第二章 「イドラの大釜」

 キリアは、同行する二人とともに北の山を越えた。

 朝のミーティングでミーファが示した領域に踏み込んだ途端に霧状のイドラ・アドミレーションが、それとわかるほど濃くなった。アドミレーションの粒子が視認できる。これほどの濃度でイドラ・アドミレーションが満ちている空間を他に知らない。

 この先には、見たことがないものが必ずある。そんな確信めいた予感がした。

 アイドル・アドミレーションとイドラ・アドミレーションの相剋関係で、若干の気分の悪さと行動の鈍化を感じていた。しかし、作戦続行が不可能な状態ではない。

 キリアが怖い物見たさと任務達成への期待感を混ぜ合わせながら、先へ進もう、と言いかけたとき、ミーファが提案した。

「ここが限界点じゃない? この環境は異常だよ……準備なしで侵入するところじゃない」

 キリアが応える。

「ミーファが観測した、『この先にある多数のイドラ・アドミレーション』の正体だけでも見極めましょう。それだけなら……」

「無理してない?」

 ミーファが、じっとキリアの顔を覗きこむ。何もかも見透かされそうだった。キリアは思わず顔をそむけ、答える。

「ええ、無理なんかしていません」

「……わかった。もう少しだけ進もう」


 キリアたちは手近な樹木に帰還用の発信器を取り付けながら、イドラ・アドミレーションが濃くなる方向へ移動を続ける。

 ミーファが声を上げた。

「川の流れる音がする」

「川……」キリアが応え、尋ねる。「どちらの方角ですか?」

 ミーファが北東を指さす。

「行ってみましょう」

 キリアたちは北東に向きを変えた。

 その川は、簡単に、そして驚きとともに見つかった。

 なぜなら、流れているのが水ではなく、液体化したイドラ・アドミレーションだったからだ。真っ黒でとろりとした液体が、地形に沿ってとうとうと流れている。

 目の前で魚がはねた。よく見れば、イドラだった。川のほとりには、小型の動物型イドラがいる。キリアたちの姿を見つけて、逃げ出した。植物型イドラも生い茂っており、大小さまざまな虫型イドラが飛び、這いまわっている。

 まるで、イドラの世界。あまりに日常から離れすぎていた。異世界に迷い込んでしまったような現実感のなさがいっそう強くなる。こんな場所にたった二人しか仲間がいない。自分を強く保たないと、圧倒されて動けなくなってしまいそうだった。

 キリアは周囲を見渡す。そして、川下の方をじっと見つめた。

(この流れる先に、何があるのだろう。より大きな川か海? それとも湖か……そうだっ!)

 ふと浮かんだ疑問を、そのまま二人に話した。

「そりゃあ」リアラが答える。「川か、海か、湖か……」

 キリアは川下を指して言う。

「川を下ったところに、この黒い水が溜まる場所があるんじゃないかな……。そんな場所なら『大釜』と呼ばれそうだと思ったんだ」

「たしかに、それなら『大釜』と呼ばれるのも自然……」

 キリアはうなずき、再び目標を更新した。

「川下がどうなっているかを確認しましょう。そして、これが今日の最終目標です」

 二人が無言でうなずく。不安な気持ちが伝わってくるようだった。


 川の流れに沿って、移動を続けた。

 しばらく行くと、前方で、川が途切れている。

 ミーファが「あの先に滝がある!」と、走りながら大きな声で言った。

 確かに、大量の水が落ち、水面にぶつかる音が聞こえる。

 道が途切れるまで走り切り、そこで見た光景は、キリアの想像をいくつも越えていた。

 そこは……「大釜」と名付けられるのにふさわしい、巨大なクレーターだった。

 反対側のふちが霞んではっきりと確認できない。円周上のところどころで、ここと同じように滝が流れ落ちている。どれも液化イドラ・アドミレーションの滝のように見える。

 それが流れつく先は、クレーターの底にできた、街がそのまま入ってしまいそうな広大な湖。

 湖の周囲には、ほとりがあり、植物型イドラが生い茂っている。そこから飛び立つ大量の鳥型イドラ。獣型イドラが水辺で群れを作ったり、クレーターの中を走り回ったりしている。

 そして、湖の中では、幻想世界の生物を模して生まれる「神話型イドラ」であろう二匹の巨大なドラゴンがくつろぐように水浴びをしていた。

 キリアは、目の前に広がる自然の神秘を感じさせる壮大な光景に、絶望していた。

「こんな場所があるなんて……」ミーファがつぶやく。「あのイドラの数……。あたしが感じた『多数のイドラ・アドミレーション』は、これのことだったんだ……」

 どさり、とミーファがへたり込んだ。

 腕と脚がふるえている。今度のは武者震いではなかった。恐怖でふるえている。それを自制心で必死に抑え込み、二人に告げる。

「左に見える高台へ行きましょう。そこで、この場所の観測データをとって、撤退します」

 リアラは即座に「了解」と応える。ミーファは、何とか正気を取り戻し、「了解」とつぶやく。

 キリアたちは湖を見下ろす小高い丘に登り、三人で手分けして大釜の撮影と計測を始めた。

 その湖は、どこから見ても、にわかには信じられない光景だった。

 遠目なので、はっきりとは見えないが、湖の中から獣型イドラの群れがぞろぞろと陸に這い上がっているように見える。あれがイドラの生まれる瞬間だろうか。おぞけだつ光景だった。

(まるで、神話で語られる魔法の大釜だ。無限に食料を生み、死んだ戦士を蘇らせる釜……。この湖は、イドラを無限に生み出し続けるのだろう……。わたしたちが捜索している『大釜』はここに違いない)

 どれだけイドラを退治しても、出現頻度が減少しない理由が、今わかった。

 キリアは、いまいましい思いで、湖面をにらみつける。すると、そこに映像が現れていることに気づいた。何が映っているのかを確認しようと、さらにじっと見つめる。

 次第に、五感で知覚する情報が遮断されていった。現実から切り離され、まどろむような感覚におちいる――


 夢を見ていた。

 それはキリアが小さいころの思い出だった。キリアは誰かと向き合って会話をしている。

 その人のことはよく知っていた。その人のことを思うと、何故かとても切なくなる。


 目の前の大画面いっぱいに、トップアイドルのマリア・レイズが歌い、踊っている。

 スポットライトを浴び、爽やかな汗と充実した笑顔を浮かべて、華やかなステージを縦横無尽に駆け回っている。彼女は、本当にきらきら輝いていた。

 キリアとって、未経験の感動だった。それは、とても大きくて複雑で、まだ理解できなかった。だから、大きく目を見開き、少しも見逃さないつもりで、食い入るように見つめる。

「マリアのライブは、いつ観てもいいなぁっ」

 隣でいっしょに観ている「先生」が興奮していた。先生の横顔を覗き見る。映像のマリアと同じ、きらきらした笑顔。それを見て、キリアも、うれしくなった。

「どう? マリアのライブ、すごいでしょ!」

「はいっ。わたし、アイドルのライブを観るの初めてです! こんなに迫力があるんですね!」

「そうなのっ、この迫力はマリアだから、なんだよ! 他のアイドルじゃ、こうはいかないね」

 ライブが次の曲に移る。リズムの良いダンスナンバーだ。

「あっ、この曲!」先生が突然、踊り始めた。「私、振りを全部覚えているの! 今日のレッスンで教えてあげるねっ」

「はいっ」

 先生を見ていると、すごく楽しい気分になると同時に心からの安心も感じることができる。

(ずっと観ていたい。先生といっしょに、いつまでも。この時間が続けばいいのに……)


 どすっ!

「うっ! ふっぐうぅ……」

 キリアは聞きなれない音と静かなうめき声で、目を覚ました。

 ここがどこか。今はいつか。はっきりしない。

 ぼんやりした状態で、音が聞こえてきた左を見る。

 そこには、黒い大剣で後ろから胸を刺し貫かれたリアラが立っていた。苦悶の表情で、キリアの方を向き、「ごめん……油断、した」とかすれた小さな声を漏らす。「リアラっ!」というミーファの悲痛な叫びが聞こえてきた。

 剣がリアラの胸から引き抜かれる。

 リアラが地面にくずれ落ちる。キリアとミーファは即座にからだを反転し、輝化を宣言して戦闘態勢を整えた。

 その黒い大剣の持ち主は、同じく黒い甲冑を身にまとった騎士のように見える。キリアが出会ってきたこれまでのイドラとは比べ物にならないほど、凄まじいイドラ・アドミレーションを放っていた。

 黒の騎士は、キリアとミーファに向き合う。

「ようこそ、『イドラの大釜』へ」

 人の言葉だ。それをしゃべるのであれば……この黒騎士は、「人型イドラ」だ。

「まず、あたしから名乗ろうか。デュラハンだ」

 キリアとミーファは警戒して何も応えることができない。

「マリアから産まれた特別なイドラ、『名づけられた子ども』のひとりだ」

 ――人型イドラとは、野生のイドラとは異なる三つの特徴を持っている。

 まず、人間の形をしていること。次に、言語を理解しており、会話ができること。

 そして、人型イドラは自然発生せず、敵組織の首魁、マリア・レイズが自分の能力でイドラを創成し、彼女の胎から産むことだった――

 デュラハンは大剣を鞘に納め、さらに話を続けた。

「あたしの仕事は、イドラの大釜の防衛……三ヶ月ぶりに大きなアイドル・アドミレーションを感じて、胸が高鳴っていたんだ。急いで来てみれば……ふふっ、期待どおりの実力者。これまでの奴らとは比べ物にならなそうだ」

 キリアはミーファに目配せする。ミーファがうなずいた。次の瞬間、ミーファが、リアラを介抱する位置に移動し、キリアは二人を守るようにデュラハンの前に立ちふさがる。

 デュラハンをにらみつけ、構える。デュラハンはまたしても饒舌に話しはじめた。

「ああ、隙だらけだったから、つい手が出てしまった。もったいないことをした……。

 なぜ、おまえたち『白のアイドル』は、イドラの大釜を見ると、みんな呆けたように意識を失うんだ? あたしたちイドラは、そんなことにならないんだが……。

 ああ、そういえば、『黒のアイドル』も、ぼうっとして動かなくなるときがあるなぁ」

(リアラも、そしてミーファも、わたしと同じように夢を見ていたということ?)

 ――聖杯を持ち、アイドル・アドミレーションを操るアイドルは、白のアイドルと呼ばれる。

 白のアイドルがアイドル・アドミレーション使い果たし、大量のイドラ・アドミレーションの影響下に置かれると、聖杯を侵されてしまう。これが「イドラ化」だ。

 イドラ化の症状はイドラ・アドミレーションの蓄積量によって変化する。

 空の聖杯に対して、半分蓄積されると、からだに黒い斑点がぽつぽつと現れ、錯乱状態におちいる。これが第一段階。たとえ、そのアイドルが正気を取り戻したとしても、イドラ・アドミレーションを排出しきるまでは、脳の障害や、複数の精神疾患を合併した症状が継続する。

 さらに蓄積を続け、聖杯が満杯になってしまうと、黒い斑点が大きくなり、全身に広がる。そして、息を詰まらせたように苦しみ、やがて窒息するように絶命する。これが第二段階。

 世間一般では、この第二段階までのプロセスがイドラ化だと思われている。しかし、イドラ化には、ISCIによって秘匿されている、もう一つのプロセスがあった。

 白のアイドルの聖杯に対して、莫大な量のイドラ・アドミレーションが流れ込み、イドラ化が短時間で行われた場合、死を免れることがある。ただし、その代わり聖杯のかたちや性質が変わってしまう。具体的には、その聖杯から湧き出てくるのが、イドラ・アドミレーションとなってしまうのだ。

 そのイドラ・アドミレーションを生み出すようになったアイドルのことを黒のアイドルと呼び、ISCIから全世界のプロダクションに保護するように通達が下りていた。

 黒のアイドルになると、まるで別人になったように性格や価値観が変わってしまうそうだ。

 そして、これまでの生活圏から姿をくらまし、いつの間にか敵組織側の先兵として、世界に混乱をばら撒くようになってしまう。

 白のアイドルたちの中では、この事実に不安と怖れを抱いているものは少なくない――

「ミーファ」キリアが小さな声で、祈るように尋ねる。「リアラの状態は?」

「イドラ化は……第一段階。大丈夫、まだ治療可能」

 キリアは「良かった」と安堵する。

 ――リアラの胸に外傷はなかった。それは、アイドルが、アドミレーションによる攻撃でからだに傷を負うことはないからだった。その代わりに聖杯に傷を負ったり、イドラ・アドミレーションが蓄積したりする。すなわちアイドルは心を賭けて戦うのだ――

 続けて、デュラハンを見据えたまま、ミーファに命令した。

「ミーファ、リアラを連れて撤退! リアラのことが優先。『大釜』のデータは、二の次」

 ミーファからの返事がない。「ミーファ! 早く!」

「キリアは……、キリアはどうするの?」

「わたしは、ここでデュラハンを足止めする」

「…………わかった」

 ミーファがリアラを背負うのを横目で確認した。

「気を付けて」

「キリアも無事に追いついて来て。お願い……」

 うなずいて、長剣を抜く。一度、深呼吸をする。そして、デュラハンに向かって突撃した。

 デュラハンが大剣を抜き、キリアの突撃に合わせて、剣を振りかぶる。

 長剣と大剣がぶつかり合う! 火花が散り、低く重い金属音が響く。

 そのあいだに、ミーファが撤退を開始した。

 デュラハンは、つば迫り合いを続ける。ミーファを妨害する気はないようだ。押し負けないように歯を食いしばる。

「おまえが残ったか。あたしにとっては、好都合だ!」

「何が、ぐぅっ、良い状況、なの?」

「ふふっ、ようやく会話できた。おまえは、他の二人よりも明らかにアドミレーションを多く持っているからな。どうせ闘うなら、一番強いやつと闘いたい。それだけだ!」

 ぐぐっと剣を押し込まれる。キリアはその力を利用して、後ろに飛び退く。

 デュラハンは大剣を下ろし、兜のバイザーを上げる。

 女性のようだった。彼女の素顔が見えた。

 キリアは今まで、人型イドラを何度も見ている。ほとんどが人型であるのは姿かたちだけで、顔は人間のそれとはまったく異なっていた。「目、耳、鼻、口のようなものがついている部分」といってもよかった。

 しかし、目の前のデュラハンの顔は、人間と同じに見える。

 薄い灰色の肌、兜の端から覗く真っ黒で光沢のない髪、三白眼で淡い紅色の瞳、大きな口。

 人間とどこで見分けるのか、わからなかった。

「ふふっ、そんなにこの顔が珍しいか?」

 キリアは焦って視線を外す。デュラハンがからかうように笑った。彼女に勝てるだろうか。これまでの「任務成功」のイメージが消えていく。どれだけ楽観的に考えても、良い結果を想像することができなかった。

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