第一章 「エントリーシート」
息を弾ませて、渡り廊下に飛び出す。
外のひんやりとした空気が、興奮したからだに心地よい。
「きゃっ」
目の前に女性! 衝突寸前で右に避ける。「リン! 気をつけてよ!」後ろから声がかかる。
「ごめんなさい!」
リンは、振り返って、先輩と向き合い、頭を下げる。ぶつかりかけた彼女が「もうっ」と、リンをひとにらみして講義棟に入っていった。
それを確認したあと、回れ右をして、再び走り出す。
午後の穏やかな日差し。
さあっと吹き抜ける風が中庭の木々を揺らす。葉擦れの音が聞こえてきた。
廊下を走る音がリズム良く響き渡る。ファイルケースの中身が、かたこと、と音を立てる。
それらの音が、リンをさらに焦らせた。
(ついに、オーディションがはじまるっ!)
リンは、たった今配布されたエントリーシートを書きたくて、うずうずしていた。
(寮まで戻る? でも、一時間後にレッスンがある。どこか、この近くで……)
向こうの出入り口から、次のレッスンのクラスメイトがやってきた。彼女は、手にカップを持っている。食堂の隣にあるカフェ「グラール」のロゴが入っていた。
(そうだっ、その手があった)
「リン。そんなに急いで、どうしたの?」
「グラール、混んでた?」
彼女は、くびを振る。「すいてた。おかげですぐ買えたよ」
リンは、ぐっとこぶしをにぎって、再び走り出す。
「ありがとっ! またあとで!」
彼女に手を振りながら、渡り廊下を外れて、右方向へ進む。後ろから「リン! 気をつけてね!」と声がかかった。
「わかってる!」まっすぐ前を向いたまま、大声で応えた。
ものの数分で、グラールの目の前まで到着した。
入口の手前で立ち止まり、ガラスに映りこむ自分の姿を確認する。
ふわっと整えたショートカット。橙色に見える明るい茶色の髪が、ぴょこんとはねていた。制服のすそがめくれ、スカートのプリーツも乱れている。
(うわっ)
自分の姿を見て、恥ずかしくなった。
周囲を見回して、誰も見ていないことを確認し、ささっと髪と服装を整える。
息も整えたあと、気持ちを落ち着かせて、店内に入った。
「いらっしゃい」
カウンターに立つお姉さんがやさしく迎えてくれた。
元気に「こんにちは!」と挨拶し、ミルクたっぷりのラテを注文する。
カウンターの奥から、珈琲の心地よい香気と煮立ったミルクの甘い匂いが漂ってきた。
「店で飲んでいくでしょ?」
「はい! あと、お水ください」
「了解。コーヒーは、マグカップに入れるね」
カップに珈琲と泡立てたミルクを順に注がれる。ミルクを注いだ跡が模様になった。
「お待ちどうさま。……リン、また急いで走ってきたんでしょ。後ろの髪、はねてるよ」
あわてて頭の後ろに手を回す。撫でつけ、手ですいて元に戻す。
「えへへ、ありがとうございます」そう言いながら、マグカップを受け取った。
お姉さんはやさしく微笑み、「ごゆっくり」と応えた。
リンは、空いている二人掛けテーブルを選ぶ。手に持っていたマグカップとファイルケースをテーブルに置き、荷物を足もとにあるカゴに入れた。
ラテをひとくち飲む。
珈琲のほろ苦さとミルクの濃厚な甘さを楽しみながら、店内を見渡した。ほかに三人のお客がいた。それぞれが本を読んだり、端末をいじったりしている。静かで居心地が良かった。
(さぁ、いよいよ第一歩だ)
ファイルケースからA4の紙を一枚、大切にひっぱり出し、ペンを手に取った。
紙の左上には、「キャメロット・メンバー オーディション エントリーシート」と書かれている。その文字を見ただけで、ぞくぞくしてきた。
最初の項目は、氏名だ。
「リン・トライスト」
書きながら、自分の名を口に出す。新鮮で、少し照れくさかった。
年齢は、十六歳。この「アヴァロン・プロダクション」に入ってもうすぐ二年目だ。
(そうだ、薬を呑まないと)
ポケットから毎日欠かさず呑む錠剤を二つ取り出した。口の中に入れて、水で流し込む。
「いらっしゃいませ」
お客さんを迎える、お姉さんの声。リンはドアの方を見やる。
やってきたのは、ルナだった。
ほとんど会話したことはないけれど、リンとほとんど同じレッスンを受講している。
彼女は、はきはきと、それでいて上品に飲み物を注文した。カップを受け取り、店内を見回す。リンと目が合った。こちらにやってくる。
「やっぱり、リンだ。おつかれさま。あなたも次のレッスンまで、時間をつぶしているの?」
「おつかれさま、ルナ。わたしはこれを書いているの」
紙を持ち上げ、彼女に見せる。
「あっ! リンもエントリーするのね!」
「ルナも?」
「もちろん! こんなチャンス、めったにないわ。アヴァロン・プロダクションが誇る伝統のユニットに参加できるなんて!」
ルナは、フタ付き紙カップをテーブルに置いて、タブレット端末をカバンから取り出す。数回タップを続けて、リンの方に画面を向けた。そこには、リンのものと同じフォームが記載されたエントリーシートが表示されている。
「アタシも書いてるの」
リンは、表示されたエントリーシートの氏名を見た。ルナルクス・アルグレイス。彼女のフルネームを、はじめて知った。
「あのさ、ここ座っていい?」
「うん、いいよ」
ルナがお礼を言いながら、タブレットをテーブルに置き、カバンを足もとのカゴに入れる。
なんとなくいやな感じがした。この時間で、エントリーシートを完成させたかった。しかし、それができなさそうだ。
「エントリーシートで困っているところがあるんだ」
唐突に話しかけられる。やはり完成は無理そうだ。そう思いつつ、顔を上げる。
「ここなんだけど」ルナが、つぶやきながらタブレットに触れ、画面を拡大し、読み上げた。
「『性格』と……『自分をどう思っているか。他人からどう思われているか』ってあるでしょ。何を書いたらいいか、わからなくて……。リンはもう書いた?」
「わたしも、まだ書いてないよ」
リンも、ルナの言うことがわかった。確かに難しそうだ。
「次のレッスンまで、いっしょに書かない? 協力してよ」
「いいよ。わたしも困りそうだから。参考になればいいけど……」
「よしっ。じゃあ、まずは自分で書いてみようか」
リンは、うなずいて、視線をエントリーシートに戻す。まだ、空白のままの性格の欄は、意外に枠が大きかった。
自分の性格。これまで真剣に考えたことがない。知らなくて困ることなんてなかった。
(……どうしよう。何も書けない)
同じレッスンを受けている子からは「ポジティブだね」と言われたことがある。自分は、ポジティブな性格なのだろうか? 何かにチャレンジするのは好きだ。しかし、「ポジティブ」とは違う気がする。
(積極的というのであれば、合っていると思う。でも……それは、わたしが)
「いらっしゃいませ」
思考が中断する。別のお客さんの来店。同年代だけど、知らない女性だった。
手を止めて、マグカップを持ち、口をつける。ラテは、だいぶ冷めていた。
ふと、ルナのようすをのぞく
彼女は、下を向いて、タブレットに表示されたキーボードをタップしている。時おり考え込んでいるのか、指が止まる。しかし、その時間はわずか数秒だった。
自分の性格を理解しているのだ。リンは、うらやましく思った。自分にできないことが、簡単にできてしまうルナを目の当たりにすると、何かが心にぴりぴりとしみる。
ルナが顔を上げ、紙カップを持ち、フタを開けた。ふうっと息を吹きつけると、シナモンの香りが漂ってきた。
ルナが、リンの視線に気づいた。
「なに?」
「えっ、あぁ……一生懸命書いているなって」
彼女は、少し怪訝そうな顔する。
「まぁ、ね」
「どんなことを書いたの? 見せてもらってもいい?」
「ええ。いいわよ」
ルナが、タブレットをこちらに向ける。そこには、「向上心」「結果主義」「負けず嫌い」という文字が大きなフォントで入力されていた。内容を補足するようにルナが語りはじめる。
「アタシは、自分の理想を忘れずに毎日を過ごしているの。何かのイベントが終わったあと、ちゃんと振り返りの時間を作って、どうすればもっと良い結果が得られるかを考えているわ。
それから、プロセスは大事っていうけど、アイドルの世界は結果がすべて。だって、失敗したら、そこで終わりだもの。だから、アタシは結果の方を大事にしているの。
あとは、負けることが嫌いだわ。負けて良かったことなんて、ぜんぜんないもの。勝たないと、報われないのよ。『この人に勝った』とかって思えるのは、最大級のやりがいだよ」
ルナが一通り言い終えたあと、リンがタブレットを返却しながら質問する。
「ルナは、そんな自分のことをどう思っているの?」
「え? ああ、エントリーシートの質問だね」
彼女はタブレットを受け取ったあと、答えた。
「正しいなって思う。そうじゃなきゃいけないっていうか……。そういう性格であることは苦じゃないし。そんな価値観を満たせることにやりがいを感じているから」
「そう、なんだ」
ルナがじっとリンの目を見つめている。
「リンはアタシのことをどう思っているの? 参考にするから教えて」
リンは困った。エントリーシートの枠内にしっかりおさまるほど、ルナのことを理解していない。でも、ここまでの会話で、ルナに対して感じたことは、ある。
「どんなことでもいいよ。教えて」
ルナの催促に対して、リンは、それならと答えた。
「そうだね……ルナはすごすぎて相手にならない感じがする。研修生の中では、実力はトップクラスだからね。それに加えて、努力を欠かさないなんて、隙がなくて完璧だよ」
彼女は、うなずきながら、カップに口をつけ、中身をゆっくりと飲む。リンはさらに続けた。
「でも、なんとなくだけど、ルナに負けを強制されている感じがする、かな。ルナといっしょになっただけで、ルナが勝ち、相手が負けみたいな……。それがちょっと怖いっていうか……」
言い終わった直後、カップと前髪に隠れて良く判別できなかったが、彼女が眉をひそめたように見えた。そして……、
かんっと音を立てて、ルナがカップをテーブルに勢いよく置く。その衝撃で中身が少しこぼれてしまった。リンのエントリーシートの方に流れていき、大きな茶色の染みを作る。
「あっ!」
リンはあわてて、ハンカチでおさえて液体をぬぐう。
(……怒っているのかしら?)リンは、ルナのようすを確認する。
「ごめんっ! 大丈夫だった?」
ルナは申し訳なさそうな顔をして、手を合わせる。
「うん、大丈夫。これは下書き用だから。問題ないよ」
「へぇ、そう」
「あのさ、ルナ。もしかして、怒っ――」
「リンは! 性格のところ書いた?」
ルナが言葉をさえぎった。張り付いたような不自然な笑顔でリンを見つめる。目は、まったく笑っていない。
「……まだ、だよ。なかなか書けなくって……」
「じゃあ、アタシたちが、リンをどう思っているか、教えてあげる」
有無を言わせぬ雰囲気にたじろぎ、小さくうなずいた。
彼女は、リンを視線で押し倒すかのように強く見つめて、語りはじめる。
「リンって、いっつも焦っているよね。ばたばた、どたどた。騒がしいし、落ち着いてないし。ほんっと、みんな振り回されてるんだよ? それに、できもしないのに、いろんなことに立候補しちゃってさ。正直、見てて痛々しいよ」
ルナの顔から笑みが消えていた。
胸のどこかで、ちくりと痛みを感じる。しかし、その痛みは一瞬だった。リンは、へへっと笑いながら、テーブルのマグカップを見つめる。ルナと視線を合わせられなかった。
「わたしって、そんなふうに見られてるんだ! 自分では、積極的な性格なのかなって思っていたんだけど……なんか違うね。書き直さないといけないかなっ!」
ルナが、ため息をつく。タブレットをカバンに詰め、「もう行くね」と言って席を立った。ローファーが床を強くたたく。彼女は、前をまっすぐ見つめたまま去っていった。
しばらくぼう然としていると、店のお姉さんが布巾をもって、リンのテーブルにやってきた。ルナのカップからこぼれた液体をぬぐう。
「気にしない方がいいよ」
リンは、お姉さんを見上げる。
「なにをですか?」
「なにって……ルナの辛辣な言葉だよ」
「ああ、ぜんぜん気にしてないですよ! だって、わたしにとって、一番大事なのは『夢を実現させること』なんです。それを思えば、誰に、何を言われようが、何をされようが、ぜんっぜん問題になりません。夢は自分の手で実現させないと! ですもんねっ。
しかも、その夢が目の前に、自分でつかめるところに現れたんです。だから、今みたいなつまらないことなんて、まったく気になりません」
「その夢って……?」
「もちろん、このオーディションに合格し、『キャメロット』として、デビューすることです!」
リンは茶色の染みがついてしまったエントリーシートを見つめる。何度見ても、その紙は、きらきらと光り、輝いていた。
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