第十四章 「フラッシュバック」
まぶしい光を嫌って、目を閉じた。大きな音。そして、震動。からだをこわばらせて、じっとやり過ごす。
やがて、まぶたを照らす光が消えた。今度は、静寂がその場を支配する。突然、顔をそむけたくなる異臭が漂ってきた。
ルナが、そっと目を開けると、そこは薄暗い小部屋だった。
天井のすき間から漏れる、か細い光で周囲を確認する。野菜の入った大きなカゴ。穀物が詰められた大きな袋。積み上げられた缶詰。壁に据え付けられた棚には食器や調理器具。
どれもこれも整理されていた。しかし、よく見ると、野菜は腐りすえた臭いを発し、穀物は床にこぼれ、缶詰にはほこりがかぶり、棚ではかさかさと虫が這っていた。
どこかの家のパントリーようだ。自分はなぜここにいるのかを思い出す。
(そうだ。逃げてきたんだ。あの雄牛のイドラから……)
ルナは、息をひそめ、細く小さなからだを抱えて、震えている。
(どうして、こんなことになったのだろう)
ルナは、母親の言う通りにイドラに戦いを挑んだことを後悔していた。やったふりをして逃げればよかったのかもしれない。
それがばれたら、母親は機嫌を損ねて手が付けられなくなる。自分が不快な思いをしてしまうのだが、今回ばかりは、そちらの方がマシだった。
黒い雄牛と向き合ったときを思い出すと、震えがひどくなる……
ビルの屋上。けむりが漂う不穏な空。焦げ臭さをがまんして、雄牛のイドラを待ち伏せた。
姿を見せた瞬間。イドラの頭部に全力のアドミレーション攻撃を当てる!
イドラが、こちらに振り向いた。
ルナのからだの何倍もある、黒一色の厳めしい顔。それに付いた瞳だけ、ぎらぎらと黄色に輝いている。それに目が引かれた。
その瞬間。動けなくなった。射すくめられた。
ルナはその場でへたり込む。このままイドラの気を引いて、郊外まで誘導しなければならない。こんな場所で止まっていられない。
勇気を奮って、なんとか立ち上がる。すると、イドラに変化があった。
ぐぐぐっと雄牛のかたちが歪んでいく。横倒しにしたビルのような巨躯が、二本脚で立ち上がった。ごつごつした筋肉。それがむき出しのまま、ひとのかたちになる。
あの黄色の瞳が、ルナをじっと見つめている。まるで、記憶に焼き付けるように。
さらなる変化が始まった。今度は、からだがどんどん縮んでいく。
ルナは気づいた。見入っている場合ではない。
屋上からイドラとは逆方向に飛び降り、北に向かって全速力で駆けだす。
すると、立ってはいられないほど空気を震わす、大きな破壊音が聞こえた。
日常では絶対聞くことがない、大きくて派手な音。ルナは驚きとともに、後ろを振り返る。
そこに……ビルはなかった。代わりに立っていたのは、人間サイズにまで縮んだ、あの雄牛のイドラだった。
遠目でもわかる、肩や胸や太ももが異常に盛り上がった筋骨隆々なからだ。ごつごつといくつもの筋肉のこぶが整然と並んだ体幹。逆三角形という言葉がぴったりの巨躯だった。
額には二本角。角の下に、あの丸く黄色い瞳があった。手には、何の飾りも持ち手もない大きく武骨な棍棒をにぎっている。
再びルナと目が合った途端、イドラは彼女の方に向かって歩き出す。ルナは、わき目もふらずに逃げた。追いつかれぬよう、何度も方向を変えて、ひたすらに駆けた。
そうして、たどり着いたのが、ここだった。屋根や壁に大きな穴が開いた、郊外にある無人のロッジ。放置されて長いのだろう、生活感がまったくない。良い隠れ場所だと信じ、中に侵入し、入り口から奥まった場所にあるパントリーの中に潜んだ。
……静かだった。もう、あのイドラは追跡を止めただろうか。
そう、思った矢先、どおぉん! という地響きが静寂を破った。
アドミレーションを感じる。雄牛のイドラだった。
(こんなところまで追ってきた! どうしてわかるのよ!)
飛び出てきそうな叫び声を懸命に押さえ、耳を澄まして、外の音を聴く。
どしん、どしんという音が、少しずつ大きくなる。
その音が止まった。次の瞬間。どがああぁっん! という爆発するような音とともにロッジ全体が激しく揺れ動く。
揺れがおさまったあと、再び足音が響く。その振動が、この部屋まで届いている。
ごぉん! がちゃん! ばりっ! 悲鳴がのどまで達する。口を手でふさいで押し戻す。
あのイドラが、小屋の内装を破壊しながら歩き回っているのだろう。
「アドミレーション……アイドル・アドミレーション……」
うわごとのような声が聞こえてきた。あの姿にふさわしい重低音。しかし、小さな子どものようにたどたどしい。
物が手あたり次第に壊されていく騒々しさと、だんだんと近づいてくる足音。
ルナは祈った。見つかりませんように。見つかりませんように!
どがんっ! ばりばりっ! 大きな音とともに、上を見上げる。
天井が……なくなっていた。
開いた穴から、月明りを背負った影が現れた。その影の主は、影よりも黒くて暗い、巨躯のイドラだった。イドラの持つ棍棒に引っかかていたパントリーの入り口がごとん、と落ちる。
イドラが、からだを縮めて、地下を覗きこむ。至近距離で目が合った。
その顔は、雄牛のときのような厳めしい顔ではなかった。つるりとして整った顔立ち。柔和な表情。二本角と、あやしく輝く瞳がアンバランスだった。
イドラが口を開く。三日月のように横に長く裂けた。
「ミツケタ……」
「ひっっ!」
伸びてくる黒くて太い手。選択を迫られた。闘うか……。逃げるか……。
「ううっ、わああぁぁっ!」
ルナは、床下から飛び出す。右手にナイフを輝化し、イドラの首をねらう。
生きのびるため、からだに活をいれるため、声の限りに叫んでいた。
太い首筋にナイフが届こうとした刹那。イドラの瞳が細められる。これは……喜び?
次の瞬間。横合いからものすごい衝撃。弾き飛ばされ、キッチンの壁にたたきつけられた。
もうろうとする意識の中、イドラの方を見た。右手に持った棍棒がルナの方に向いている。あれで殴られたのだ。
イドラがこちらに近づいてくる。
立ち上がる。しかし、頭を揺らされた影響か、めまいがして、その場にくずれ落ちる。
目の前にイドラが立ちふさがった。
見上げるほどの巨躯。ルナのすべてを覆いつくすような圧倒的な存在。
濃密な霧状のイドラ・アドミレーションが噴き出した。それがルナのからだに触れたと同時に侵入してくる。そして、いとも簡単にルナの聖杯まで届いた。
聖杯浸食が始まっていた。なぜかがわからなかった。ルナの聖杯にはアイドル・アドミレーションが残っているにも関わらず、始まったからだ。アイドル・アドミレーションを押しのけて聖杯に蓄積されているようだった。
イドラが、左手でルナの首をつかむ。そして、軽々と持ち上げた。
足が宙をかく。壁に押し付けられる。首が絞まっていく。息が詰まる。
丸太のような腕をつかみ、からだを持ち上げた。必死に呼吸を試みる。
涙とよだれで濡れる顔。声も出せない。苦しいと表現できない。
イドラの腕をナイフで切りつける。刃が食い込まない!
左のほおに、棍棒がぐっと強く押し当てられた。
「オトナシクシロ……ツブスゾ」
「ひっ……あぁ……は、い……」
ルナの恐怖は限界を超えていた。抵抗をやめる。ナイフが床に落ちる。ぱりん、と微かな音を立てて、消滅した。
呼吸だけは続けるために、イドラの腕を両手でつかむ。まるで死を免れたことに対して、感謝し、手を組んでいるようだった。
イドラからあふれ出る膨大なアドミレーションが、ルナの首を絞める手から直接注ぎこまれる。イドラの瞳が、また細められた。
イドラ・アドミレーションが、聖杯に満たされ、あふれた。
聖杯の形状が歪む。それがわかった。変わってしまった。変えられてしまった。
ほどなく意識を失った……。
ルナが目をさました。
今のアタシは、十六歳。リンと戦って……、負けてしまった。
地べたに倒れていた。傷の痛みや疲労が、現実感を取り戻してくれる。
(あれが、マリアでもすくい上げられなかった記憶……)
あのあと、母親にセル・フロスを無理やり飲まされたのだ。
抑え込んだままでよかったものだ。もうあんなものと向き合いたくない。語りたくない。意味を持たせたくない。
あんなものを思い出させたリンが許せない!
空中のリンを見上げる。宙でふらふらとしていた。
四枚の翼が機能していないのだろうか。バランスを失い、空中から落下した。
翼が、落下のスピードを抑え、静かに落着する。
リンは、すぐに立ち上がろうとするが、苦しそうな声を上げて、再び倒れる。
彼女の様子が変わっていた。炎のように噴きあがっていたアドミレーションが消えている。それでも、リンから感じるアドミレーションの量や気配に変わりがない。
どうやら、リンの体内に留まっているようだった。その証拠に、露出した肌を確認すると、まるで、熱せられた黒炭が、赤くぼんやりと輝くように、橙色に発光していた。
からだの輪郭さえぼやけて見える。輝化防具は、すべて溶け、橙色に発光する肌に染み込んで消えていった。
リンが両腕でからだをかき抱く。背中を丸めて、うずくまる。
「あつい……いたい……ううっあぁぁ……」
長く続く、リンのうめき声。
それが途切れたとき、突然、リンがルナの方をじっと見つめてきた。
彼女と目が合うと、違和感を覚えた。
からだと同じように、橙色に透きとおった虚ろな瞳がルナを凝視している。
まるで、獣。いや、獣の方がまだ感情を認識できるはずだ。植物や無機物。もしかしたら、「アドミレーション」そのものかもしれない。話の通じない、思いの欠片もない、容赦のない存在と対峙しているようだ。
リンの瞳が、すっと細められる。
あのときの巨躯のイドラ。丸く、あやしく輝く、黄色の瞳。
「ひっ」
抑えきれない恐怖が全身を駆け巡る。ルナの思考、行動のすべてが恐怖に支配される。それに対して少しも抗えない、と思い込まされてしまう。
倒れたまま後ずさる。抗うことができないなら、一歩でもリンから離れる。
橙色のアドミレーションのかたまりが、背を丸めたまま立ち上がる。両腕をだらりと垂らし、亡者のようにルナの方へ向かってくる。
再体験したばかりの最低な記憶と同じだった。黒か橙かの違いだけ。リンによる聖杯浸食だ。
「来るなぁ! もう、あんなことされたくない! 今度はアタシがするんだ! 誰でもいい、そいつにアタシの恐怖と屈辱をなすりつけるの! それでようやくバランスが取れるのよ。
インフルエンスはそのための力よ! アタシに残った消えない恐怖と屈辱をアタシじゃない誰かに与えるんだ!」
ルナは残りのアドミレーションを振り絞る。
インフルエンスを発現。ゲル状のかたまりが、ぶわっ、と広がり、リンを包み込む。
しかし、リンの橙色のからだに触れた途端、ぶよぶよとしたかたまりは、急速に水分を失ったように、干からび、ぱらぱらと地面に落ちた。
「あぁ……あ、う、うぅっ……」
意味のない言葉が、口から漏れ出てくる。
あのときと同じ。絶体絶命。どこにも逃げ道が、ない。
「いやぁっ! わぁっ! わあああぁぁぁっっ!」
リンが一歩ずつ着実に近づいてくる。
ルナはうつ伏せになり、腕と脚を懸命に動かして、リンから離れるように這い進む。
「はっ! はぁっ! は……ぁ?」
突然、のどが詰まり、声が出せなくなった。今、目の前に、あの巨躯のイドラが映る。大きな手がルナの首へ。そして、ぎゅっと絞まっていく。
「かっ…………はぁっ!」
のどに力を込めて、空気を無理やりに吸い込む。何とか呼吸を取り戻した。
「やめてやめてやめてやめてやめてぇぇ!」
必死に泣き叫ぶ。涙で顔をどろどろにしながら、地面を這って逃げ続ける。
何とかしたいのに、何もできない。みっともなくて、くやしくて……。
アタシは、なんの価値もない人間だ。
リン……。彼女のことが、気に入らなかった。
自分の力を誇示し、彼女よりも上の存在であることを証明して、自分の価値を示そうとした。
マリアさんによって、自分の過去がわかってからは、リンをおとしめることで、自分の価値を示そうとした。
しかし、ルナはリンに負けた。さらに、彼女は、ルナのトラウマと同化した。もう覆せない。
そう認識したとき、ルナは理解した。
これは現実ではない。フラッシュバックだ。四年前のあのときに、巨躯のイドラと母親に刻まれた、驚異的なストレスの再体験にすぎない。
ルナがどうがんばったって、なくなるようなものではなかった。
誰かに助けを求めたって、消してくれるわけがなかった。
ただ、抵抗せずに、静かに過ぎ去るのを待つだけだった。
ルナは、這い進むのをやめ、その場で止まる。
仰向けになって起き上がり、ひざを抱え、座り込む。目だけは迫ってくるリンを、しっかりと見つめていた……
†
あそこに空っぽの聖杯がある……。こんなに大きな力と思いは、ひとりで抱えていられない。
リンがゆっくりと、確実にルナに向かっていく。
ルナが混乱し、パニックするさまを見ていると、聖杯浸食に対する留飲が下がっていった。しかし、そんな彼女の様子だからこそ、やってはいけないことだと思う罪悪感も芽生えてきた。
自分が受けた最低最悪なことを、そのままルナにしようとしている。
そうなりたくなかった。しかし、そうしないと、今のこの自分が治まらない……。
どうして、こんなことになったのだろう。
どうして……こんなに他人のことを気にするようになったのだろう。
これまで、リンにとって他人はどうでもよい存在だった。その考えに至ったのは、単純な理由だった。それは「他人が何をどうしたって、リンの寿命は変わらないから」だ。
それに、母親の影響もあったかもしれない。母親は、「他人に頼らない、他人を信じない。一人で何とかする」と確信して、リンがアイドルを目指すことをサポートした。
そんな状況に慣れてしまったら、自分が強くなればいい、他人を必要としない強さを手に入れればいい、と思うようになっていた。
しかし、母親が死んで、一人になり、プロダクションに入って、アイドル候補者として同じ席を取り合うことが増えると、他人とかかわらずにはいられなくなった。
誰かと比較したり、比較されたりした。自分の言動が誰かに影響したり、影響されたりした。他人に心を動かされ、喜怒哀楽の感情を喚起された。
良いことがあった。キャメロットへの、キリアさんへの激しい憧れ。これも他人に対する強い感情だ。悪いこともあった。今、ルナに対して感じる怒りと憤りだ。
きっと、こちらの環境が普通なのだろう。他人と関わらないとわからないことがあるのだ。
(これからは他人に関わらずにはいられない。
わたしが目指すアイドルの世界は、わたしと母親が過ごしてきたような閉じた世界ではない。
きっと、母親のような生き方では何も成すことができないのだろう。他人と関わり、他人に頼り、他人を信じることができない限り……)
これからの自分を想像すると、とても怖かった。鈍色の空の下、果てのない荒野にひとり取り残される映像が思い浮かぶ。
誰ともかかわることができず、砂漠で干からびて倒れ、誰にも知られずに死んでいく……。
その想像に思いをはせていたとき、リンは気づいた。
他人のことをどうでもよい存在だと決めつけ、関わらずにいた。
それは、その他人にどうでもよい存在だと思われるのが怖かったからなのかもしれない。
四年後。病で死んでしまう自分。他の人たちにとっては、そのような人間が、一番どうでもよい存在だろう。そんな人間になりたくない。どうでもよいなんて、思われたくない。
あと四年しかない。あと四年で、何かにならないといけない。
だから、他人を気に掛ける余裕なんてない。だから、自分で何とかしなきゃいけない。
(でも……どうにもならないの!)
アイドル・アドミレーションに突き動かされるように、ルナに向かって真っ直ぐ進む。歩みを止めることができなかった。アドミレーションも制御することができなかった。
このままルナに触れてしまえば、よくないことが起きるのは容易に想像がつく。
きっと、イドラ・アドミレーションによる聖杯浸食と理屈は同じだ。他人のアイドル・アドミレーションで聖杯が満たされると、その相手に思考と感情のすべてををゆだね、強く依存してしまうのだろう。
それは他人を支配することと同じだ。そんなことをされたくなかった。だから、リンも、そんなことはしたくない。
しかし、このままでは、聖杯が破裂してしまう。
ルナに、今抱えているすべてを擦り付けてやりたかった。でも、本当にそんなことをすれば、彼女を廃人にしてしまう。理想や目標、尊厳を奪ってしまう。
せっかく、イドラ化の危機を退けたのに、大きな後悔と消せない罪悪感を背負ってしまいそうだった。そんなものを抱えたまま、アイドルとして羽ばたくことなんてできない。憧れのキリアさんみたいなアイドルにもなれないし、キャメロットになることだってできそうにない。
「うぐぅぅっ……、ぐっうぅぅ……」
どれだけ歯を食いしばっても、リンの歩みは止まらなかった。橙色のアドミレーションに抗いきれない。ルナから目が離せない。
彼女に触れようと手を伸ばす。勝手に足が前に出る。
もう、自分では、どうにもできない。それなら……
(だれか……)
言い慣れない言葉だった。すぐに口を閉じる。
でも、仕方なかった。こうするしかなかった。どうにもならないなら、いっそ他人を頼り、信じてみるしかなかった。
人生が閉ざされて、苦しくなるより……、そう思うと、心が軽くなった。
リンが叫ぶ。
「いやだっ! こんなことしたくない! だれか! 助けて!」
青く澄み渡った空に、リンの大きな声が放たれる。
遠くに向かって、まっすぐ伸びていった。
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