第一章 「北へ」
「キリア! そろそろ、起きてっ」
からだが揺さぶられる。目を開けると、困った様子の少女の顔が眼前にあった。
彼女に腕を引っ張られて強引に起こされる。
ベッドにぺたんと座り込み、まだはっきりしない頭で、あたりを見回した。簡素なテーブルといすだけのシンプルな部屋。カーテンが開け放たれており、窓から見える空は、厚い灰色の雲が一面をおおっていた。
キリアは、身ぶるいする。部屋の暖房が効いていなかった。とっさにはぎ取られていた毛布をつかみ、身をくるめ、頭からかぶる。
この寒さのおかげで、からだは覚醒した。しかし、頭はまだ夢の中にいる。
「おはよう。ミーファ」寝起きのかすれた声。「わたし……は、戻ってきたのですか?」
ベッドを整えていた少女・ミーファが、きょとんとした顔でキリアを見返す。突然、彼女が失笑した。笑いながら「おはよう」と返された。そして毛布が再びはぎ取られる。
「あっ……」まどろみを誘う温かさが逃げていった。
「何のこと? あたしたちは戻ってきたんじゃなくて、北へ向かっているんでしょ?」
(北へ……ああ、そうだった)
ようやく頭が目覚めてきた。「大事な任務中だった」と何とか言葉にする。
ベッドを整え終わったミーファが、キリアの隣に座る。
かわいい子どもを見守るような顔で、キリアの頭を撫でた。褐色の肌が与える厳しい印象とは裏腹な、元気で優しい笑顔。セミロングの黒髪をまとめたサイドポニーが揺れる。
「ほら、顔を洗ってきなよ」
背中をぽんっと押され、ベッドから追い出される。立ち上がると、いっそう寒さを感じた。毛布の温かさに後ろ髪を引かれながら部屋を出る。
キリアは部屋の前の廊下を進む。階段を下り、一階の隅にある洗面所に向かうと、もう一人の少女が前からやってきた。彼女が足を止め、ジト目でキリアを見上げる。
「やっと、起きたのね」
「おはよぉ……リアラ」
彼女があきれたような顔をして、ふうっとため息をつく。
「あなたの朝の弱さは、どこに行っても変わらないのね」
リアラの感情がこもっていない表情と言葉に、責められているようだった。
「うぅ、ごめんなさい……すぐに準備します」
そう言ったあと、彼女とすれ違って洗面所に向かうと、彼女に呼び止められた。
「準備ができたら、談話室に集合。朝食を準備しているから、そんなに急がなくてもいい」
リアラが振り向く。ボブカットで淡いピンク色の髪がさらさらと流れた。少し優しい表情だった、と思う。
キリアは「わかりました」と彼女に伝え、洗面所へ急いだ。
鏡にキリアの姿が映る。とっさに目を背けた。
自分の顔を見るのが苦手だった。この時間がめぐってくるたびに、ゆううつになる。
一瞬見えた寝起きの自分。今日はひどい寝ぐせだった。自然ととため息が漏れる。
蛇口をひねった。勢いよく流れ出る水を両手ですくい、切れるような冷たさをがまんして、顔を洗う。はっきりしなかった頭が、冷水で引き締まる。
水を止めて、洗面台に手を付く。鼻の頭から水滴が一つ落ちた。シンクに吸い込まれていく様子をじっと見つめながら、さっきの夢を思い出していた。
(わたしは誰と何を話していたのでしょう。とても大事なことを話し合っていた気がするのだけど、内容が一つも思い出せない……)
ミーファとリアラを待たせていることを思い出した。
キリアは顔を上げ、洗面台に置いてある自分の道具を取り出し、身支度を始める。
(大切な任務で、はるか北の地に来ている。リーダーのわたしが上の空じゃダメだ)
あの夢を忘れようとした。しかし、忘れようとするほど、意識してしまう。
こびりつく疑問をはらい落とすように、頭をふる。そのとき、鏡の中の自分と目が合った。
胸のあたりまで伸ばしたプラチナブロンドの髪がさらりと揺れる。髪の間からのぞく生白い肌が幽霊のようだ。青緑色の瞳は自分をにらんでいる。
キリアは鏡の中の自分をなるべく見ないようにして、てきぱきと身支度を整えていく。
ノックの音。「はい」と答え、後ろを振り向くと、ミーファがいた。
「仕事着、ここに置いとくよ」
たたまれた仕事着が、どさりと脱衣カゴの中に入る。
「もうすぐ終わります」
「うん。談話室で待ってるね」
ミーファがドアを閉め、洗面所を後にする。
寝間着を脱ぐ。素肌が外気にさらされ、とても寒かった。焦ってミーファが持ってきた仕事着の一つを持ち上げる。
耐寒・耐熱・対刃・対弾性能に優れ、あらゆる状況での戦闘行為に適応する、素肌の上に着るボディースーツだ。とても動きやすいが、装着しづらいのが難点だった。
苦心しながら装着を終え、スーツの上に、組織の制服を着る。
キリアは「よしっ」と気合を入れ、頭を切り替えた。
朝食を終えたキリアは、ミーファ、リアラとともに談話室でテーブルを囲んでいる。今後の予定を立てるため、改めて作戦内容を確認することになったためだ。
「わたしたちは、現在、敵本拠地を特定するための偵察任務についています。
解析班の調査で判明しているのは、敵本拠地はここから北の方角にあること。『レンヌ・ル・シャトー』と呼ばれていること。近くには『大釜』と呼ばれる地域または施設があることです。
これらの真偽および詳細を調査します」
はい、とミーファが手を挙げる。
「その情報はどうやってわかったのか、もう一度教えて? 出発前に聞いたけど、解析班の人たちの小難しい話は理解できなくって」
「敵側の通信の傍受や、敵の出現分布を解析した結果です。敵はこの地から発生、もしくは出発している可能性が高いということでした」
キリアの説明を、さらにリアラが補足する。
「電子的調査は、そこまでが限界。なぜならこの地域一帯は、衛星写真が写せないから。敵組織にとって、隠したいものがある。それが敵本拠地。そんな推測もできてしまう」
「そう」キリアが引き継いだ。「だから偵察を行って、確かめます」
「あたしたちが直接見ないと、何もわからないってことだ」
ミーファは人懐っこい笑顔でひとつうなずいた。
キリアはテーブルにタブレット型の情報端末を置き、地図アプリを起動する。この地域の地図が表示されたあと、一点を指さして、説明をはじめた。
「現在地は、ここ。衛星で確認できる最北端の街。ここを拠点にして、調査を続けましょう」
ミーファが現在地の北に広がる山を示しながら応えた。
「昨日の夜、あたしの力を使ってみたの。そしたら、この山の向こうから、敵の力を数えきれないほどたくさん感じたわ。力の強さはさまざまだったけど……」
リアラが淡々とした表情と声で、ミーファの言葉に付け加える。
「私も、昨日街で聞き込みをしたわ。ここでは、北の山を越えることは禁忌なんだって。誰も山の向こうのことを知らないみたい」
もう一度情報端末を操作し、今度は報告書を表示させる。
「解析結果でも……『大釜』はイドラの存在確率がとても高い場所、とある……」
キリアは部屋の中の冷えた空気をはねのけるように声を張り、二人に告げた。
「決めた。今日は、このエリアを探索します。ミーファの言葉や、解析結果が示すとおり、イドラの出現が多いようです。気を引き締めて行きましょう!」
「了解!」
ミーファとリアラが打てば響くような返事をしたあと、互いのこぶしをぶつける。
同じように、キリアもミーファとリアラ、それぞれとこぶしをぶつけた。
高まる意欲とともに、キリアはこれから向かう場所の地図をじっと見つめていた。
キリアたちは街を出て、北上を開始する。
北の山のふもとまで約二時間。空は、相変わらず、厚い灰色の雲が垂れこめていた。
ここまで飛行機やヘリはもちろん、動物や鳥、果ては虫にも出会っていなかった。周囲の植物も枯れる寸前のように生気がない。まるで生命が死に絶えた大地のようだ。
周辺の静けさも手伝って、キリアは別の世界に足を踏み入れたような感覚におそわれていた。
自分の情報端末から定時連絡の時間を知らせるアラームが鳴った。それを確認し、後から来るミーファとリアラに伝える。
「この辺りで一度休憩にしましょう」
キリアたちは、間近にあった開けた土地に入った。
その一角に、腰を掛けるのにちょうどよい岩場があった。
ミーファとリアラが、そこに腰かけ、思いおもいに汗を拭き、水を飲んでいる。
キリアは、二人から離れた岩に座り、自分の端末を起動し、ボイスメッセージの録音をはじめた。メッセージの相手はキリアたちの上官、ジュリアだ。感情を表に出さないように、ここまでの経過や現在の状況、これからの予定を端末に吹き込んでいく。
「……以上、キリア」
三分ほどでボイスメッセージの録音を終えた。音声データを暗号化し、出発した宿に敷設した中継デバイスに向けて無線送信した。
キリアは、詰めていた息をはく。肩の力もいっしょに抜けた。
端末をぱちんと勢いよく閉じて、抱える。ミーファとリアラの元に戻ろうと振り向いたとき、二人がすぐそばにいた。
「うわっ! な、なに? 聞いていたのですか?」
「まだジュリアさんとのことを引きずっているの?」
ミーファが、まるでキリアの健康状態を丁寧に診るように、顔を覗き込んで確認する。
「そっ、そんなこと、ないです……」
「今までと比べて、ぎこちない。ふてぶてしさもあった」
リアラは、キリアの横でそっぽを向いて独り言のようにつぶやく。
「そんなことない」
「いっしょに活動を始めてもう二年目よ? キリアのこと、ちゃんと見てるんだから。辛くなったら、いつでも話して?」
キリアはミーファの言葉に対して何も反応せずに、端末を持って元の場所に戻った。
涙がじわりとにじみ出る。それは、二人の言葉の温かさに感動した涙なのか、ジュリアとの口論で傷つけられた心を癒せずにいる涙なのか、はっきりしなかった。
「わたしは、大丈夫」
自分に言い聞かせる。目に溜まった涙をぬぐい、端末をバックパックに戻した。
キリアたちは休憩を終え、出発の準備をしていた。
そのとき、ミーファがはじかれたように顔を上げ、前方を凝視する。
手をかかげ、キリアとリアラに静止を促す。そして、鋭く、危険を告げる声を発した。
「十一時方向。三十メートル先の樹の上。数、一。鳥型イドラ。敵だ!」
ミーファは、さっきまでは持っていなかったアーチェリーの弦を引き絞っている。弓と弦の間に、発光する粒子が集束。矢が現れた。
彼女が、その矢を放つ!
矢は、吸い込まれるように、ミーファが告げた方向へ飛んでいく。
そこにいた「イドラ」と呼ばれたカラスのように真っ黒な鳥は、甲高く鳴いた直後、矢に射抜かれた。墜落せず、空気に溶けるようにすうっと消えていく。
「ごめんっ! あいつに鳴かせてしまった!」
ミーファが弦に指をかけ、前を向いたまま、二人に伝える。
「ミーファ、リアラ、周囲を警戒して! 鳴き声に呼び寄せられた敵が来ます!」
三人は広場の中心で、背中を守りあって、敵の姿を探す。
キリアたちの敵。それは、イドラと呼ばれる真っ黒い怪物だった。
――イドラとは、精神エネルギーが凝縮し、実体化した存在だ。
精神エネルギーとは、約四十年前に存在が確認された、人間の思いや気持ちの強さが物理的な干渉力を持った「アドミレーション」のこと。イドラは、思い込みや偏見、妬み、恨みが主成分である黒色の「イドラ・アドミレーション」で構成されている。
実体化の際、周囲の環境に適応するようにかたちを変え、動物型、鳥型、虫型、植物型など、現存する生物と同様の姿にして、最適化を行っている。また、幽鬼型、精霊型、亜人型など、自然界には存在しないイドラもおり、それらの個体は、アドミレーション内に残った人間の記憶の残滓をもとに、かたちを変えているようだ。
また、イドラはアドミレーションを糧とする。人間が発する無色透明なアドミレーションを好んでいる。体内に取り込んだ後、イドラ・アドミレーションに変換して、自分のかたちを維持しているのだ。
アドミレーションを過度に抜き取られた場合、人間は心を失い、最終的に命を落とす。イドラは人類の天敵となりえる存在だった。
百年以上前は「イドラ現象」と呼ばれ、まれに観測される黒色のかたちを持たない物体にすぎず、近づいてきた人間を襲う程度の怪奇現象の類だった。
しかし、今から約三十年前、実体化したイドラが組織的な破壊活動をはじめた。
そのときから人類の平和と安全が脅かされているのだ――
「二人とも! 『輝化』です!」
キリアは右手を胸に当てたあと、横に払い、二人と同時に、宣言した。
「輝け!」
キリアの胸から朝焼けによく似た紅黄色の光が溢れ、全身を包んでいく。
他の二人も異なる色の光に包まれていた。
光の中、からだの中心から外に向かって、騎士甲冑のような「輝化防具」が装着されていく。からだ、両脚、顔、両腕と光の移動に伴って防具が形成されていった。
紅黄色の光は、キリアの両手に集束する。
右手の光から、意匠が優美で格式を感じさせる「輝化武具」の長剣「キャリバー」が、左手の光から、十字型の盾が現れた。
長剣の柄を握り、一振りすると、両手に集束していた光がはじけ、微細な粒子となり、きらきらと輝きながら周囲に散らばった。
ちら、と横を確認する。二人とも輝化を終えていた。
ミーファの輝化防具は、軽装の鎧。大きな矢が六本入った矢筒を背負っている。左手には、先ほど鳥型イドラを射抜いたアーチェリーをにぎりしめていた。
リアラは、全身をすっぽり包むフード付きのローブをまとっている。右手で、輝化武具の杖をくるくると回して、もてあそんでいた。
――キリアたちは「アイドル」だ。
アイドルとは、イドラに対抗する力を持つひとの総称。普通のひとには存在しない脳の新領域「聖杯」を持っている。
聖杯から湧き出てくる個人特有の色を持った「アイドル・アドミレーション」を励起して、物質化した、輝化武具や輝化防具をまとい、超常の力を発現することができるのだ。
人類がアイドルの発見、そしてイドラに対抗する組織を作り上げるまで、十年ほどの時間がかかった。
イドラの組織的な活動の激化にともなって、国際的な危機感が高まっていく中、人類が最初に着手したのは、敵を知ることだった。
国連の一機関として、「イドラ現象の解析と対策を検討する委員会(a Committee of Idola phenomenon Analysis and Countermeasure)」略称CIACが、世界各国の協働で設立された。民間で行われていたイドラやアドミレーション研究のすべてを引き継ぎ、世界中の英知を結集することで、早期に成果を出そうと、本格的に活動を開始する。
やがて、それらの研究における、不断の努力と奇跡的な偶然が重なった結果、イドラ・アドミレーションの対となる存在、アイドル・アドミレーションが発見された。
アイドル・アドミレーションとは、多様な考え方を受け入れる心や、挑戦的な思考、困難から逃げない気持ちが主成分の精神エネルギーである。
さらに、イドラ・アドミレーションとアイドル・アドミレーションを接触させたとき、二つのエネルギーが相克し、互いに消滅することが判明した。これがきっかけとなり、CIACの主導で、イドラ現象に対抗する組織の準備がすすめられた。
そして、今から二十年前。CIACと権限的に同列に位置する組織として、「国際対イドラ現象機関(International System of Counter Idola phenomenon)」略称ISCIが発足する。
そのISCIが、世界の国や地域に示したのは、「プロダクション制度」だった。
イドラには、通常兵器による攻撃はまったく通用しないため、各国の国防計画上、アイドルの育成と管理は国家の最重要戦略となっている。その運用を担う組織として「プロダクション」を創設するという制度だ。
ISCIが、世界中のプロダクションを統括し、プロダクションが、アイドルの育成、管理の実務を行う。ひとたび、イドラの襲撃があった場合は、アイドルたちが立ちふさがり、アイドル・アドミレーションを駆使して、イドラを退治する。それをプロダクションや、ISCIが全面的にサポートする。人類がイドラに対抗する仕組みが、ようやく整ったのだ――
そして、今。キリアたちは、イドラと対峙している
キリアの目の前に、熊のような見た目の獣型イドラが三体、姿を現した。
「前方十メートル。数、三。獣型イドラです」
続けて、背中を預けたミーファとリアラからも敵の出現が知らされる。
「あたしの方は、さっきの鳥型イドラと同種が六羽。リアラ、そっちは?」
「こっちは植物型イドラ。数、二十……いえ三十。このあたりの落葉樹と見た目が同じ」
キリアは二人の戦況予測を確認する。
「問題は?」
「ない!」
二人の自信に満ちた声を聞き、「わたしもありません!」と応える。
キリアは右手の長剣と左手の盾を構え、腰を落とす。
「ISCI直属のアイドルユニット『カリス』としての実力、見せてやりましょう!」
「了解!」ミーファ、そしてリアラの短い返事を聞いて、キリアは開幕の合図を告げた。
「ライブ、スタート!」
キリアは、盾を掲げて、イドラに向かって突進する。
対イドラのライブは久しぶりだった。
(イドラ退治は、気が楽だ。嫌なことを考えなくて済む)
三体のイドラの内、小さい二体が前に出る。するどい爪が繰り出されるが、一体目の爪をかわし、もう一体の爪は盾で防いだ。
キリアは、一体目の前足を長剣で斬り落とす。そして、盾でイドラを押し込み、バランスが崩れたからだを剣で突いた。
剣を引き抜いたあと、後ろにしりぞき、相手との間合いをとる。
二体のイドラを観察する。イドラは、足を切り落としても、胴体を貫いても、動ける限り動き続ける。唯一の弱点である「擬似聖杯」を探す。
――疑似聖杯とは、イドラの体内にある、固く凝縮したイドラ・アドミレーションのことだ。ほとんどが器のかたちをしており、イドラがその姿であるために必要なものだった。言わば、そのイドラのコアだ。
普段、イドラの体内に隠されているが、死を迎える直前に体外に表出する。アイドルのイドラ退治は、この現象を利用している。つまり、アイドルはイドラにダメージを与え続けて、コアを露出させ、それを破壊してイドラを消滅させるのだ――
剣を突き刺したイドラの胸から擬似聖杯が浮かび上がってきた。
キリアは再び突撃し、間合いを瞬時に詰めて、それを突き壊す。そして、もう一体のイドラが繰り出した二つの前足による爪攻撃を盾で防ぎ、擬似聖杯ごと胸を袈裟懸けに斬った。
二体のイドラが、その場に倒れ、空気に溶けるように消滅した。
その直後、大きな地響きがキリアを揺らす。
見上げるほどの黒いかたまりが前方から突進してくるのに気づく。
自然では絶対にみることができない大きさの熊。そのかたちをしたイドラだった。
からだの前面に、盾をしっかりと固定する。
イドラは前足を大きく振りかぶり、突進の勢いそのままで前足を振り下ろした。
盾と激突する! 重心を低く、前に保ち、攻撃の勢いを受け止めた。
「ぐっ! うううっ」
二メートルほど後ろに突き飛ばされるが、体勢は崩されていない。
すぐに構え直し、目の前のイドラを確認した。
身長を二倍してもまだ足りないような巨躯だった。
イドラが仁王立ちして、口を大きく開け、大地を揺らさんばかりに吼えた。
キリアは、かたかた、きしきしと音がしているのに気づく。武具や防具がこすれ合う音だ。
右腕がふるえていた。
このふるえは、武者震いだ。久しぶりの戦闘に、気分が高揚している。
その証拠に、キャリバーが輝きだした。
キリアの輝化武具であるキャリバーの特性は、聖杯の状態によって、その硬度や切れ味が変化することである。今のような高揚状態や、ゆるぎない覚悟、強い意志で聖杯が満たされ、精神エネルギーがあふれることで、硬く、鋭くなる。
キリアは、盾の輝化を解除した。アドミレーションに還元し自分の胸に戻す。
キャリバーを両手で持ち、からだを引き絞るように構え、うなり続けている巨大なイドラと視線を合わせる。すると、イドラが射すくめられたかのように、黙る。
一瞬の沈黙。
からだを沈めて、キリアが走り出した! 視界と思考が目の前のイドラに集中する。
速度を上げ、踏み切る。キリアは飛び上がった。
イドラが、前足を突き出す。
キリアは、長剣を振り下ろす。切っ先からアドミレーションの斬撃が飛び出した!
斬撃が前足を断ち、胴体を両断。体内に隠れていた擬似聖杯まで破壊した。
キリアは跳躍の勢いそのままにイドラを飛び越し、後ろを振り返る。巨大なイドラだったものは仰向けに倒れ、先の二体と同じように消滅していった。
キリアはミーファとリアラの様子を確認する。二人とも、無事に戦闘を終了していた。
ミーファの方では、矢が突き刺さったまま、地面に墜落した六羽の鳥型イドラが消滅していくところだった。ミーファが伸びをしながら、得意な顔をしてこちらに歩いてくる。
リアラの方は、あたり一面が炎の海に沈んでいた。三十体の植物型イドラが業火の中で苦しんでいる。やがて、からだの消滅がはじまった。リアラ自身が熱さにがまんできなかったのか、フードを下ろし、ローブの前を開けながらキリアに合流する。
「二人とも、おつかれさまです。損害は?」
「損害なし」
ミーファも、リアラも笑顔でキリアに答える。
キリアは「わたしもない」と報告し、三人でこぶしを突き合わせて、勝利を祝った。
「またイドラが出現するかもしれない。早くここから移動しましょう」
キリアは勝利の余韻に浸る間もなく二人を促す。
二人ともに「了解」と応え、荷物をまとめ、再び北を目指して移動を開始した。
(今回の任務、必ず成功できる!)
キリアは、移動しながら、手応えを感じていた。
(久しぶりの対イドラ戦闘も危なげなく勝利することができた。ミーファとリアラも調子がいいみたい。気を許せる二人だからか、とてもやりやすい)
この任務はレベルSの高難易度ミッションだった。敵組織は、イドラを率いて世界に混乱をもたらす組織。ISCIが最も注意する「ノヴム・オルガヌム」だった。
これを成功させれば、敵本拠地を暴くことができる。
これはきっと、ISCIにとって大いに役立つ情報となるに違いない。もしかしたらイドラとの戦いの局面を一変させ得るかもしれない。
(それほどの実績なら、間違いなく、ジュリアさんに、わたしを認めさせることができる!)
キリアは一週間前に起こった、ジュリアとの口論を思い出した――
*
「待って!」キリアはジュリアを呼び止めた。
「どうして認めてくれないんですかっ? なんで……もっとわたしを見てくれないの!」
この数年の間、わだかまっていた心の叫びをぶつけた。いつもより強い口調になる。
ジュリアは、面倒なものに出会ったような表情で、キリアのことを突き放した。
「……もっとトップアイドルとしての自覚を持ちなさい。その言葉は、あまりにも幼稚だ」
キリアは、めまいがするほど衝撃を受けた。ようやくジュリアさんの望みどおり、「アイドルランク」が最高の「フィフス」となり、名実ともに「トップアイドル」となったのに、ジュリアさんがまったく称賛してくれなくなってしまった。数多くのひとから慕われても、彼女にほめられなければ、キリアにとって、意味がない。
(ジュリアさんに認められるためにがんばったのに、なぜこんなことに……)
キリアはジュリアに対して、怒りのようなものまで感じていた。そして言った。
「ジュリアさん! まだ足りないんですよね? もっと頑張らないといけないんですよね?」
「キリア……」ジュリアがあきれた様子で続ける。「そうじゃないんだ。君はもう……」
「わたしっ、あの『偵察任務』に志願して、受理されました! あれを成功させればジュリアさんも認めざるを得ないですよね」
ジュリアが目を丸くする。
「ばかものっ! あの任務は危険すぎる! すぐに辞退しなさい!」
「いやです! もう決めたんです。ミーファとリアラも協力してくれます。トップアイドルの実力があれば、やり遂げられますっ!」
「なんてことをっ……あの任務は、私に決裁権がないんだぞ! それでは君をま……」
「ジュリアさんのために、絶対に成功させてみせますっ! だから」
ジュリアの顔が苦渋と怒りに満ちた顔となる。
「勝手にしなさいっ!」
彼女は一度も振り返ることなく、先へ行ってしまった。
*
苦い思い出だった。しかし、任務成功の確信といっしょなら、味わい深い。
(ジュリアさん……。五年前と同じように、わたしのことを認めてください! あなたのことをわたしに信じさせて。もう争いたくないっ……)
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