第十章 「先生」

 †

 デュラハンは、彼女の様子を見て驚いた。

 こぼれる笑顔。はにかむしぐさ。まるで花が開くように感情表現が豊かになった。

 そして、身振り手振りも多くなった。手や腕が動くたびに、ひび割れた鎧とぼろぼろの服をしきりに気にしている。彼女は、それらを邪魔に感じているようだった。

 ジュリアの話をしていたときの、危うさからは想像できなかった。

「キリアは、ミレナ先生のことを大切に思っているんだな。話すときのしぐさを見ていると、それがはっきりと伝わってくる」

 キリアは「ええ、とても大切です」と言い、顔を赤くして、うつむいた。

 彼女がミレナ先生について話す様子を見ていると、ちくりと胸が痛む。

 このまま話を続けたくなかった。しかし、ミレナ先生は、キリアにとって大切な人のようだ。彼女のことを知るためには、避けて通れない。

 デュラハンは、覚悟してその先に進むことにした。


 †

「ミレナ先生は、どんな人だったのか、教えてくれないか?」

 キリアが顔を上げる。わかりました、と言って、彼女のことを説明する。

「先生の名前は、ミレナ・アプローブ。わたしが十二歳の一年間だけ、音楽の家庭教師でした。たしか当時二十歳だったと思います。舞台俳優になることを目指していました」

 書割が変化した。描かれていたのは、そのミレナ先生だった。濃い赤毛を編み込みにした、豊かな表情がとても魅力的な女性。じっと見つめていると、心が温かくなった。

「実は、最初の頃は、先生のことをまったく信じることができなかったんです」

「それは、なぜだ?」

「例えば……他の先生は、担当分野で有名な賞を取るほどの優秀な人ばかりでした。でも、先生はピアノ、歌、ダンスの技術は、どれも二流だったのです」

「どうしてそんな人が家庭教師として選ばれたのか、不思議だったのか」

「ええ、後で知ったのですが、以前の派遣先で、教え子の才能を上手く開花させ、高く評価されたみたいです。でも、当時のわたしは、そんなことまったく知りませんでした。

 だから、本当に教えてもらってもいいのかな、と疑っていたんです」

「信じられなかった理由は、それだけなのか?」

「それから……先生は、自分の気持ちを臆せずにはっきり言ってしまう人でした。わたしだったら言えないことを平気で相手に伝えることができるんです。

 でも、それで人間関係がこじれることはありませんでした。ほとんどの場合、先生が相手に伝えたことは相手も納得して……なぜか知らないけど、先生の主張はほとんど無視されることなかった。わたしは、そんなことができる先生に嫉妬していました」

「そんな状態で、レッスンができたのか?」

 キリアは苦笑いをしながら、静かに首を横に振る。

「できなかった、というか……しませんでした。最初一か月、レッスンを拒んでいました」

「ミレナ先生は何をしていたんだ?」

「自分が出演する舞台の歌やダンスの自主練習をしていました」

「怒ったり、親に言いつけたりしそうだが……会話もなかったのか?」

「いいえ。先生は、よく話しかけてきました。『どんな勉強をしているのか』や『他の習い事は何か』とか……。わたしは不機嫌な様子をつくろって、単語をつなげて答えていました。

 失礼だったと思います。でも、先生は怒らずに、わたしの答えに興味をもって、笑顔で反応してくれました。その時間は、居心地がとても良かったです」

「一か月後、何かあったのか?」

「特には、何も……。あえて言えば、先生が、歌やダンスがすごく好きなのだ、ということに気づきました」

「どうやって気づいたんだ?」

「先生が、歌い踊るときの様子を見て、気づきました。鋭く鮮やかに、自分の声やからだに集中して、周りの様子を気にせず、一心不乱で……。先生のすべてが、色っぽくて、かっこよくて、きらきらと輝いていました」

「ミレナ先生の懸命な姿に魅せられた、ということか?」

 キリアは大きくうなずく。

「そうしたら、いつの間にか、先生のレッスンを受けたくなっていました。けれど、これまでの態度をなかなか変えることはできなかったんです。

 でも、ある日、先生がレッスンを始めようって笑顔で声をかけてくれたんです。こんなに面倒くさいわたしを見捨てずに、気にかけて許してくれました。本当にうれしかったです」

「キリアが心の底から『やりたい』と思うのを待っていたのかもしれないな」

「そう、かもしれませんね」

 キリアは、顔がほころぶのを感じた。

「そのときから、ミレナ先生のようになりたいと思っていたのか?」

「どうなのでしょう……そのときに、ではなく、ゆっくりと確実に、先生への憧れが強くなっていったという感じでしょうか……。

 例えば、先生と将来の夢について話したとき、本当にうらやましくて、先生にみたいになりたいと思いました」

「将来の夢、どんな話だったんだ?」

 顔を赤くした先生が、はにかみながら、自分に話してくれたことを思い出す。

「それは、舞台俳優を目指したきっかけの話でした。

 ミレナ先生が十二歳のとき。ひとりで舞台を観に行ったときに決意したそうです」

「ひとりで、か。先生は、そんなに舞台が好きなのか?」

「それには、理由があったんです」

 また、書割に変化があった。今回浮かび上がったのは、漫画のようなイラスト。少女が泣きながら夕暮れの街をさまよい歩く様子だった。

「先生の家は母子家庭でした。母親との関係が悪く、いい子でいようとがんばったのですが、がまんすることに疲れてしまい……。ある日、すべてどうでもよくなり、家出をしました。

 近くに親戚もおらず、友達の家に行くこともできず、行く当てをなくした先生は、仕方なく、自分が通う学校に向かいました。忍び込んだのは、真っ暗な講堂。うずくまって、これからのことを不安に思い、泣いていたそうです」

 書割には、暗闇の中で、うずくまり泣いている少女が映し出されている。

 デュラハンが書割を確認し、ぽつりとつぶやいた。

「ミレナ先生の心細さが伝わってくるようだ」

 突然、少女の周囲が明るくなる。講堂の中に、にぎやかな一団が入ってきた。

 キリアが続きを語る。

「その一団は、学校が招いた大学生の演劇サークルでした。翌日に地域の人に演劇を披露することになっていたみたいです。

 代表の女性が、ミレナ先生に声をかけて、演劇の練習を観ていくように誘いました」

 書割の中の少女の目が輝き始める。最前列の席。目の前で繰り広げられるリハーサル。本番と同じ衣装やセット。役者たちが舞台の上で躍動する。

「代表の女性がリハーサル中に発した『伝えたいことは、お客さんを信じて、堂々としながら、大きな声ではっきりと! そうじゃないと、誰にも届かないし、劇も成立しないよ!』というメッセージが印象的だったようです。ずっと心に残っている言葉だと言っていました」

「良い言葉だな」

 キリアはデュラハンの言葉にうなずく。

「その言葉に気づきをもらって、母親とのコミュニケーションを変えた結果、関係も良くなったらしいです。とても生きやすくなったと言っていました」

「その体験が、ミレナ先生は舞台俳優になりたいという夢のきっかけ、ということか」

「そうです。そのサークルに入って、演劇にのめり込んでいったそうです。劇中の会話にリアリティを出すことや、レッスンの上手いやり方を学ぶために、大学ではコミュニケーションや人の育成に関する分野を専攻して、家庭教師のアルバイトで実践していたそうです。

 わたしは、そのような劇的な転機を体験した先生がとてもうらやましかった……」

「キリアは、将来の夢について、何か話したのか?」

 思わず、自嘲の笑いがもれた。首を横に振る。

「具体的なことを何も話すことができませんでした。先生と同じように、わたしも語りたかった。けれど、時間をかけても何も出てこなくて……。悔しくて泣いてしまいました。

 小さい頃、何が欲しいとか、何になりたいとかを考えたことがなかったんです。目の前の勉強とか、習い事を機械のように片づけていくことに必死だったので……」

「ミレナ先生の反応はどうだったんだ?」

「ぎゅっと抱いてくれて、焦る必要はないと言ってくれました。ミレナ先生といっしょにいることの優しさと安心を実感できました」

 先生のことを語っていると、ぼんやりしていた先生のイメージが、かたちを持ちはじめた。デュラハンとの語りがそれを促している。

「他には、どんな会話をしたんだ?」

 書割のイラストが変わる。キリアが真剣な表情で身振り手振りを交えて一生懸命語るのを、ミレナ先生が満面の笑みで聴いている様子だった。

「歌やピアノ、ダンスにおける表現方法について話をしました。先生が意見を言うときは、熱意がこもった表情で、洪水のように言葉をあふれさせて、もう止められないかもと思うほどしゃべるんです。

 でも、わたしが意見を話すときは、話し終わるまで静かに、わたしの目を見て、一言も逃さないように、じっくり聴いてくれました」

 自分が笑顔になっていることに気づいた。声も弾んでいた。きっと心も弾んでいる。

「先生が、自分を表現することがとても好きなこと、わたしの意見はもちろん、わたし自身も大切に思ってくれていることがわかって、うれしかったことを覚えています。積極的に自分の意見を先生に伝えることができるようになりました」

 ミレナ先生との思い出があふれてくる。

「学校で体験した嫌なことを先生に相談したら、先生は思いもつかない考え方でアドバイスをくれました。当時のわたしには、先生の言っていることの半分くらいしかわからなかったんです。でも、わたしのことを思って、まじめに応えてくれているのがしっかり伝わっていました。先生の言葉は、とても温かかった……」

 デュラハンがキリアに向かって大きくゆっくりとうなずく。

「ミレナ先生は、キリアが何かを表すときに困らないようにするため、表現する勇気を与えていたみたいだ。」

「勇気……」

 心にあるイメージに、その言葉がぴたりとはまる。

「先生とのお別れのときに、勇気をもらったことを思い出しました」

「お別れ……聴かせてくれるか?」

「先生と出会ってから一年後、お別れのときが来ました。最後のレッスンでは、表情を変えないようにがんばっていました。けれど、がまんできなくて……」

 キリアが思い描いたイメージを言葉にしていく。

 そのとき、書割から淡い光があふれ出してきた。それは徐々に広がり、キリアとデュラハンを包み込んでいく。

 光の先を見つめる。そこには、十二歳のキリアとミレナ先生がいた――


 *

 ミレナ先生が「おつかれさま」と声をかける。

 キリアは、突然ミレナ先生の胸に飛びつき、抱きしめた。これ以上、寂しさと不安を抱えきれなかった。

「先生、行かないで! またここに来て、いろんなことを教えてください!」

 涙があふれ、肩をふるわせてしゃくりあげる。ミレナのからだにぎゅっとしがみつく。

「先生がいないとっ、不安で、こわくて……」

 ミレナ先生が、キリアを抱きしめ返す。頭をなで、背中をとんとんと優しくたたく。そして、キリアのことを強く抱きしめたまま、問いかけた。

「悲しいんだね……。どんなふうに悲しいの? どれくらい悲しいの? 先生に教えて? キリアの気持ちをちゃんと知りたいよ」

 キリアは、ミレナ先生の温かさと甘くすっきりした匂いにつつまれながら、抱えたものを安心してはき出しはじめる。

「先生が、いなくなるとっ……。目の前が、まっくらになって、胸がずきすきいたくて、がまんできなくてっ」

 ミレナ先生が、キリアの両肩を支え、目をしっかり見つめて語り掛けた。

「大丈夫。だいじょうぶだよ。キリア。あなたはそんなに弱い子じゃない。今までだって、いろんな人の前で、いい子でいられるように、あんなにがんばっていたじゃない!

 それは、キリアがほんとうに強いからなんだよ。そして、その強さは、ちゃんとここの中に入っているよ!」

 ミレナ先生の手が胸にふれた。温かかった。彼女の強さが流れてくるみたいだった。

 キリアは彼女の手に、自分の手を重ねる。

「わたしの強さ……」

「そう! 先生は誰よりもキリアの強さを信じているよ。キリアなら、何があってもぜったいによくなる! だから、キリアも、キリアの強さをもっと信じてみて? そうしたら、きっと世界が変わる。すべてが輝いて見えるからっ!」

 そう言って、ミレナ先生はキリアを再び抱きしめた。

 彼女の胸の中で目を閉じる。脳裏に、今の言葉を語る先生が焼き付いていた。

「先生」キリアは目を開ける。涙は止まり、笑顔がこぼれた。

「ありがとう、ございましたっ」


 *

 書割の光が弱くなった。

 背中と胸に、抱きしめられた圧迫感が残っている。頬にふれると、涙が流れたあとがあった。

(あの十二歳のわたしは、今のわたし……?)

「今、あたしの目の前にいたのが、ミレナ先生……なのか?」デュラハンも、書割の世界を体験してきたようだ。「キリアが、彼女のことを慕っている理由がよくわかった」

 わかってもらえて、とてもうれしかった。欠けた部分をようやく埋めてもらえたような、そんな感じがした。

「はい。わたしの大事な先生です」

「ミレナ先生のことを語っていたとき、あたしがびっくりするほど、キリアは笑顔だった」

「そう、かもしれないですね」

「キリアにとって、ミレナ先生はどれくらい大事なんだ?」

「どれくらい、か……。本当に、ほんとうに大事な先生です。会えてなかったら……と考えると、恐ろしくなる。そう思えるほど、大事なひとです」

「そうか」

 デュラハンは息をつく。そして、尋ねた。

「ミレナ先生みたいになりたいと話してくれたが、結局どんなところに憧れていたんだ?」

「わたしは、先生のことを……」

 キリアは、時間をかけて考える。そして、ようやく答えが出た。

「自分を表現することが好きで、隠れた魅力を発見しようと努力を続けるところ。そして、そんな自分を他の人に見てもらうことにやりがいを感じられるのが、先生に憧れるところです。

 のびのびと楽しく生きている人で、そんなふうに楽しめることがうらやましくって……わたしも先生みたいに生きてみたい」

 デュラハンは少し寂しい表情で、キリアに尋ねた。

「キリアは、二年前の聖杯浸食直前のとき、ミレナ先生みたいに、楽しんで生きることができていなかった、ということなんだな?」

(そうだ。ミレナ先生のことを話す前は、ジュリアさんとのことを話していたんだ)

「楽しめてはいなかった、ですね……」

「そうか……」デュラハンがしんみりとした様子でぽつりとつぶやく。「ミレナ先生のように生きるには、どうしたらいいんだろうな……」

「そう、ですね……。どうしたらいいんでしょう」

 二人のあいだに長い沈黙が生まれた。

 互いに同じことを考えている。そう確信できる安心感のある沈黙だった。


 二人の会話は、デュラハンの問いから再びはじまった。

「ミレナ先生がもっとそばにいたら……あたしはそう思った。キリアにとって、とても大事な先生だったのに、なぜ、一年間でお別れだったんだ?」

「お別れの原因は……契約期間の満了でした。わたしは、もっといっしょにいたかったんですが……それが変更されることはありませんでした」

「キリアにとって大事な先生だったのだろう? 契約の延長はできなかったのか?」

「それは……なかったと思います。あの人たちが契約終了を決めていました。わたしの周りに大きな影響を与える人を残したくなかったのでしょう」

 デュラハンが、まじまじとキリアの顔を見ていた。キリアはいぶかしむ。

「どうしたんですか?」

「それほど悔しかったんだな」

「えっ?」

「顔をしかめていた。まるで汚らわしいものでも見ているようだった」

 キリアは、表情を確かめるように顔に手をふれる。

「……気づきませんでした」

 脳裏にあの人たちの姿がちらついた。追い出すように頭を振る。でも、消えてくれない。

「あの人たちは、わたしに入るものを完全に管理して、わたしの行動を思いどおりにコントロールしたいんです……」

「キリア、聴いてもいいか?」デュラハンが深刻な顔をして尋ねる。「これまでに何度か表現されていた『あの人たち』とは……」

「きっと、想像のとおりですよ。『あの人たち』とは、わたしの両親のことです」

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