第七話 私を誰だと思ってる
脱衣所をあとにしてリビングへ向かう。
「ひーよーりーちゃーん」
ひょっこり顔を出すとテレビを見ていたひよりちゃんと目が合った。お風呂あがりで少しもふっと膨らんだ髪が可愛い。
「私の部屋いこー」
「うん」
ひよりちゃんはテレビから目を離してお母さんにぺこりと頭を下げる。
「おやすみ、ひよりちゃん」
「お、おやすみなさい」
階段を昇ると後ろにひよりちゃんが着いてきて、見慣れた電灯の下にある非日常に胸が高鳴った。
再び戻ってきた部屋は少し寒く、冷気によって甘い香りも薄くなっていた。
「お母さんとなに話してたの?」
「学校とか、バイトのこと」
「それ、マジの親子の会話じゃん。え? もしかしてひよりちゃんって私の妹だったりする? そういう展開でも全然おっけーだけど。近親相姦かかってこいって感じだけど」
「違うから」
近づけた顔が押し返されて頬がむにゅっと潰れる。
「私の話は?」
「したよ」
「未来のお嫁さんですって?」
「いや、あんな娘と一緒に寝泊まりするなんて自殺行為だ。身の危険を感じたらこれを鳴らしてね、って防犯ブザーを渡された」
「ひどくない!?」
ひよりちゃんの手には本物の防犯ブザーがぶらさがっていた。実の娘を信用しないなんて、なんて母親だ!
「まったく、両者同意の上なんだから何をしたって和姦なのに無粋なことしてくれちゃって。ねぇ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「あれ、なんでブザーに手をかけてるの」
そんなこんなで、夜は更けた。特別なにかをしたわけではないけど、なにもしなかったわけじゃない。
行動だけじゃ生まれない感情の揺れ動きを互いに楽しんだ、そんな夜だった。
とはいえ、お泊まりの本番はここからだと電気を消したあとも私はギンギンに覚めた目で隣で目を瞑るひよりちゃんをガン見した。
「怖いんだけど」
「私も怖い。こんな尊い生き物と出会えた奇跡が怖い」
あいにく布団は一つしかないので二人で詰めて使うことになった。まぁ昨日のうちに私が部屋の布団を今使っているの以外全部撤去したんだけど。
ひよりちゃんなら座布団を枕にするからいいよと言いそうだったので枕も庭の物置に突っ込んできた。ふっふっふ、これぞ完全犯罪・・・・・・! ああいや犯罪じゃない。
「安藤、もう寄っていい? 落ちそう」
「いいよ。というかもう裸で抱き合って寝ない?」
「遠慮しておく」
「じゃあ私だけ脱ぐね」
布団の中でもぞもぞ動いてぽんぽん服を脱いでいく。
「ねぇ安藤。これなに」
「パンツだよ?」
「下から沸いてきたんだけど」
「次はブラが生えてくるかも」
「来るとこまで来たな」
服を脱ぎ捨てると素肌に布団のやや冷たい感触があたって気持ちいい。自分で自分の体を抱くようにするだけでも心が落ち着く気がした。けど、これを私じゃなくてひよりちゃんがしてくれたら・・・・・・想像するだけでワクワクドキドキした。
「よいではないかよいではないか」
ひよりちゃんの言うとおり、来るところまで来たという感じだった。
そんな時、さっきのブザーの存在を思い出した。このままじゃマズイ! と思って飛び退くも、部屋は静かなままだ。
「あ、あれ? ブザーは?」
「机の上」
ひよりちゃんが指をさした方を見ると、確かに机の上に置かれていた。
「あ、あれ? なんで?」
「別に、いらないと思って」
「そ、そっか。そもそもひよりちゃんの方が私よりも強いもんね、なんかあったら得意の背負い投げで――」
「そうじゃないよ」
声が近くで聞こえる。存在も、思いも、すぐ近くで感じる。まるで入り込むように流れてくる。
「あたしは信じてるから」
「ひよりちゃん・・・・・・」
「何回も何回も、奇抜でおかしい出会いをしたけど。それでも安藤は、なにもしなかった」
「じゃあ今回が初夜ということになりますね!」
「しないよ、安藤は」
もう吹っ切れて襲いかかってやろうかと伸ばして手を、ひよりちゃんが握る。びっくりした。
まさかひよりちゃんの方から私に触れてくれるなんて思いもしなかった。こんなこと初めてじゃないだろうか。いや、初めてじゃない、のかもしれない。
私の知らない思い出が、ひよりちゃんにはある。過ごしたはずの時間が消えて、なかったことになっていく、両者とも忘れ呆けてしまえればよかったのに、私だけが楽をして、ひよりちゃんはどれだけ苦しいのか。想像もつかなかった。
体を横に向けてひよりちゃんと見つめ合う。
「安藤は、絶対に誰かを傷付けることをしない。いつもふざけて、誰かを笑わせて、困っている人を助ける。そういう奴なんだよ。昔から、はじめて会った時から、そういう奴なんだよ」
「そう、なんだ」
前に進むという言葉があるけれど、それは今の私にとってどんなことを指すのだろう。
前にテクテク歩く? 寝ながら? ひよりちゃんに激突して終わりだ。うーんそれもよさそう。けど、きっと違う。
蜜葉は言ってた。私たちは傷付くのが怖くて、リスクを避けてた。だから記憶について言及はせず、これまで平穏に過ごしてきたって。
なら私にとって前へ進むというのは、過去へ戻るということなんじゃないだろうか。
矛盾している。でも、いいよね。整然としたものなんて最初からありはしない。
「聞いてもいい? 昔のこと」
言うと、ひよりちゃんは少し迷った様子だったけど小さく頷いた。
「あたしね、両親がいないんだ。元々母子家庭だったんだけど、生まれてすぐにお母さんが死んじゃって」
「し、知らなかった」
「まぁ、親戚の人があたしを預かってくれてるから不便はしてないんだ。もう小さい頃からずっとこうだから慣れてるし、親戚の人もすごくいい人だから。けど、あたしは血の繋がった家族っていうのを知らない。今はそんなのどうだっていいって思えるけど、そうじゃないときもあったんだ」
暗闇の部屋の中、反響する声に耳を傾ける。
「小学校になるとさ、みんなお父さんお母さんの話をしててあたしだけ輪に入れなかったんだ。なんであたしだけ親がいないんだろうって泣きわめいてた時期もあって、そのせいでちょっとしたイジメにもあって、クラスで孤立してたんだ。あたし」
「イジメ!? 誰!? 誰がイジメてたの!? 許せない!」
「ありがと。その時も、そうやって安藤はあたしを助けてくれたんだよ」
「え? そうなの? ていうか同じ学校だったの?」
掘れば掘るほどとはこのことだろうか。
納得するのと同時に、それほど自分の過去が埋もれてたのかと思うとゾッとしない。
「イジメられてたあたしを安藤が助けてくれた。それが出会い。おかげで行きたくなかった学校にも毎日行けるようになった」
「そうなんだ! よかったー」
「それからもあたしは安藤ばかりに付いていった。他に友達なんていらない、安藤さえいてくれたらそれでいいって思った。その時からあたしは、安藤のことが、好き、だったんだと思う。憧れとか恩とか、そういったものが全部、好きって感情に塗り変わっていった」
へー、そうなのか。ひよりちゃんは私のことが好きなのか。
そうかそうか。
・・・・・・・・・・・・。
「知ってた! 私たち相思相愛だよね! 知ってたよひよりちゃん! キスしよう!」
「けど、そんな日も長くは続かなかった」
「あれ? 話が終わってない」
「ある日あたしは安藤に告白をしたの。恥ずかしかったけど、自分でもおかしいって思ったけど、どうしても気持ちを伝えたかった。安藤はあたしの気持ちに応えてくれた。安藤もあたしのことを好きだって言ってくれたし、それどころかあたしのほうがずっと好きだって競い合ったりもしたんだよ。そうやってはしゃいだ次の日、安藤はあたしの全てを忘れてた」
「だー! なにやってんの私! ここからがいいところなのに!」
「これがあたしと安藤の初めての出会い、そして別れ。出会いあれば別れありとは言うけれど、あんたとあたしは出会ったら必ず別れがくる。ねぇ安藤、あんたはあたしのこと、好き?」
「当たり前じゃん! 好きだからエッチしたんじゃん!」
「いやしてないけど」
しまったまたねつ造してちゃってた。隣で私を見るひよりちゃんが可愛すぎてもうエッチしたあとのピロートークなのかと勘違いしてたみたい。てへ。
「でも、そっか。安藤はもうじき、あたしを忘れるんだね」
「あ・・・・・・」
「この楽しい時間も、なにもかも」
「ひよりちゃん・・・・・・」
ひよりちゃんは、泣いていた。
暗闇で涙は見えないけど、分かる。
声と肩が震えて、ぎゅっと枕を握りしめて。
私に触れようとする手が何度も引っ込められて。
迷いと後悔と悲しみに包まれている。
「タマ、ちゃん・・・・・・」
小さな声が、縋るようだった。
「あたしの方が、タマちゃんを好きだよ」
ドクン、と鼓動する。
「あの時、あたしを助けてくれてありがと。それから、ずっと素っ気なくしてごめん。あんたがあたしを嫌いになれば、好きにならなければ、忘れないって思って、ごめんね。タマちゃん」
いつものクールな声じゃなかった。
泣きつくようなそれは、紛れもない。昔から仲の良い、友達同士のものだった。
「ひより、ちゃん・・・・・・」
それがどうしようもなく愛おしく、手を伸ばして触れると、体の芯が熱くなる。
抱きしめたい。抱きしめて、頭を撫でて、背中をさすって・・・・・・私の欲望はそこで止まる。ほとばしるような、滾るような、いつもの感覚がない。
ただ優しく、温かいものが胸の内に宿る。
これが下心ではない、本当の好きというやつなのだろうか。
「タマちゃん・・・・・・大好き」
幼い時に戻ったようなひよりちゃんの声色を、私は捕まえたい。何もかもを包み込んで、その涙を笑顔に変えてあげたい。一緒に笑って、幸せでいたい。
――ズキン。
瞬間。
頭に激痛が走った。
意識をまるごと削ぎ落としていくような痛みに、私は目を歪める。
滲んだ視界に映ったひよりちゃんは、焦ることなくそんな私をじっと見ていた。もう何度も何度も、こんな私を見てきたのかもしれない。
好き。
私も好きだよひよりちゃん。
その言葉が外に出ることはなく、代わりに脳内をぐちゃぐちゃにかき回す。
瞼が降りて、暗闇に落ちる。
微睡みにも似た意識の沈着を感じた。
「あれからもう何年も経ってるのに、もう何度もお別れしてるのに」
視界を失った中、残った聴覚が確かにひよりちゃんの声を捉える。
「あたしのことを好きでいてくれて、ありがとう」
抱きしめるものとはほど遠い微かな感触が指先から手のひらに伝う。手を合わせて、ぎゅっと握った。
「あたしのことを忘れてくれて、ありがとう」
唇に、何かが触れる。
柔らかく、しっとりと吸い付くようなそれは、微睡みへ落とすには充分な心地よさだった。
意識が沈んでいく。
目を瞑って、朝が来る。いや、違う。
これは眠りなんかじゃない。
なんかじゃないんだけど、あらがえない。
私は重力に逆らうことができずに、落ちていく。
「おやすみ、タマちゃん」
その言葉を最後に。
私は好きな人のすべてを忘れていく――。
忘れて――。
――。
――忘れてたまるか。
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