第8話【おんなとけもの】
ひとの形をとるようになって百年よりも多くを経たが、ひとの
彼らの言う
顔の違いは判別できるし、ひとがどのような顔を美しいと感じ、どのような顔を醜いと考えるのかは検討がつく。
だが
にもかかわらず、一目見た瞬間に、その女がうつくしいということが分かったので、
姿を
触れそこねたのは、実体がないからか、それとも実体を捕まえられないようにか。
実体があろうがなかろうが、夜しか惑わさぬところをみれば、正体を見られて困ることは察しが付く。
近づいても
無論見当はつけてあるが、
そこで用意しておいた仕掛けの出番だ。
事前に木と
縄に
まるで縄の存在に、初めて気がついたかのような反応だ。
こんなあからさまに怪しい縄のことが、気脈を通わせるまで”見えていなかった”かのようだ。
さらに
縄が木を締め上げる。
空間がきしむような、ひどく
この音は実際に空気を震わせているのか、それとも俺の頭の中に響いているだけなのかはわからないが、正体は考えていた通りだろう。
あの木が本体なのだ。
己の体にくくった縄を
悲鳴らしき音が止まないなか、女はなんとかひとらしい姿を整えて、哀れそうに
なぜこのようなひどい仕打ちをするのか。
わたしがなにをしたというのか。
耳を傾けずに縄を
まるで女が話しかけ縋りついているかのように感じられるが、木には口もなければ耳もない。
その懇願が人の言葉のように思われるのなら、それは夢と同じことだ。
目を持たぬゆえに視覚情報を再現できないあの木は“うつくしいおんな”という概念を見せようとし、それを要求された俺の
もう一度女の顔を見れば、さっきとまるで違う顔に見えるし、はじめの顔はもう思い出せない。
木に近づくにしたがって、うっすら甘いにおいが漂い始める。
おそらくみなこの匂いで以って眠らされたに違いない。気づいて息を大きく吸い込んで肺に貯めておく。
仙には人ほどには効かないだろうが、用心するに越したことはない。
更に近づくと、女はまるで狼のような、しかし
反射的に腕をかざして身を守ろうとする。
噛みつかれ、痛みを感じたようにすら思うが、それはほんの一瞬で、振り払ってみれば感触すらない。
これも幻だ。
やはり刀を置いてきたのは正解だった。
惑わされて縄を切らされたら元も子もない
更に縄を
けものごとき姿のそれは、襲い掛かるそぶりを幾度か見せたが、もはや相手にされないとわかると、ふたたび女の姿に
このようなまねをして、どういうつもりか。
いったいわたしになにをするつもりか。
木の本体にたどり着く。
生き物を捕食しようとしていたならば、獣の
あくまで
仕込みはもう一つある。
隠していた
口元から吹き出すように炎が上がる。
周囲が一瞬明るく照らし出されて、その明るさに女の姿がかき消えた。
視界が
木、そのものから、たじろぐ気配が伝わってくる。
かつて、酒は気分が悪くなるから飲みたくない、と言ったら、
そうすれば気分が悪くならないという。
そうまでして
飲んだふりをして、後で
詳しくは言わないが、師父の酒に対する意地汚さにはあきれるばかりだ。
あのどうしようもないと思っていた術が、まったくこんなときに役立とうとは。
どんなくだらないことでも習っておくものだ。
『やりすぎだ、と言いにきた』
声には出さず、
木は押し黙っている。
『三郎を解放し、村人を惑わすのをやめると約束しろ。約束できぬのならば、おまえのうろにこの火種を入れる』
途端に、強烈な感情が空気の中で、爆発するように膨れ上がったのが分かった。
しらなかった。こういったいきものはこんな風にして
ひりひりと肌を焦がし、心の臓を締め上げるような、息苦しくなるほどの恐怖が肌から入り込んでくる。
脅しが効いていることを実感する。
このいきものは、怖れを感じるほどに育ってしまっている。
こちらの
じつのところ、
布地にというならともかく、
この木はそのことが分かるほどの知識はないようだ。
だが、炎の恐ろしさについてはわかるらしい。
ひとの気分を操って、まるで話をしているかのように感じさせることのできる
ひとどもをどこへやった。
頭の中で声がする。
『なるほど、目隠しは役に立ったか』
村人の気配がわからなくなっていることに気づくほどだから、影響を及ぼせる範囲はそれなりに広いらしい。
三郎を操って邪魔でもされたら厄介だろうとおもったからだ。
村人たちからはずいぶん変に思われたようだが、役に立ったなら
村人をあの家に集めるようにも言っておいたから、他の誰かを操ることもできないだろう。
『おれにも聞きたいことがある。
とりやけものからせいきをとると、しんでしまうことが、あるゆえ。
ああ、そうだ、そのとおりだ、と思う。
山野(さんや)で生きるものたちは、ひどく疲れるというそれだけで、たちまち死に接する。
ほとんどのいきものにとって、生き延びることは、あまりにむずかしい。
『だれも死なせるつもりはないということか?ならば
あれはいつのまにか、よばなくともかってにくるようになった。
『勝手に来たところで、精気を盗らなくともいいだろうに』
むこうからせいきをくれるというのだから、ことわることがあろうか。
案外とふてぶてしいことを言う。
あるいは、おれたちとは倫理観が違うのだろうか。
ほんとうのところ、この木を害そうと思うのならば、武器や火など持たなくても容易にできる。
この身の大力で、折るか抜くかでもしてしまえばいい。
だがこの木が、これほどまでに物分かりのするこの木が正体だとはっきりした今、そんなことはしたくなかった。
『このままだと、俺がお前を害さずとも、村人たちがお前を切りに来るぞ。ひとから
それはほんとうか。うそをつくならこちらもかんがえがあるぞ。
考えがあるというのははったりではあるまい。
村人たちを瞬時に眠らせたところを見れば、
『ほんとうだ。村人たちが、これ以上お前を怪しまないように、言い訳も考えてやる』
木はしばらく考えているようだったが、やがて約束する、と応えた。
『よし、約束だぞ』
互いを結びつけた縄をほどくために
縄をほどきながら気が付いた。
そういえば、
この木は近づいたものに対して、おんなやけものを見えるように思わせ、甘い言葉が聞こえるように思わせ、感情を撫で操るが、それはあくまで一方的な働きかけで、こちらの声は、俺のような
しかし、そうだとしたら、この木はどうやってひとの言葉を学んだのだろう。
この木の見せる幻には、つじつまのあわぬ見た目がいくらかあった。
あれらの幻は、この木がこれと考えて像を結んだのではなく、俺たちの頭の中にある、うつくしげなおんなや、おそろしげなけものを、うつつのようにみせただけのものだからだ。あれらが夢の中で見たかのように、道理にあわぬのはそれゆえだ。
目を持たぬいきものには、そのようにして幻を作るよりほかない。
だが言葉の方は、あまりに
もしかしたらこの木は、見ることはできなくとも”聞く”ことはできるのではないか。
ほどいた縄をすっかり巻き取り、帰ろうかというそのとき、ふと思いついて声に出してみた。
「あとひとつ。あの死にかけている若者に
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