第八章 「二人の対話」

 アヴニール大聖堂の敷地内にあるロープウェーに乗って、下山した。

 発着場を出ると、真正面に大通りが見える。ゆるやかに下っており、地平線には、イドラの大釜の真っ黒な水面が広がっていた。

 特に行く当ても考えず、目に入ったその道を歩くことにした。

 白い煉瓦で舗装された歩道は、暮れなずむ空を写し取ったように夕焼けの色だった。周囲の建物の白い外壁も黄金色に染まっている。

 十数分の間、無心で歩いた。たどり着いたのは、イドラの大釜が見える展望台。

 デュラハンは、石でできた柵に寄りかかり、そこからの景色をぼうっと眺める。

 白い街並みが、ひしめきながら外に広がっていた。はるか先には、イドラの大釜が横たわっている。首を横に振らないと全体が見えないくらい広かった。

 イドラの大釜の上空が、次第に濃紺色に染まっていく。夜が迫ってきた。それは、大釜からあふれ出た黒いアドミレーションが空を覆っていくようにも見える。

 デュラハンがぽつりとつぶやく。

「どうして……こうなったんだろう……」

「それは」キリアが応えた。「聖杯が、ひとつになっていないことか?」

「ああ。たしか、聖杯浸食したあとの一年ぐらいはまったく問題がなかった。しかし、デビュー直後のリンに敗北してから、心やからだが満足に動かせなくなった。その原因が、聖杯浸食に失敗したから、だったなんて……」

 デュラハンは、苦々しい気持ちのまま、さらに続けた。

「失敗のたびに思い悩んで、反省して自分を戒め、今日みたいに他のやつらの嘲笑の的になって……。こんなに辛くてみじめな思いをするのは、もう嫌だ。もっと強く完璧になりたい」

「どんなふうに辛いのですか? その辛さはどこからくるんです?」

「どんなふうって……」

 唐突な問いに戸惑った。それでも言葉を探しながら、ゆっくりと答える。

「……いらいらして、落ち着かない感じ。そう、マリアの傍からはじき出されてしまう焦り。自分の安心できる居場所がなくなって、この世のすべてから切り離される。そう思ってしまうような……」

「この世のどこにも居場所がどこにもなくなってしまうような……。その気持ちは……一年前、リンに敗北する前にもあったんですか?」

「なかった、と思う」昔を思い出しながら、語りつづける。「失敗なんて微塵も考えたことがなかった。なんでもできるって思っていた。白のアイドルを撃退したあと、そいつを見下ろす瞬間。すっとした気分になって、とても気持ち良かった」

 キリアの仲間を大剣で刺し貫いたときも、同じ気持ちだった……。その光景を思い出したのだろうか。少しの沈黙のあと、キリアが尋ねる。

「……倒した白のアイドルを見下ろすと、どうして、すっとした気分になるんですか?」

 彼女の言葉は、純粋な問いだった。憎しみに染まっていないように思える。少し配慮にかけた言葉だったと反省しながら、心の中の答えを探す。

「見下ろすと……彼女たちが、あたしを評価しているように思ったんだ。なんていうか……それは、自分の価値の証明みたいだった」

「自分の価値を示すことができるから、すっとする……」

「そう……なのかもしれない。でも、聖杯浸食してから変わってしまった。七位の座に就いて、マリアや他の黒のアイドルから評価される対象になって……。自分の思うとおりに価値を証明することができなくなってしまった」

 キリアは口を挟まなかった。デュラハンの言葉の発露を温かく促しているようだった。

「誰もあたしを見ていない……。でも、キリアは違った。あたしを見て、語り掛けてくれる。キリアと語ることができるのが、今のあたしにとって唯一の救いのように感じている」

「わたしは……、あなたの苦しみの原因でしょう? それなのに、そう思っているの?」

「正直なところ、おまえとの対話で、あたしの苦しい気持ちはどうにもなっていない。でも、キリアとの対話を続ければ、何かが変わる。そんな予感がするんだ」

 いつの間にか、日は沈みきって、夜になった。

 闇の中に、建物の白さがぼうっと浮かび、柔らかい灯りがぽつぽつとともる。展望台の街灯もちかちかとつきはじめた。柵に背中を預けると、空にさえざえと輝く満月を見つけた。

「そうなんですね……」あいづちのあと、キリアが言葉で続ける。「デュラハンは、マリアに評価されて、生きていていいのだ、と安心したい……そう考えているのかもしれないですね」

 デュラハンが驚きながらうなずく。

「そう、そうなんだっ! 安心したいんだよ。でも……そのためには、何かに勝たないといけない。勝ちつづけないといけない……」

「勝ちつづけなければって……いったい何に、どれだけですか?」

「マリアの前にある障害に、ずっと、だ。マリアは、目標を達成するために、勝利を欲している。それを満たすことができた者が、彼女に評価される」

「マリアのために、命が尽きるまで、勝ちつづける。その対象が、キャメロット……」

 キリアの言葉にうなずく。間違いなかった。でも、改めて言葉にすると、自分の言葉の息苦しさを感じた。

「あなたのその気持ちはマリアには伝えたの?」

「その気持ちって……」

「評価されて、安心したいと思っていることや、勝利を貫く覚悟があることよ」

「いや……そんなことは伝えていない」

「もしかしたら……」キリアは、ためらうように一呼吸おいたあと、告げた。「マリアは、目標達成のためだけに、あなたのことを利用しているのかもしれませんよ?」

 聞いた途端、どきりとした。言葉に胸をえぐられたようだった。

 真っ先に否定したかった。しかし、自分にも思い当たることがあった。

「そう、かもしれないな。……それでも、いいよ。マリアから評価されるなら、それでいい」

「そんな……」キリアの口調が変わった。怒っているようだ。「マリアは、あなたの母親でしょう? わたしだったら、利用されるんじゃなくて、ちゃんと愛してほしい!」

「キリア? どうしたんだ?」

 彼女が、これほど感情を高ぶらせるのは初めてだ。

 キリアは黙り込んでしまった。いろいろと考えているのだろうか。少し間をおいたあと、彼女はゆっくりと探るように話しはじめた。

「ちょっと、嫌なことを思い出してしまって……。わたしも同じようなことがあって……」

「『ジュリアさん』のこと、か?」

「…………そんなところ、かな」

 キリアの悲しい声。しかし、次の瞬間、無理に明るい声が響く。

「驚かせてすまなかった。あなたのことがわかってきて、気安くなってしまったんだ」

(キリアにとってみれば、あたしは侵略者だったはず……)

 忌み嫌われるのが当たり前で、受け容れられることなどないと思っていた。しかし、彼女に自分のことを知ってもらえたというのは、純粋にうれしい。

 キリアになら、わかってもらえる。そう思えるほど慕っていた。しかし……

(あたしは彼女のことを知らない。キリアという人間を、何も知らない……)

 彼女のことをもっと知りたい。もっと話したい。

 何が好きで、何が嫌いなのか。どんな考え方をするのか。これまでどんなふうに生きてきたのか。どんなことをしたいのか。そして、あたしのことをどう思っているのか。

 これまで同じ組織の仲間と、積極的に会話することなんてなかった。必要なかったし、しなくても問題なかった。

 それなら、どうしてキリアともっと話したいと思ったのだろう。「聖杯をひとつにする」ため、だけではない気がする。うまく言葉にできない。

 キリアが言葉を続けた。

「こんなふうに会話ができるようになってから、一年ぐらい。

 これまでは、あなたに対して憎しみ半分、あきらめ半分で接していた。……でも、いろんなことを話してみたら、もっとあなたに近づかないとって思えるようになりました。ようやく、この関係を受け容れることができたのでしょうか……」

 キリアの言葉をかみしめる。

 泣きたいような、笑いたいような複雑でうれしい気持ちがこみ上げてきた。

 そのとき、デュラハンはふと気づいた。

(一年……。一年前といえば、あたしが最初にキャメロットに敗北したとき……。キリアが目覚めたのは、ちょうどそのあとだった。もしかしたら、あたしがキャメロットに敗北したことと、キリアが目覚めたことのあいだには関連性があるのかもしれない)

 彼女のことを深く知れば、「聖杯をひとつにする」方法にたどり着く。

 どこか確信めいた考えに支配されていた。『ザ・インダクション』のときのような失敗は繰り返せない。そのために、やり遂げる。

「あたしは、キリアのことをもっと知りたい」

「えっ? いきなり、どうしたんですか?」

「聖杯の不調がはじまったのは、一年前。キャメロットに敗北したときだ。

 そして、キリアと会話ができるようになったのも一年前。

 どちらも一年前だ。これは、偶然じゃない。キリアはなぜ目覚めたんだ? おまえが目覚めたことで、あたしはどう変わったんだ?」

 反応がなかった。心が締め付けられるような感覚がした。キリアの戸惑いを感じる。

「わからないよな……。それでいい。だからこそ、キリアのことをもっと知りたい。おまえのことを深く知れば、聖杯を正しくひとつにする方法が見つかるかもしれない」

「…………わかりました。わたしのことを話します」

 デュラハンはうなずき、胸をなでおろして「よかった」と応えた

「さっそく、はじめますか?」

「いや、場所を変えよう。静かで、落ち着いて、キリアと向き合って話ができる場所がいい」

「向き合って、なんて……わたしは聖杯の中に閉じ込められているのですよ?」

「ああ。だから、あたしがおまえに会いに行く。聖杯浸食の力を応用して、聖杯の中にいるキリアの元へ行く。そこで話をしよう」

「そんなことが、できるのですか」

 再び展望台からの景色を望む。夜を切り取るように、黒く大きいものが横たわっていた。

「深夜に宿舎を出て、イドラの大釜に行く」

「イドラの大釜……どうして?」

「聖杯の中に侵入するには、莫大なアドミレーションが必要だ。エネルギー切れで対話が中断、なんていうことにならないため、湖に浸かってアドミレーションを吸収しながら行うよ」

「わかりました。それでは、聖杯であなたを待っています」

 キリアとの対話で、救いがもたらされる。自分の悩みがすべてなくなる。

 デュラハンの心は、そんな期待で満たされていた。

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