第2話
肌を撫でるような風が汗でべとべとになった肌を撫でる。一気に吸い込みたくなるような澄んだ空気が漂っていて、目を瞑っていてもここがさきの地獄とは違う場所にいることが分かる。
目を開けるとそこには、北海道の牧場を連想させるような草原が一面に広がっていた。
「——どこだよ。ここ」
一瞬周りの景色に圧倒され、考えることを放棄したが、冷静に今の状況を把握しようと試みる。
(ついさっきまで駅までの道を死にそうになりながら歩いていて……。あーーー。気絶したのか)
「———」
おかしい。暑さで気絶したのは分かる。それは分かるのだが、せめてベットの上で目を覚ましたかった。
(俺はいじめられているのだろうか)
確かに、水曜日のダ〇ンタ〇ンで同じような企画を見たことがあったが、悠真は一般人でありリアクションもそんなに面白くない。そもそもこんなことをする需要も理由もない。
「よし。取り敢えず人を探そう」
グダグダ考えるのはやめて今度こそ冷静になる。とりあえずここがどこなのかを把握したいため人を探すことにした。それにしても周りは草原以外何もない。草原の先には山脈が連なっている。
「——取り敢えず歩くか」
まったく変わらない景色の中を歩き続け、もう一時間が経過しようとしている。
「あーー。しんどい。今日は何でこんなに歩かなきゃいけないんだよ。本当に向き合えない」
さっきの灼熱地獄より幾分ましだが、一面草原で風景が変わらないこと、ゴールが全く見えないことが、精神的苦痛を引き立てる。
加えて、一週間以上ろくな働きをしてこなかった足が、このハードワークに耐え兼ね悲鳴を上げ始めている。
ここで足を失えば、誰も見つからなかったという最悪の事態に直面した時、最も重要である移動手段が失われてしまう。
それは何としても避けなければならないと思い、休憩をとるため、草原に座り込もうとした。
その時。
百メートルほど前方に黒い影が出現した。
「なんだ、あれ」
悠真は、足の悲鳴を無視して、あの黒い影の正体が確認できる距離までゆっくり近づく。
(岩か? いや、動いてるな。なんかの動物か?)
真っ黒な毛皮に包まれ、毛の一本一本が風に揺らされている。
五〇センチはあるだろうか。二本の鋭い牙が太陽に照らされ炯炯と光っている。目と思われる部分は、赤黒く淀んだ色をしていて、絶対的な異常さを感じさせる。
綺麗な草原に、蠢く異質な何か。このギャップが異様な空気を漂わせている。この時点でこの黒い何かは、人間ではないことははっきりしている。
だから、逃げるべきだったんだろう。それが、異質であり異様な存在だと認識したその瞬間に。
しかしこの草原で目覚め、初めて見る生物に意識を持っていかれたためか、或いは足の疲労が限界に達していたためか、悠真は、一歩も動き出すことができなかった。
そして……。
——赤く濁った眼光が俺の姿をとらえた。
「Guaaaaaaaaaaaaaaaa!」
大地を震わす巨大生物の咆哮が、本能的な恐怖を奮い立たせる。刹那、大地を揺らし鋭い形相で近づいてくる。
「これ、もしかしなくてもやばい状況ですかね……」
巨大生物は恐ろしい速さで迫ってくる。
逃げるという選択が最善であることは頭では分かっている。しかし、今まで感じたことのない恐怖が足を運ぶことを拒む。
「ヤバいって。ほんとにヤバいって。動けよ。頼むから動いてくれよ」
まるで棒のように動かなくなった足を手で叩く。しかし、思いと裏腹に足は立つことを放棄し、悠真はその場にへたり込んでしまった。
もう巨大生物はすぐそばまで迫ってきている。もし今、足が動いたとしても逃げきることはできないだろう。
(あぁ……。死にたくないな。俺はこのまま、あの太い牙で串刺しになるのだろうか。そんな惨い死に方したら両親にも最愛の妹にも顔向けできないなぁ。ごめんなさい。先立つ不幸をお許しください。せめて……。せめてもう一度、妹の顔を見たかったなぁ)
悠真は、走馬灯のように妹の顔を思い出す。絶対に忘れることのないあの笑顔を……。
——刹那。
金色に輝く美しい髪が目の前を通り過ぎた。
「
力強い声と同時に光り輝く鋭い剣閃が視界に一線を引く。そして、その美しい光が消えたのとほぼ同時に、巨大生物の断末魔と思われる咆哮が大地を揺らした。
「すごい……」
赤黒い血を流して倒れている巨大生物。その前に立つ細い剣を持った少女。とても現実とは思えない光景に、悠真はただただ驚愕することしかできなかった。
「大丈夫?」
少女は、細い剣についた赤黒い血を一振りで落とし、鞘に剣を戻しながら振り向いた。
長くてきめ細かい金髪に、綺麗で澄んだ緋色の瞳。顔立ちは、まだ幼さは残っているが美しいという表現がマッチするであろう美形。全身には小さめの鎧をまとっていて、漫画やアニメに出てくる美少女剣士を体現しているようだ。また、この小さめの鎧が彼女の綺麗な体のラインを強調していて、いい塩梅を醸し出している。
「綺麗だ……」
あまりの美しさに思わず声が出てしまった。
すると少女は、座り込んでいる俺に視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「大丈夫って聞いているんだけど……。聞こえてますか~~」
完全に思考停止していたが、少女の言葉で我に返る。
「あ、うん。聞こえます。えーーと、大丈夫です。助けてくれてありがとうございます。このご恩は、生涯忘れません」
悠真は命の恩人である少女に深々と頭を下げ、いわゆるジャパニーズ土下座をしっかりきめた。助けられたときはしっかりとお礼をしなさいという母からの教えを守り、ありったけの誠意をその土下座に込める。
すると少女は、クスッと笑い、口を開く。
「君、面白いね。——そっか、そっか。大丈夫ならよかったよ。私は、エミル。エミルって呼んで」
悠真は、精一杯の誠意を込めた土下座が不発に終わり少し気を落としたが、少女の自己紹介に答えなければいけないと思い顔を上げる。
「林道悠真です。悠真と気軽にお呼びください。この度は助けてもらい誠に感謝しております」
あまりにもかしこまった悠真の返答に少しバツが悪くなったのか、エミルは苦笑し口を開く。
「敬語じゃなくていいよ。見たところ年もそんなに変わらないだろうし」
ちなみに悠真は一七歳で、来年には受験を控えたピチピチの高校生だ。エミルもおそらく高校生くらいの年だろう。
悠真は、エミルのありがたい要望に応えるように立ち上がり手を伸ばす。
「そうか。よろしく。エミル」
エミルは悠真の変わりように少し困惑した表情を見せたが、すぐに元の凛々しい顔に戻り、悠真の手を握り返す。
「こちらこそよろしくね。ユウマ。——ところで、どうしてこんなところに何の装備も持たず一人でいたの?」
エミルはそっと手を下ろし悠真に問いかける。
確かに悠真は何も持っていなかった。運んでいたはずの壊れたPCも今は持っていない。
この原因不明の状態に悠真は自分が置かれている状況を整理する。それでも、自分が途方もない場所にいること以外全く分からないので、とりあえず、何らかの原因を知っているかも知れないエミルに状況を説明する。
「それが……。全く分からないんだよ。家を出て歩いていたら気を失って……、目を覚ましたらこの草原にいて……、人を探してたら巨大な化け物に襲われて……。
——って。あの化け物は何だったんだ!」
エミルの美しさに気を取られていたからなのか、あの異常な化け物のことを忘れていた。あんなに恐ろしかった出来事を忘れさせるなんて、エミルの美貌もなかなか恐ろしい。
説明を始めたと思ったらいきなり大声を上げた悠真に、エミルは少し驚きを見せながらも口を開く。
「あれは魔獣だよ。知らないの? この国で生活しているなら一度は目にしたことあると思うけど……」
エミルの返答に悠真は首を傾げた。今、エミルは『この国』といった。『この国』とはどの国のことを指しているのだろうか。少なくとも日本にはあんな化け物じみた巨大生物はいない……はずだ。それにエミルは、生活していたら一度は目にしたことがあるとも言っていた。加えて、名前が魔獣ときた。
(まずいな。マジでわけ分からんくなってきたぞ。てか、日本以外の国だったとして、化け物が日常にいる国ってどこよ。そんな国あるはずないだろ。いや、例えあったとしても知らないはずがない。そんな恐ろしい国が今までニュースにならなかったはずがないし、どんな小さな情報でも見逃さない今のネット社会が、そんなネタになる国を見逃すはずがない)
考えても混乱するだけなので、悠真は、この問題の核心を突くであろう質問をエミルに問いかける。
「その国ってのは、なんていう名前なんだ?」
エミルは、悠真の問いがまるで愚問であるかのようにクスッと笑った。
「国の名前は、アストミア。アストミア帝国だよ」
アストミア帝国。エミルは確かにそう言った。
悠真は確かに驚きはしたが、驚愕はしなかった。おそらく、薄々気付いていたのだろう。まるで写真のような広くてきれいな草原。存在すら認めることができない謎の巨大生物。日本語を流暢にしゃべる金髪美少女。この平和な時代に必要とは思えない剣と鎧。金髪美少女が放った光り輝く剣閃。これだけ見ても、自分が知らない世界、つまりは異世界にいることは嫌でも想像がつく。
それでも、もしかしたら、ここは地球上のどこかに存在する国であるというわずかな希望を持つ人もいるかもしれない。しかし、悠真には、それはできなかった。何故なら、エミルが言った国の名前、『アストミア帝国』、それは、悠真にとって、下手したら日本よりも思入れのある国の名前だったからである。
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