第四話 別れ

「え――」

「うわやっぱり! ちょう可愛い! 髪も綺麗・・・・・・! そのマフラーでもふってなってるとこに指突っ込みたい。突っ込んでいい? あ、そのキョトンとした表情も好き! つり目も好き! まつげが長くて好き! あ、鼻に雪乗っかってるよ? 好き!」

「ちょっ」


 たとえば、隕石が落ちて地球が一瞬にしてなくなるような。そんなような突然の襲来だった。


「あー! 黒スト、黒ストいい! 紺色のスカートにめっちゃ似合ってる! あ、ごめん! なに着ても似合うよ! ううんもはや何も着なくても似合うよ! 何も着ないでくれる!?」


 少し赤みのかかった茶色のくせっ毛は、輪郭を沿うように巻いている。まだ幼さの残る童顔は、表情が柔らかくコロコロ変わり、ムートンコートが小さな身体を覆って、動かしづらそうな腕をそれでもパタパタと懸命に振る。何度も見て、何度も見たかった光景だ。


 騒がしい、けど心地良い。その声と、顔と、姿と空気に、あたしの身体は前のめりになって、片足に体重が乗る。


 タマ、ちゃん・・・・・・。


 唇に熱がこもる。胸が高鳴る。身体全体が温かくなって、白い息が外に出る。


「あ・・・・・・」

「私、安藤珠樹っていうの! あなたの名前は?」

「・・・・・・・・・・・・」


 伸ばしかけた手を、引っ込める。


「・・・・・・教えない」

「って、あれ!? なんで!?」

「・・・・・・・・・・・・・知らない人に、教えるメリット、ない、でしょ」

「それなら大丈夫! 今から知り合うから! ねぇねぇ好きな食べ物は!? 好きな飲み物は!? 可愛い服だね! どこで買ったの!? ・・・・・・スリーサイズは!?」

「・・・・・・・・・・・・」

「照れなくていいよ! 私、シュッとしてる体型のほうが好きだから! だってそっちのほうが骨格が強調されてよりエッロく見えるでしょ!? あっ、そうそう! 鎖骨見せて――」

「帰る」

「あれぇ!?」


 なんでなんで私の超絶口説き文句が、なんてものが語尾にくっついてあたしを覆う。何度も何度も、あたしを誘う。それを、振り払う。


 誓ったのだ。今度こそって。


「待って待って! ね、よかったらどこかで休憩しない!? あそこのホテルぶふぁ! いや今のウソ! つい本音が、じゃなくてっ! ああもうホテルでエッチなことしない!?」

「さよなら」

「がーん!」


 踵を返す。反対を向くと、身体が軋んだ。


 ホテルに行きたくないわけじゃない。そういうことに興味がないわけじゃ・・・・・・ない、ない。けど、知っている。タマちゃんとそういう場所へ行っても、何も起こらないことを。


 優しいタマちゃんと臆病なあたしがいても、ただ互いを好きになるだけだ。ゆるやかに、まるで溶岩が流れ、何かを溶かしていくように。


「・・・・・・・・・・・・」


 振り切るように、あたしは走った。


 逃げるように先延ばしにするのではなく、ここで、断ち切る。


「わー! 待ってよー!!」


 後ろから声が聞こえて、ドタドタと大きな足音が近づいてくる。相変わらず何かを追いかける時の足は速い。


 肩に手を乗せられて、あたしはほぼ反射的にその手を引っ張った。


「うおわっ!?」


 その軽い身体を背中に乗せて、地面に放り投げる。ビタン! と靴が地面を鳴らして衝撃を吸収してくれた。


 あたしの目の前でタマちゃんの頭が揺れて、ぽかんと呆けたように虚空を見る。そうして少し経てば、その小さな身体はこちらを向く。


「す、すごーい! 今ぐりんって回った! 今のなになに!? 背負い投げ!?」

「・・・・・・・・・・・・」


 すごくなんてない。


 だってあたしはタマちゃんの真似をしているだけだ。あたしなんかよりタマちゃんのほうがよっぽど上手かった。


 それなのにタマちゃんのあたしを見る目はキラキラしていて、ああ、本当にもう・・・・・・と鬱屈に心が陰る。


「ああっ! その見下ろすような視線も好き!」


 自分の腕を抱くようにして感悦に浸るタマちゃんに、頬が綻びそうになる。なんとか我慢して、口元をしっかりと結ぶ。


「次は手加減しないから」


 そう言って、あたしはタマちゃんを睨む。冷たく、鋭く。練習の通り、あたしは情を捨てて泥人形のような心を保つ。人形に、心なんてないか。


「それじゃ」


 今度こそ、とあたしは去ろうとする。タマちゃんの方も今度こそ、とあたしの背中に抱きついた。というよりも襲いかかった。


 あたしはそのまま地面に倒れ、覆い被さるようにタマちゃんが上になる。灰色の空が晴れていくようだった。


「はぁ、はぁ・・・・・・」


 タマちゃんの息切れは運動によってか、それとも興奮によってか。少々甘いものが混じっているので、きっと後者なのだろう。


 あたしのどこがいいんだろう。自分で自分の外見は評価しづらい。けど、誰かが虜になるような魅力はないように見える。


「ぐふ、ぐふふ」


 それでも、こんなあたしを好きと言ってくれる人がいた。


 ちょっと度を超えて、狂うように、好きでいてくれる人がいた。


 いた。


「こっ、これはねしょうがないんだよ。大人しくしてくれないから。私の言うことを聞いてくれないから・・・・・・! はぁ、はぁ、ぐへ、じゅるっ・・・・・・おっとよだれが」

「離して」

「ダメだよ。今から私に犯されるんだから。はあはあ! あー近くで見るとすっごい、可愛い。可愛くて、エッチ。そうやって足をくねらせて、切なそうな顔をして・・・・・・はっ! もしかして私誘われてるのか!」

「違うけど」

「違うの!? じゃあなんで、そんなエッチなの!?」

「いや知らないけど」

「じゃあおじさんが教えてあげるよ!」


 おじさん・・・・・・?


「大丈夫、先っちょだけ! 先っちょだけだから!」

「先っちょも奥もないでしょ」

「奥!? ちょっ、そんな卑猥な単語が、えぇっ!? あ、やば。その何ものにも染まらないような小さなお口からエッチなセリフが出たって考えたら頭クラクラしてきた」


 あたしとタマちゃんの間にある温度差はなんなのだろう。知っているのと知っていないのとでこんなにも変わってくるのか。まるで紙粘土のようだった。次から次へと形を変えて、けど時間が経って固まればもう手の施しようがないほどに固形化する。それが良いものであればいいのだけど、悪いもののまま固まってしまうと、今のあたしのようになる。


「どいて」

「ふぎゃ!」


 額を指で弾くと、タマちゃんが仰け反って変な声をあげる。


 その隙にあたしは横に転がって立ち上がる。タマちゃんは・・・・・・轢かれたカエルのようにひっくり返っていた。


「それじゃ」

「や、やだ!」


 何度目か分からない別れの挨拶に、タマちゃんはまだ食い下がらない。


「やだやだ! もっとお話したい! もっとなめ回すように見てたい! もっとなめ回したい! 首筋から鎖骨にかけた舌を這わせたい! だから待って!」

「待つ理由になってないと思うんだけど」

「え? そうかなぁ、えへえへ」

「・・・・・・・・・・・・もう行くから」

「わあ照れてる場合じゃなかった! 待って待って!」


 一歩、一歩進む。汗が滲むほど、その足取りは重い。枷でも付いているのか。付いているんだろう。一生外すことの出来ない、呪われた足枷が。


「好きなの!!!!」


 タマちゃんの叫び声が、冬の空に轟いた。


「私、あなたが好きなの! 名前も知らないけど、全然知らないことばかりだけど、好き! 絶対好きなの! こんなの、こんなの初めてで、だから・・・・・・もっとあなたを知りたい! これじゃ理由にならないかな!」

「・・・・・・なんで」

「だって、ちょうちょうエロイんだもん! スラっとした足に白い肌、細い首筋に艶やかな髪、長いまつげにつり目気味の琥珀色の瞳、綺麗な曲線を描いた腰つきに丸っこい肩周り、それに落ち着いた口元と佇まいに抑揚の少ない穏やかな声色。その全部全部が好きなの! 知らなくても、見ただけで、好きになったの!!!!」


 だから、だから嫌なんだ。


 会ってしまうだけで、こんなにも幸せだ。それを捨てなきゃいけないのは、こんなにも苦痛だ。


「だから――!」


 ナイフを握って、その刃先をどこへ向けよう。逡巡して、自分へ向けた。狙うは心臓。狙うは胸。狙うは心。全てをズタズタに切り裂いていく。


「もうやめて」


 血がドロリと喉奥を流れていく。お腹の奥に溜まって苦しい。声を出すだけで苦悶に顔を歪めてしまう。


「もう、あたしに関わらないで」

 

 あたしの低い声に、タマちゃんも驚いたようでいつもの前のめりが消えていく。


 心臓を貫いたナイフを、抉るように突き立てる。まだ、まだ、と。暗闇を目指す。


「知らない人にそんなこと言われても引くだけだし」


 タマちゃんにそんなこと言われても苦しいだけだし。


「そもそも人に襲いかかっておいてよくそんなことが言えたね」


 これだけの時を経たのによく同じことを言えるね。


「あたしは」


 あたしだって。


「あんたのことが嫌い」


 タマちゃんのことが好き。


「大嫌い」


 大好き。


「二度とあたしの目の前に現れないで」


 二度とあたしの目の前に現れないで。


「・・・・・・・・・・・・」


 感情と言葉が、ぐちゃぐちゃだった。


「え、っと」


 タマちゃんも、そんなあたしを怪訝に見つめる。


「あ、あの。もしかして、泣いてるの?」

「・・・・・・ッ!」

「あ、ちょっと!?」


 今度こそ、あたしは走った。誰も追いつけないような速さで、誰も求めないような冷たさで、寒い冬に溶けていく。


「はぁ、はぁ・・・・・・!」


 息切れが、自分の走った距離を教えてくれる。足はもうフラフラで、視界も不明瞭だ。けど、止まれない。止まったらきっとあたしは振り返ってしまう。


「・・・・・・・・・・・・っ」


 頬を伝う涙が水滴となって弾けて消える。


 消える。


 違う。


 消えないように。


 デタラメに、がむしゃらに走る。鬱蒼とした林を抜け、更地に出る。木々が薙ぎ払われ、切り捨てられた場所。有ったものが無くなった、そんな寂寥漂う景色を目に焼き付けて、未来のあたしを照らし合わせる。


 納得がいって、足を止める。


 ここでなら、きっと大丈夫だ。


 心を決めて、空を見る。


 気付けば雪は雨となって地上を濡らしていた。


 

 自分ってなんだ。


 この身体のことだろうか。それとも、心だろうか。


 心ってなんだ。脳? 心臓? それとも、それ以外の別の物?


 魂ってなんだ、存在ってなんだ。生きるってなんだ。


 


 今なら分かる。


 それはきっと――。

 

「ばいばい、タマちゃん」


 最後に別れを告げて、あたしは。


 未来と思い出を。


 殺した。

 

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