを理解したんだ。もう話す必要はない!」

 デュラハンは、キリアのことをどれだけわかっているかを示すため、彼女の過去、現在、そして未来を含んだ物語を披露する――


「キリアは、家族からものとして扱われることで虐げられていたんだ……。

 どんなにがんばっても、両親は無関心だった。ほめてくれないし、評価もされない。叱られることさえもない。それがとてもつらかった。その苦しみから逃れるために、両親から与えられた課題にあえて集中した。そうやって偽物の家族の中にいる息苦しさに耐えてきた。

 しかし、その先で待っていたのは望まない結婚……。両親が成りあがるための道具として利用されることを知ったとき、キリアは家族に失望し、絶望した。

 ミレナ先生がいたこともあった。キリアの心が癒され、マリアへの憧れも経験することができたが、その大切な先生も両親によってキリアから引き離されてしまった。

 やがて、キリアはジュリアによってアイドルにスカウトされる。

 ジュリアは、憧れのマリアのようになるチャンスをくれ、家族の鎖から解放してくれた。だから彼女のことを慕いとても感謝していた。孤独に耐えつづける戦いがようやく終わる。そう思っていた。

 しかし、結局は舞台が変わっただけだった。

 アイドルとしての活動に慣れたころ、ジュリアは、もうキリアに無関心になっていた。ほめられないし、評価もされない。家族に対する失望や絶望。それと同じものが湧いてきた。

 家族に対しても、ジュリアに対しても、何も変わらない。

 おまえは、ミレナ先生と同じように評価してもらいたかったんだ。そうしないと生きる資格がないと思っているんだ。

 評価されないことに飢え、充たされない思いを抱えてずっと苦しんでいた。その証拠に、家族やジュリアの話をするとき、本当につらそうな表情で苦しそうに語っていたよ。

 その苦しみから解放されるには、どうすればよいと思う?

 単純だ。たくさんの評価をもらえばいい。

 そのために、より強くなり完璧にやり遂げる。他者の中に埋もれず、ライバルを倒して自分を残す。そうやって、誰かに評価されて自分の居場所を確保するんだ。

 他者の中で最も重要なライバルとして認識したのが、リンだ。

 キリアはこれからもっと強くなって、自分にないものをすでに持っていたリンを倒し、より大きな評価を得て、虐げていた家族やジュリアに復讐することを目標に生きていく。

 これが、キリアの物語だ」


 デュラハンの話が終わった途端、キリアが静かに立ち上がった。

 目線が合う。キリアの瞳から、ものすごい怒りが伝わってくる。

「そんなものは、わたしの物語ではありませんっ! わたしは、リンを倒したいわけじゃないし、あの人たちやジュリアさんに復讐したいわけじゃないんです!」

「そんなわけがない! 家族やジュリアに虐げられたんだ。復讐したいに決まっている!

 それに、リンを倒せば、マリアに評価されるんだ。そうなればノヴム・オルガヌムでの位階が上がり、活動の制限がなくなる。両親やジュリアを自分の前にひざまずかせるチャンスが手に入る!」

「ですから! そんなこと考えていないんです!」

「うるさい!」声を荒げ、キリアをにらむ。「キリアのやりたいことは、誰かを倒しつづけることだ。ライバルを倒し、自分の実力を認めさせることだ! ほめてもらいたかったんだろっ!」

 キリアもデュラハンに負けない大きな声と迫力で、さらに食い下がった。

「違いますっ! あなたが語ったことの前半は、わたしが体験した出来事でした。でも、後半は……あなたの物語でした!」

「あたしの……」

「わたしの心は今、聖杯浸食によって、あなたに支配されています。でも、だからと言って、わたしはあなたと同じじゃない!」

 どきりとした。たしかに、キリアの物語を話していたとき、キリアと自分の境界線がわからなかった気がする。

 キリアは、涙目で訴えた。

「デュラハンに話を聴いてもらって、いろんなことに気がつきました。だから、わたしは……あなたが語ったような物語の中で生きたくないんですっ! わたしは、わたしの物語の中で生きたいんです!」

 キリアはまっすぐな瞳をデュラハンに向けて、自身の物語を紡ぎはじめた――


「わたしが生まれた家は、漫画やドラマで表現される『普通』の家族ではありませんでした。

 両親は、わたしを、人生をよりよくするための道具にしました。その使い道は、高貴な家に連なるための『いけにえ』。わたしを結婚させることでその家と姻戚関係となる。そのために、知識と技術と容姿を磨かれ、心身を完全に管理されました。

 そこに、わたしの感情や価値観などが入り込む余地はありません。そんなものはことごとく無視され、たんたんとやるべき課題が積みあげられ、わたしは積みあがったものをひとつずつ処理していく……。そんな違和感に満ちた家族との生活は、とても苦しいものでした。

 その苦しさを紛らわすため、わたしはあの人たちから課された習い事や勉強に集中することにしました。いろんなことを覚え、できることが多くなり、できたことや良い成果を得たことに対して、ほめてもらいたくなりました。

 しかし、道具に対してほめたり、叱ったりする人はいません。わたしが処理したことに対して、両親からの反応は何もありませんでした。

 ほめられることなどありえないのに、そう思ってしまう。苦しさが倍になりました。

 そんな苦しみを味わうくらいなら……。わたしは『わたし』を否定しました。すると、やりがいやおもしろさを、まったく感じなくなりました。

 アイドルとなったあとも、ジュリアさんに対して、同じ気持ちを感じました。

 ジュリアさんは、わたしの恩人です。アイドルになるためのサポートだけでなく、プロデューサーとして導いてくれました。とても感謝しています。

 しかし、彼女はわたしのことを見てくれなくなりました。彼女の期待どおりに成果を上げても称賛してくれなくなったのです。

 わたしがアイドルであることは、ジュリアさんに認めてもらうことが大前提でした。だから、他の人から称賛されたとしても、まったくうれしくありません。

 ……わたしは、矛盾を抱えているんです。

 誰かに自分のことを見てもらって、認めてほしいのに、わたし自身がその自分を大事にしていない。そんな人間が見られること、認められることなんて、あるわけがないと思います。

 でも、わたしは自分の生き方の中に例外を見つけました。

 それはミレナ先生と過ごした時間です。

 先生は、自分を表現することが好きで、それ自体にやりがいを感じ、のびのびと楽しくさわやかに生きることができる人でした。

 そして、わたしのことを見て、ふれて、聴いて、認めてくれました。わたしの心に寄り添い、わたしの心とともに感じてくれました。

 だから、安心して、わたしであることを表現することができたんです。

 先生と過ごした一年間で、わたしはさまざまなことを学びました。

 自分の感性と価値観を表現すること。他人を受け容れること。自分のやりたいこと、なりたいことを意識して行動すること……空っぽだったわたしが、いつの間にかマリアに憧れを抱き、マリアのようなアイドルになることが将来の夢となっていました。

 こんなわたしでも、自分を肯定できていたときがあったんです。

 そう、アイドルとして活動しているのも、このときがあったからです。ミレナ先生が居なければ、アイドルになろうなんて考えてもいないでしょう。

 この対話で、そのときを思い出しました。ミレナ先生と過ごした一年間がどれだけ大切だったのかを理解できました。

 今までのわたしは『誰かに認めてもらいたい、わたし』でした。誰かに認められないと生きていけないと思っていました。だから、ジュリアの承認にとらわれていました。

 でも、これからのわたしは『自分を認めることができる、わたし』になります!

 マリアのように、何かを極めて、欲しい物に正直でいられる人になりたい。

 ミレナ先生のように、積極的に自分を表現し、他人の表現を受け止められる人になりたい。

 リンのように、自分を肯定して、まっすぐ前を向いて突き進める人になりたい。

 前を向いて、楽しみながら、すべてを認めながら、自信をもって突き進みたい!

 ……今、ここにいるわたしは、わたしの心そのものです。

 その心が、ぼろぼろの服とひび割れた鎧を脱ぎ捨てました。これは、わたしが『自分を認めることができる、わたし』に変わることができたという証拠です!」


 キリアの語りが終わったとき、彼女とのつながりが、ぷつんと切れた。そう感じた。

 近くで自分の問いかけに反応してくれていたキリアが、遠くに離れていく。気持ちの整理がつかなかった。大切なものや、そこにあると期待していたものがなくなる。そのときの寂しさと不満に耐えられなかった。

「変わった、だって? ただ姿が変わっただけじゃないか! 今の対話で、何を覚えた? 何ができるようになった? どれだけ強くなったっていうんだ!」

「今までと違う考え方ができるようになりました! 違う生き方を選べることを理解しました! もう、今までの自分に戻らないことを決意できるくらい強くなりました!」

「そんなものっ! 変わったことの証明にならない! あたしだけじゃない、みんながそういうはずだ! どうせ数か月たったら、おまえは、家族やジュリアのときと同じように、誰かに認めてもらいたくなる。なんの意味もない!」

 言い放つと、キリアからの反論がなくなった。

 デュラハンは、ようやくキリアが止まってくれると思い、ほっとした。

 そのとき、自分の感情に驚いた。

(あたしは……キリアに立ち止まってほしかった、のか……)

 ふと、キリア見ると、大きな瞳が涙にぬれていた。口を真一文字に引き結び、強く真摯なまなざしで、デュラハンを見据えていた。

「わたしは、変わりました!」

 まるで逆境をおそれずに立ち向かい続ける戦乙女のようだった。その姿は、キリアが変わったことを証明しているように見えてしまった。

 キリアを見ていられず、うつむく。

 もう彼女を止めることはできない。そう思ったとき、心がすっと冷えていくのを感じた。

「もう、キリアは待っていてくれないのか……」

(それなら……力づくでキリアを止めてやる。そして、キリアの代わりに家族やジュリア、リンを倒す。そのあと、彼女の前でひざまずかせてやる!)

 デュラハンは黙ったまま、キリアを見つめ返す。

 覚悟を決めた。大剣を輝化して、キリアの胸元に突きつける。

 キリアは驚きを隠せず、目を見開いた。

「デュラハン……これは、どうして……」

 できる限り落ち着いた優しい声で、キリアを諭すように話しかける。

「それじゃダメなんだ。力をつけて他者を倒さないと、変われない。誰も認めてくれない!」

 キリアは、きっと眉をつりあげ、大剣にひるまず、一歩前に踏み出した。

「違うっ! そんなことしなくても変われる! 誰かに認められるような自分になれる!」

 デュラハンもさらに一歩前に踏み込む。剣がキリアの胸にふれる。

 目で威圧しながら、「話を聴いて」とキリアを無理やり黙らせる。

「キリアのやりたいことは、すべてあたしがやり遂げる。だから、そのあいだは聖杯の中で眠っていてくれないか? キリアが目覚めなければ、これまでどおりの実力を発揮できる」

 キリアは、眉をひそめて、鋭い目つきでにらむ。それを見て、あわてて付け加えた。

「キリアが邪魔だからじゃない! キリアを大事に思っているから、なんだ……」

「この対話で、お互いのことを知り、ようやく聖杯をひとつにできると思っていました。それなのに……結局は、わたしを黙らせることにしたのですか!」

「違う! おまえのためなんだ! おまえのために、おまえの世界を必ず変える!」

 彼女はくやしさと悲しさが同居しているような顔をしかめて、目を背ける。

「もういい! もう帰ってください!」

 はっきりとした拒絶の意思。どきりとした。恐ろしくて、身がすくむ。応えられなかった。

「……なら、わたしが出ていきます!」

(いやだっ!)

 ……止める。キリアを止める。キリアを殺してでも止める!

 デュラハンは、立ち去ろうと回れ右をしたキリアに向かって、大剣を振り下ろした!

 彼女は、とっさに自分の長剣を輝化して大剣を受け止めた。

 ぎりぎりと互いの剣がかみ合う音。二つの刃の向こう側にキリアの悲痛な表情が見えた。

 止める。それ以外のことが考えられない。熱に浮かされたように、待って行かないで、とつぶやきながら、一振り二振りと振り下ろした。

 キリアは素早い動きと、力強い剣さばきで、デュラハンの攻撃を的確に防ぐ。彼女が軽やかにステップするたびに、ひらひらと白いワンピースのすそが舞う。聖杯の底の暗闇の中でも白く映え、まるで、幽霊と闘っているようで、現実感がなかった。

 それが、デュラハンをもっと焦らせる。自分も鎧を脱いで、身軽になりたい。しかし、デュラハンにはそれができなかった。

 デュラハンが大剣をするどく横になぐ。がぎぃっ、と大きな音を立てて、キリアに長剣で受け止められるが、弾き飛ばすことができた。デュラハンはキリアを説得しつづける。

「なんで、あたしの物語じゃいけないんだっ! もっと強くなって、他者を排除すれば、たくさん評価されるじゃないか!」

 キリアは剣を構えながら、無言で一歩間合いを詰める。

「心が変わったぐらいじゃ、他人や環境を変えることはできないっ!」

 さらに、もう一歩。

「そのままの自分をさらしたって、何も手に入らない! どうにもならないんだっ!」

 キリアは無表情だった。話を聴いているのか、聴いていないのかさえ、わからない。

「あたしにとって、そんな生き方は何の意味もない! あたしは、求められたこと、みんなが必要だと思うことをやり遂げて評価されてみせる! 有無を言わせないぐらい完璧な結果を出して、他者を圧倒する存在になる!」

 自分の声がキリアに届いていない。でも、キリアは近づいてくる。涙がこみ上げてきた。話を聴いてもらえない寂しさ。近づいてくれるうれしさ。この涙はどちらだろうか?

 キリアが凛々しい顔で剣を構え、デュラハンと向き合う。

 剣を向けられているのになぜか安心した。

「キリア、行かないでくれ……」

 まばたきをすると、大粒の涙が瞳からこぼれ落ちた。

 キリアが驚きとともにデュラハンの顔を見る。どうにもならない悲しいことに気づいたような苦しい表情だった。

 彼女の右腕から力が抜ける。長剣の切っ先が地についたとき、輝化解除された。アドミレーションに還元しきれなかったアスタリウムの残滓が、きらきらと彼女の顔を横切った。

「……大丈夫。置いていきません」

 言葉を聴いた途端に、涙がとめどなく流れ落ちていく。

「ほんとうか?」

「はい。いっしょに行きましょう。デュラハンは、これから何がしたいのですか?」

 キリアの表情をうかがう。穏やかな顔だった。

 それを見て安心したデュラハンは、震える両手で大剣を上段へゆっくりと掲げる。そして、一言だけ告げた。

「今度こそ、リンを倒したい」

 それを聴いたキリアは上を向いて目をつむり、しばし考えてからデュラハンにうなずく。そして、緊張した面持ちでデュラハンの方を向き、両腕を広げた。

 デュラハンはぎゅっと目を閉じ、キリアに向かってそのまま、剣を振り下ろす!

 彼女の表面をなでるように風が流れたあと、キリアは、糸が切れた操り人形のように両ひざをつき、うつぶせに倒れ伏す。

 デュラハンは涙をぬぐい、大剣を鞘に納めた。

(あたしは決めた。覚悟した! もう止まらない、もう戻らない、最後までやり遂げる。あたしの生き方を全うする!)

 倒れた彼女が、言葉を発する。

「大丈夫です……。わたしは、あなたを置いて、いきません。あなたにとってのそのときまで、ちゃんと待っています。そのときになったら……いっしょに行きましょう……」

 その言葉を最後に、キリアの意識がなくなった。

 そして、人間の形が崩れ、凝縮されたアイドル・アドミレーションのかたまりとなっていた。

 デュラハンは、そのかたまりに近づき、まるでキリアに伝えるように、語り掛ける。

「待っていてくれ。必ずリンを倒すよ」

 イドラ・アドミレーションを集束させた右手で、キリアだった「かたまり」をつかみ、渾身の力で地にたたきつけた!

 そのかたまりとともに、右手が今立っている空間の床を突き破る。かたまりは亀裂を通り抜け、聖杯の底に落ちていく。その先は深くて暗い、真っ黒な空間しかなかった。

 びきっ、びしぃっ! 床に、ひびが放射状に広がっていく。床を破ったことで、聖杯の中にあるこの場所が崩壊をはじめていた。

 亀裂から逃れるために、現実に戻るために、デュラハンは、走り出した。

 リンを倒す。家族に、マリアに、ジュリアに、仲間たちに、イドラたちに、白のアイドルたちに、自分とキリアを評価させる。そして、キリアとの再会を果たして見せる――


 デュラハンが目を覚ますと、闇色だった空は、紫と藍のグラデーションに変わっていた。夜明けは近そうだった。

 心地よい浮力から起き上がる。立ち泳ぎをしながら一帯をぐるりと見回し、ざば、ざばと歩いて湖畔に上がった。

 静かだった。髪や服から液化イドラ・アドミレーションがぽたぽたと落ちる音が聞こえる。人影も、イドラも、そして、聖杯の中のキリアもいない。

 デュラハンは再び一人になった。

 東の空から朝日が顔を出す。朝焼けがとてもきれいだった。

 そんな太陽を背にして、レンヌ・ル・シャトーへ向かって歩き出した。

「今度こそ、必ずリンを倒す」

 自分の決意をもう一度口にした。キリアのためにも、ぜったいに負けられない。

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